少し前の話しになる。

二〇一三年八月十一日、母が亡くなった。

 十三日に図書館から帰宅すると、ドアの郵便受けに紙が挟まっていた。ここに入れるとは相当なやつだ。以前タクシー会社の元同僚が入れた。またそんなやつかと思い見ると、母の急死と書いてある。

これには驚がくし動揺もした。自分のアパートを弟が探したことと母の死だ。それはダブルショックだった。なぜなら越したアパートを兄弟には教えてなかった。理由は弟を好んでいなかったから、何年も音信不通だった。

 何度も気にしていたことがこの日になった。そして葬式に出るか出ないかと迷った。このまま音信不通でいい、と。

 だが夜、弟が来た。当然ぶつぶついわれ続け、ぼくは耐えるしかなかった。結局出ることになった。葬儀代の問題が出たからだ。生命保険は掛けてなく、代金は妹と三人で出すことになった。翌日は友引で火葬が出来ず、十五日にやった。惜しくも終戦記念日だ。最後にひつぎで見た母の顔は、やせ細り、ぼくと同様歯もなくなり弱々しかった。

 母の生活は以前と変わらず、借金とゴミ屋敷の様子だった。とにかく何ごとも隠す母だ。借金がいくらかわからない。三百万くらいではないかと予想した。

 そんなこともあり、残った子はぼくの提案通り相続放棄をすることとなった。

すぐに書類をそろえ、十六日には妹と相続放棄をした。すると十七日に配置薬会社が来たらしく、三万四千の請求があったという。

相続放棄したのだからいいのではないか。今後は借金が出て来るだろうと思っていた。恐ろしいことだ。

 ゴミもかなりある。ビンカンは捨てなく貯まっているし、貧乏性で古い服も多々捨てない。正直まったくどうしようもない母だった。

こういう家庭の子供たちは、絶対に痛い目を味わうはめになる。ようは自分のことしか考えないタイプだろう。

 遺骨はあるが墓は高く入れない。永代供養たる位牌置き場があるらしくそこになるだろうが、それにも金が掛かる。なんしろ借金やゴミで腹が立つため、金など掛けたくないのが本音だった。

 弟の潔癖さにも腹が立った。婿ではないが嫁方に入ったので、『家族』に洗脳されたのだろう。最初はしっかりしたなと思っていた。

だがやたらと口うるさくなったのが事実だ。それに自分の意見が目立つようになった。若いころは借金やシンナーで散々迷惑を掛けた弟だ。そのことも踏まえ発する意見を述べてもらいたい。今後弟の存在もやっかいになるかもしれなかった。

 とにかく母はそんな性格で、妹の住むアパートへゴミを積みに行った。すでにぼくは車がなく、掃除には行けない。あとは妹が自身で捨てるしかない。都合七回はゴミを清掃工場へ捨てに行ったが、まだあるという。

 借金が七、八十万だったのは救いである。ただ十年の経過で、法では残金なしとなり取り立ては来ないようだ。そのままでいいだろう。



 生前の母を思った。ちびまる子に出る母とはまったく違い、口うるさくなく、なにも語ろうとしなかった。

ぼくが一才か数カ月か知らなかったが、二階から落ちて頭を打ったようだ。まったくの覚えがない。それは少し母から聞いた。

姉がいたらしく三、四歳で亡くなっていた。それはどうも自分が関与しているらしい。かなり前にチラッと母が妹へ話していたのを聞いた。お湯をこぼして焼けどのようなことを。

気にしたことはなかったが、仏壇にあった戒名は姉だったのだ。

それは義父が加わったとき初めて気がついた。生まれてから二才くらいまでの記憶がいまいち不明である。うんこは壁に向かいオムツでしたのはなんとなく覚えている。ただ姉と遊んでいるときの記憶がなかった。

 幼稚園時代、母が遠足に来ないので先生と行動をともにするのが苦痛だった。毎度ある遠足に現れなかったし、なぜ来ないのかわからないが、ただの面倒だったのかもしれない。集団行動が嫌いのようだった。

写真にどこかの花畑で母と写っているのがある。そのときは来たのだろう。ただ女の子のような姿にさせられている。姉を思ってなのか、ひ弱のように前髪ぱっつんで写っている。

 五歳のとき、母と万博へ行ったが疲れた思い出がある。弟は二歳でいなかった。あのとき弟はどこにいて、だれといたのだろうか。

 焼津に数日いたときもあった。たぶん実父から逃げているようだった。当時酒癖がわるくけんかでもしたのだろう程度と思っていた。

そして幼稚園卒園前、清水の恵比寿町へ引っ越した。これが本当の逃亡のようで、父との正式離婚だった。恵比寿町へ越したとき、母と草薙までの幼稚園に通ったのは覚えている。そんな面倒なことをしたくない母にしては不思議だった。

小学校へ入ったころ、夜は預かり所に連れて行かれる。これも苦痛だった。上級生が威張っていたからだ。昼間は白髪のばあさんが手伝いにいる。母は昼間、冠婚葬祭の仕事で夜は水商売を行っていた。

 小二のとき焼津の知らないおじさんが家にやって来た。たびたび来たがいつの間にいなくなった。

 その後、義父がやって来た。それも小二時代だった。母が何カ月もいなかったときもあった。あのときは入院していたのか、それか妹の出産だったのか、と。

 とにかく説明のない母で、こっちも聞きづらくなり、そのまま黙っていた。つまり冷めた家庭だったのか。いまならそんな家庭は多々ある。子供の虐待がざらに報道されている。ぼくは虐待されていないだけましということだろう。ただ小三時代に担任から虐待のようにされたが。

 妹がやってきたら、それでも明るくなった。高学年は妹の面倒を見ることになり、その分小遣いがもらえた。

 そのころの母は昼夜働いて順調だった。義父もいて助かっていたと思う。ぼくは成長とともに義父と話すことはなかった。ほぼ母だけだった。でも義父の援助なしでは家庭がなってなかった。母だけでは息子二人は当然むりだったから。義父からすれば荷物を背負っての同居で、いいはずはない。世間一般的には内縁関係とでもいうのだろう。

 そしてぼくが四十七歳の八月十一日に母が他界した。これで自分へ関わった姉、父、義父、母、祖父、祖母が亡くなったことになる。

そのなかで母の存在がもっとも大きい。輪廻転生をぼくは信じている。すでに成仏しているだろうし、来世はもっといい家庭に生まれ変わってほしい。


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