地方裁判所の傍聴

 二〇一六年の十月、そのころはスクーターで転び、リハビリとして電動自転車をオークションで購入し、あちらこちら乗り回していた。まだ足は痛んだままのときだった。

 以前から地方裁判所の傍聴をしたいと思っていた。

 なぜならもし自分が民事で訴えられた場合、もし事件を起こした場合、もし被害者になった場合など裁判は欠かせない。そんなときのために慣れておくための傍聴だった。

 ちょうど大道芸ワールトカップも近く、駿府城公園の写真を記事のため撮っていた。もうすぐ午後一時だ。近くに地方裁判所がある。家庭裁判所なら二度行ったことがある。一度目は十九歳で酒気帯び運転をしたとき、母と行った。狭い部屋で二人の裁判官がいて、母と腰掛けての判決だった。たしか罰金が二万ほど。未成年なので半額くらいだったのか。そこの傍聴の席はなくだれもいなかった。

 二度目は母の死で、相続放棄の書類をとりに行ったときだった。

 それはただ書類のみで、裁判のような判決はもちろんなかった。

 家庭裁判所は駿府城のお堀内にあるが、地方裁判所はお堀り外だ。

 まさに城のすぐ外にある。近年建て変わった地方裁判所は鏡張りの建物で、以前の古い建物より高級そうに見え、まるで株式上場の大会社のようだ。

 電動自転車を駐輪場へとめ、恐るおそる自動ドアをくぐった。被告人でも加害者でもないのに緊張している。

 広いロビー、左側は広々した事務所、真ん中まで歩くとスーツにイヤホンしたメガネを掛ける職員が机へ座っている。

 その前に建物内へ入った緊張のせいか、トイレに入った。建て替えたわりに狭いトイレだった。

 出るとイヤホンの職員へ聞いた。

「あの、初めて来たのですが……」

「はい、傍聴は二階です。民事はこの事件、刑事はこれです」

 と、淡々と机に載る書面を見せる。

「はぁ、初めてでもいいですか?」

「はい、いいです」

 少し笑った。

「初めての人は多いですか?」

 思わずこんなことを聞いてしまった。

「このごろ多いですよ」

「わかりました。二階ですね」

「二階にも各法廷に事件内容が書いてあります」

 と職員はいう。ずいぶん親切だなと思って広いエレベーターへ乗った。役所などの公務員は事務的な感じがするからだ。

 二階に上がると狭いロビーがある。そこへ若者と六十代の男性が座っている。辺りを見回すと、扉の開いている第四法廷、第三法廷の扉があった。

 ロビーの二人はぼくをじっくりと見ている。なにかの事件の関係者かと思うのか。なぜならぼくも相手をそう感じるからだ。

 そしてまず一通り歩く。左側の法廷に酒気帯び事故の裁判がある。

 まずはそれに引かれた。横は強かん罪の事件である。どうも左側の法廷が刑事事件となり、右側法廷が民事事件とわかった。

 民事は正直つまらないと思う。さっきの酒気帯びで死傷させた事件が、過去からして自分には合ってそうだ。

 民事は事件内容の言葉が理解不能で、やはりわかりやすい刑事事件を傍聴しようとした。そのときさっきから目につく、一人の背の低いおばさんがうろうろしている。ロビーにいた二人の男性はいつのまにかいない。すでに始まっている裁判への傍聴人となったのかもしれない。

 背の低い六十中ごろのおばさんは、パンチパーマを伸ばした風貌だ。いまどき珍しい小学生が履くようなくつ。なんと表現すればいいのか、水色で真ん中がゴムで伸びるようになるくつ。ぼくも小学校一、二年のときに履いた。

