思い出したこと

小学校低学年の時、年に一回、学期末の終業式に町内会の人達と帰る会があった。ぼくは清水の恵比寿町というところへ住んでいた。

恵比寿町はとても狭い町内で、各町内の教室に生徒が集まると、恵比寿町の教室がないではないか。

そもそも恵比寿町は追分三丁目と追分四丁目に挟まっている町内だった。低学年の時、どこから追分三丁目、とごから追分四丁目すらわからなかった。一体どこの教室かと廊下を独りうろうろしていたら、先生にどこの町内かを聞いてきた。ぼくは、

「恵比寿町」

と答える。しかし先生も恵比寿町を知らず困っている。後で知ったが、当時の恵比寿町は新たな町内ということだったらしい。ぼくは幼稚園を出てから引っ越して来たので、土地勘がまったくなかった。

その先生は近くに何があるか聞いたので、中学と答えたら何となくわかったらしく、追分四丁目の教室に入れられた。

そして、帰ることになり、四丁目の人達と集団で帰る。自分の家近くにある中学校を過ぎてもだれも別れない。四丁目はまだ先であるからだ。

 本当はここで別れればすぐそこが家という時、伝える勇気はなく、結局追分四丁目まで来てしまった。みんなが散らばった頃、ぼくもこの辺に住んでいる振りをして白々しく別れた。そして来た道を逆に帰った。

 そこで初めて追分四丁目の教室でないことを知った。

翌年もまたあり、今度は追分三丁目の廊下をうろついていたら先生に質問される。すると恵比寿町は追分三丁目の部屋でいいらしい。

 近所の生徒もいた。帰るとやはり三丁目でよく、堂々と帰った。

今から思うが、あまりの狭さに学校側も三丁目と合併した方がいいとしたのだろう。

それと町内対抗のソフトボール大会が小学五年時からあった。それに参加したのだが、やはり追分三丁目という町内名だった。しかし練習は恵比寿町の広場だ。ちなみに練習は朝五半から七時までやる。

この町内ソフトは小学四年から参加でき、ぼくは小学五年、六年時に参加した。守備はサードだ。自慢ではないが結構上手かった。

なぜかと言うと、野球が好きになった頃から町内ソフトのために、密かに練習していたからだ。小四の時はまだヘタだったから参加しなく、黙々と練習をした。壁にボールを投げて捕ったり、友人とノックをして鍛えたので小五から出た。

そのお陰でサードのポジションだ。だけど追分三丁目のメンバーは二年間とも人数がぎりぎりの十一人だった。

それなので四年生からの参加でもレギュラーになれたのかもしれない。

小六時、小四の子でもレギュラーになっていた。それならぼくも小四から出ていればなと思った。その小四の子にはあだ名があった。

 グローブがいかにもオモチャ屋で売っているビニールに入った野球三点セットのグローブで、そのグローブを見たメンバーが『これ十円ぐらいだな』と言ったらみんなは大ウケし、小四のあだ名が『十円』になった。十円のグローブは小さいため、ノック時のボールは収まらず必ずミスをする。

たまに十円がボールを捕ると、メンバー全員の歓声が上がる。十円の守備はセカンドだったが、ミスる率が高いため、ライトの人がセカンド寄りにいて、穴埋めをしながら試合に出ていた。

結局十円は全試合をそのグローブで出場した。今思えば凄いやつだ。

翌年、ぼくは中学の帰り、恵比寿町の広場で町内ソフトの練習を見かけた。すると十円がいた。十円のグローブは真新しく、七千円位のグローブになっていた。十円も五年になったので、四年にバカにされずにすんだ。でも六年生からは『十円』と呼ぶ声が聞こえた。



小学三年のとき七夕豪雨があった。ぼくの小三と言えば問題児の頃だった。朝、義父が車で仕事に行ったと思ったらすぐ帰って来た。

義父は恵比寿公園の辺が湖状態と言う。外に出て見るとその通りだった。洪水で学校も休みになるが、登校拒否をした頃で意味がない。

恵比寿町は自分の家や近所は浸水の被害はなかった。だが公園から先は洪水になっている。テレビでも各都市が洪水の被害になっているのを放送していた。

一体どうなっているのか中学校へ行ってみたら、非難している人達がいる。それに中学近くの大沢川は溢れている。川と道の区別がつかない。幸い中学は高台にあるため被害はない。

その中学に自衛隊のヘリコプターが下りた。初めて目の前で巨大なヘリコプターを見て感動した。食料や物資を下ろしている。その時、ぼくは非難をしていないのにカンパンをもらい初めて食べた。

カンパンと言うのでパンなのかと思えば、味のないビスケットという感じだった。

午後になると水が引いてきた。非難していた人達が水に浸かりながら家の様子を見に行っている。完全に水が引いていなく、大人で足のもも位までまだ水がある。

近所の子達が水に浸かりながら楽しく遊んでいる。それを見ていたら、自分も洪水の水に浸かりたくなった。水泳が嫌いなくせにと自分を攻める。そして服を着たままじわりじわりと入り出した。深さが腰辺りでちょうどいい。他の子たちは泳いでいる。ぼくは泳げないくせに平泳ぎのマネをして泳いでいるふりをした。水が汚いせいで、足をついているのをバレていなかった。洪水で遊んだ後、恵比寿公園の水道で体を洗い家に帰ると、服は水で濡れて当然怒られた。