 その女性がぶつぶついいながら扉前の事件を見ている。

 ぼくは、

「こっち側が刑事なんですね」

 というと、

「そうだね、この弁護士やり手だったよ」

 なぜそんなことを知っているのか、ぼくは怪げんな顔を向けていた。よく見ると顔が貧相だ。化粧はしてないし色黒い。なにかの事件でも起こしたことがあるのか。

 刑事の事件名を見ていると、傍聴しようとした酒気帯び事故のは法廷内から声がしてすでに始まっている。さっきの男性たちはここへ入ったのだろう。

「民事見ない?」

 突然ぼくのところへよって来た。

「いや、初めてだし刑事がいいです」

「面白くないって、民事にしな」

 といってきた。きょろきょろとして挙動もおかしい。

 ちょうどさっきから開いている第四法廷へ、人がぞろぞろと入っていく。まだ扉は開いたまま。

 事件名があやふやだ。不当解雇がどうのこうのだった。

 おばさんは、そこへ入ろうとぼくを手招きする。そんなつまらなそうな裁判ではここへ来た意味がない。すでに緊張感はなくなっている。酒気帯び事故は始まっているし、強かん罪はまだだ。そっちにしようと思っていると、再度入り口で手招きをした。

「始まるよ」

 最初だし、とりあえず民事でならすかと手招きにつられてしまった。

 傍聴席は十六席ある。おばさんとぼく、そのほか四人の傍聴人。

 ずいぶんと人気があるのではないか。

 裁判が始まる前のニュースを見ている感じで、右側に二人の男性、左側に男女二人いる。書記など黒服もいる。最後に裁判長なのか、入ってくると『起立』と号令が掛かった。

 着席すると右側のごま塩頭の六十代が話し出した。どうも弁護人のようだ。

 横のおばさんは、メモ帳へペンを走らせた。さっきとは別人のように変わり、まるで昔の新聞記者のようだった。

 ごま塩の横のネクタイを締めた、六十代のメガネの男性は、机の書類を見ている。訴えられた被告側かと思った。なぜなら真面目そうで、会社の上司とも見受けられるからだ。左側の三十代ほどの女性が訴えた原告側だろう。女性が部下だったのかもしれない。

そして双方の答弁が始まる。法廷とは、傍聴人に見られる意識があるのか、一種のパフォーマンス的に話す弁護士もいる。

 それが女性側の弁護士だった。若くて威勢がいい。

 逆にごま塩頭は、ゆっくりと話し声もそれほど大きくなかった。

 話しを聞いていると、たびたびぼくの通っていた歯科医院の名が出る。だが清水なのか静岡市内なのかは不明だった。

 いつも先生は大きいマスクをしているので口元はぼくからするとわからなかった。

 簡単な裁判の内容は、歯科衛生士の女性は勤務怠慢で解雇された。

 それを不服で弁護士へ相談し、民事裁判を起こした。ただ女性は以前の歯科医の先生とつき合っていたらしく、それを歯科医材卸し業者の一人がT歯科の先生へ耳打ちした。

 それを不服で訴訟を起こした感じ。訴えられた先生側は、それだけではなく、受付のときに患者とのトラブルが多かったからだと主張。業務が円滑に回らず、それで解雇に至ったとT先生の弁護人は答弁した。歯科医材業者は取引先の顧客なのだから、内部事情を漏らしてはいけなかった。

 徐々に二十年以上通った先生とわかった。声がまさにT先生。横のおばさんは、ぼくの心情を知らずして、ここへ呼んだ。これは偶然にしても、何百万分の一の確率ではないか。変なおばさんと思っていたが、ここで感謝だった。

 互いの答弁から午前中も裁判していた。休憩を挟んでの午後からの裁判だった。

 清水でT先生は有名な歯科医師だ。物静かでおとなしく技術はいい。それで自宅からも近かったT歯科へ通っていた。歯医者とは切っても切れない。いまは入れ歯だし、もし清水在住ならもちろん通っている。初めて来た法廷で遭遇とはなにか赤い糸ではないけれど、神様が結びつけてくれた感じで不思議だった。

 女性側の答弁は、三十ほどの青年で声が大きい。逆にT先生の答弁の主張は弱かった。

 一度、休廷となり先生らがトイレへ。すかさずぼくもトイレへ行った。ロビーで目が合ったが、そのまま法廷へ入った。なにも話して来なかったということは、痩せたぼくの顔を忘れているのだろうか。通わなくなり六年はたつ。でもなんとなくわかるはずだ。