この時の被害は歴史に残った。他の家が被害に遭っているのに、洪水で遊んだことが後々罰に当たる。

それは二十二歳頃、自分の車が台風の大雨で浸水してしまい、どうにもならなくなり廃車となった。小三時代のつけがやってきたのだろう。



小学四年になると、委員会やクラブに入らないといけない。小四時は理科委員会と地図クラブに入った。その理科委員の時、体育館で行う全校集会でビーカーやフラスコの洗い方をステージでマイクを持ち説明したことがある。あの時は嫌々でかなりの緊張だった。

まさか理科委員会に入ってステージに立つとは思ってもみなかったからだ。 クラブは地図クラブに入った。ワタという友人が入ったからぼくも入っただけで興味はなかった。静岡県の地形を紙粘土で立体に造った覚えがある。

五、六年時の委員会とクラブは同じ。委員会は掲示委員でクラブはマンガポスタークラブだ。

掲示委員はよくわからなかったが、その名の通り掲示物を貼ったりした。なんで入ったかと言うとだれも入らなかったので、穴埋めに入っただけ。

マンガポスターは漫画を描いたり、『廊下を走るな!』などのポスターを作った。これも興味があったわけではなく、マサという友人が入ったから自分も入った。なんとも目的のない自分だった。



小学五、六年時の担任の名は浜田先生だった。この先生は印象深い。日曜の休日には生徒達をミカン狩りやイチゴ狩りに連れてってくれて楽しかった。ただ怒る時もある。 

 ある日、帰りの会の時、クラス中がおしゃべりで騒がしくなる。

 先生は様子をうかがって黙っていた。五分たってもまだうるさい。

 先生を見ると黙っている。

 すると先生が突然大きな声で言った。

「よーし、みんな雑きんを持って体育館のステージに行け!」

文句を言いつつ、みんな嫌な予感を感じながら雑巾を持って行く。

 ステージに行くと舞台の後ろで一列に並べられ、

「お前ら、一人往復百回舞台を拭け」

と言った。えーとなったが、みんな理由もわかっているし、先生に厳しく言われたので罰として行った。舞台の前後は五、六メートルだ。男子が百回行っている時、女子が回数を数えることになる。

この往復百回はかなり大変で、終わった頃には汗だくで足も痛くなる。女子も百回やらないといけない。体力がない子へは声援をしながら百回やらせる連帯責任だった。

全員終わりクタクタで教室に帰ったら、なぜ往復百回になったかを話し合い、二度とないようにと先生に説教をくらって解散だった。

しかし、忘れた頃になると帰りの会の時、また騒がしくなり、先生は黙りだして『ヨーシ、雑巾もて』とまたステージを往復百回。

この往復百回は五、六年の二年間で十五回位はやったと思い起こす。もう浜田先生は引退しているはずだが、他校でやっていただろう。

帰りは騒がしいが、朝は静かだ。男女順番に三分間スピーチがあった。これは朝の会に何でもいいから三分間話したり、クイズ、手品、だじゃれ、歌などをすることだった。

ぼくは手品とクイズをよくやった。ネタがないときは、好きですか嫌いですかをやった。

 この好き嫌いはみんなよく使っていた。例えばクラスメイトのだれかを指し、     

「好きですか嫌いですか?」

と聞く。相手は、

「好きです」

と答える。

「なぜですか?」

「美味しそうだから」

と相手が理由を答え、ぼくが答えを言う。

「たわし!」

とこんな感じだ。ただし、汚い物やひわいな言葉は禁止であった。

楽なスピーチなため週に一回、だれかがやれば充分だ。週に二、三回も続くと飽きる。この三分間スピーチは先生もあったが、先生のは三分以上でみんなぶーたれていた。

あと五、六年時、夏休みの宿題に自由研究があった。この研究は何でもよく夏休み中、研究内容を毎日観察し、その様子を模造紙に書いて二学期に一人ひとり発表しなければならない、気の抜けない宿題だった。ぼくは五年時、『カビの研究』を行った。

汚くなるが、タマゴを器にあけカビができるまでを観察していく研究。しかし、日々が過ぎるとタマゴが腐って家中臭くなり、母に怒られ一週間でやめた。この先どうしようかと思っていたら、たまたま家にあった食パンにカビが生えていたので『よし、これでやろう』と一挙に変更する。

模造紙には腐っていくタマゴの絵を書いてしまったので、パンと平行して研究をしてたことにし、カビが生えてないパンの絵から書いた。そしてなにかとぶじ研究を終わらせた。パンがとんでもない状態なのは言うまでもない。