 おとなしい先生なので、黙ったままかもしれない。

 引き続き、裁判を傍聴。横のおばさんはメモをとり、これは訴えた女がわるそうだね、とつぶやいた。不当解雇かもしれないが、患者への対応もわるかったらしい。もしぼくが以前のように先生のとこで治療していたらわかっただろう、と。

 とてもおとなしくて、必要以外あまり話さない先生だ。

ぼくら以外の四人の傍聴人は、一緒に腰掛けていて、なんと二人が先生側の証人尋問だった。

 女性一人いるので、先生の奥さんかとも思った。その人も尋問して、もう一人の男性は、先生へ耳打ちした歯科医材業社の張本人だった。何件も歯医者へ通うため、様々な先生とは知り合いになる。

 そして内情もわかるわけだ。歯医者だけに限らず、どんな医院でもありうることだ。内視鏡や胃カメラの機器を入れていれば胃腸科の医院だし、レントゲンの機械は外科医などで余談も話すはず。

 そして裁判での双方の尋問も終わった。判決は次回という。でも互いに話し合って和解するような裁判長の言葉もあった。

 つまりお金で解決するということか。民事ではたぶんそうだろう。

 そして四時半ごろ終わった。閉廷とでもいうのか。

 弁護士と先生は一緒に法廷を出た。原告のほうもそうで、お互い目を合わせずに出て行った。お金となれば今後は弁護士同士での話し合いになりそうだ。

 おばさんとロビーを出ると、先生の奥さんと思われる女性がエレベーターを待っていた。ぼくは近づいた。

「すいません、あの歯医者は〇×町のほうですか?」

 女性は振り向くとぼくの顔をじっと見ている。

「はい」

「やっぱそうでしたか。奥さんですか?」

 横でおばさんは聞いているが、もちろんここでのメモはとっていない。

「いえ、衛生士です」

「あ、そうでしたか。ぼくずっと治療していた患者です」

 よく考えると、先生よりだいぶ若い。間違えている。

「……浜崎さん?」

 目線が合った。

「はい……そうです」

 彼女の頬は緩み、ぼくは目を見開いた。覚えられていたが、この女性は初めて見る感じだ。ただ女性もマスクをしているので、受付以外の素顔をよく知らなかった。

「磨き方の指導をしたことがありますし、何年も通っていたのでわかります」

 始めに先生の奥さんと間違えたことと、顔を覚えていなかった自分へバカだと心で罵った。

 そしてなぜこうなったかを聞くと、元助手がいつのまにか訴えてきて裁判が始まることとなったらしい。ほぼ本日で終わるとも聞いた。

 弁護士同士の話し合いで、不当解雇は却下されるかもしれない。

その分、先生には負担が掛かるかもしれなかった。一日医院も休むことになり、突然訴えられる裁判は嫌なことだ。

 ぶつぶつおばさんはなにかを話していたが、ぼくは駐輪場で手を振った。衛生士さんも車で門を出て、記者のようなおばさんも車で帰った。自宅であのメモを読んでおさらいするのだろう。

 ペダルをこぎながら、傍聴出来てよかったことを思う。通った歯医者だったとは、T先生も衛生士さんからぼくがいたことを聞いて驚くのではないか。

 なぜ裁判を知ったのだろうかと。生きていれば、こんな滅多にない偶然も起こるのだと、ぼくはにやけて首を傾げていた。

 たぶん最初で最後だろう。裁判を行うということは、言葉で丸裸にされる。でも知っている傍聴人ならいいが、大きな事件の裁判は傍聴人も多くいろいろ知られてしまう。ぼくは常々記事を書くので、丸裸も慣れている。ただ脱肛など裁判で出ない言葉のはず。それ以上に文で自虐するので、裁判となれば面白くしてしまいそうだ。芸人の民事裁判はそんな雰囲気なのかな。


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