六年時はなんと二日で終わらせた。題して『物の浮き沈み』だ。

当時、夏休みになっても自由研究は何をやるか思いつかず、とうとう八月二十五日を過ぎてしまった。その日、風呂に入って考えていた時、ふと思いついた。研究は自由だから、風呂を使って物が浮くか沈むかを三十日分、一日一個としてつまり三十個やればいいのだとなった。

早速、その日から家中のあらゆる物を三十個風呂へ持っていき、浮くか沈むか実験をしてノートにメモった。果物ではナシ、スイカなどで、キュウリなどの野菜類、ナベやフライパン、食器類、冷蔵庫にあった魚のアジ、自分の服類など親に怒られながら何でも行った。次の日に絵と結果を模造紙に書いて終わらせた。

 二学期になりぼくの発表の時、先生に何か言われたが、ごまかしながら発表した。一応、自由な研究であるからだ。



小学校には卒業式の練習があった。卒業するのだから練習なんて必要ないじゃんと思う。歌の練習や一人ずつ証書の授与のもらい方など、心の中ではうんざりしていた。

そして卒業式の日、先生達はスーツで決まっている。式が始まり段取りをこなし、だんだん佳境に入る。授与式も終わる頃には数人の女子が泣き出した。練習なしでの卒業式なら泣くのもわかるが、あれだけ毎日練習をして段取りもわかっている。泣くなと思った。

 どうせ中学校もほぼ同じで自分は泣けなかった。しかし、ハンベソをかいてしまう。   

 卒業式が終わり、友人とキャッチボールの約束をした。途中、別の友人宅へ寄り道していたら結構時間がたっていた。急いで家に走って帰ると途中、派手に転んでしまった。膝から結構な血が出ていた。あまりの痛さに半べそをかいていたのだ。

坊主頭の中学に入ると、部活や勉強でいきなり忙しくなった。もう小学生のように遊べなくなる。そんな中学生活でも授業が終われば掃除がある。掃除というものは全員でやるのが普通だが、ぼくが通っていた中学は掃除中、クラス生徒の半分はマラソンをやらなければならない。

理由は『東海道にチャレンジ』という企画だった。略して『東チャレ』と称する。この東チャレは過去の代々からあったらしく、卒業までに二百キロ走ることだった。運動部は部活でよく走らされ、二百キロを早く達成できるが、文化系部はあまり走らない。そのため掃除の時にマラソンをさせたのかも知れない。

例えば自分の班が今週は掃除当番だったら、来週は東チャレというサイクルであった。東チャレは自己申告で東チャレカードに自分で記入する。だけど先生がチェックするのでごまかせない。たまにうその申告を書いたら担任に追及された。    

 卒業近くなって、二百キロ近くないと放課後に走らされる。自分も東チャレのため放課後に独り走ってはいた。運動部ではないのにまぬけな感じだった。         

一体何のためのマラソンなんだ。多分、健康な体でいなさいと言うことだろう。    

 こんな中学生活で一年生から三年生までの生徒が、半分掃除で半分はマラソンというおかしな中学。全員二百キロを走って卒業したのかな。



低学年時トコヤが嫌いだった。まずトコヤに行くと前髪をピッタリそろえられ変な髪形になるのと、カミソリで首の後ろを剃られるのがくすぐったく耐えられないことだった。

 小一の初め、近くのトコヤに母と行き母がトコヤの人に前髪をそろえてなど、髪の仕上がりを言っていた。それ以来、そのトコヤに行くと必ず前髪をそろえられる。一度そろえないでくれと言ってが、母から怒られるからとそろえられる。そろえないで帰った時は、母がトコヤに電話してもう一回行かされた。そして前髪をそろえられた。この前髪そろえは小二まで続いた。

小四位から髪を短くした。ほとんどの男子生徒が短い。小五、六年は完全にスポーツ刈りにした。

 料金は八百円か九百円位だった。まだ髪形を気にしない頃でもある。

中学から高校中退まで坊主頭で髪形は変えられない。中退して坊主頭の伸びた頃、やっと髪形を変えられた。それはオールバックにならないオールバックだ。毛が短いので立ってしまい、まるでハリネズミだ。

十七歳に初めてフロントだけパーマをかけた。当時、ビートたけしの大ファンで、たけしの髪形がフロント部分にパーマがかかっている感じに見えた。それをまねてぼくもかけた。すると変なヘヤースタイルになり、友人らに笑われた。

パーマをかけたとこが、ラーメンのような状態になって、友人からはラーメンパーマと呼ばれていた。だれもビートたけしカットとは言ってくれなかった。

二十歳の時、ちょっと昔にはやった言葉、パンチパーマになっていた。この時の仕事が運送会社でまさにトラック野郎という感じだった。仕事と髪形が合っている。

パーマはその後かけなくなり、刈り上げヘヤーにした。たまにオジサンみたいと言われたこともある。

二十六歳頃から抜け毛が気になる。風呂時のシャンプー後、抜け毛を数えたこともあった。八十から九十本位あり、日にこんな抜けるならはげるのか。十年後の現在、完璧なはげはないが、かなり薄くなった。毛と毛の間の地肌が白く全体に見えている。このままだと十年後は多分、はげているだろうな。


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