ぼくには九つ離れる妹がいる。母と義父との子だ。籍を入れていないため、内縁の娘とでもいうのか。

 生まれたのは、ちょうど登校拒否の小学校三年時代の夏休みで、八月一日に生まれた。母は家になかなか帰ってこなかった。今から思えば帝王切開なのか、産後入院となった。

 赤ちゃんと帰宅後、母と義父で名づけ合戦になり、たしか母の名で決まった。

 その義妹は、義父を中心に家庭のアイドルとなっていく。ぼくの小学校時代高学年は、妹の面倒をよくみた。それは乳母車引きや、ハイハイをして遊んだり、ぼくが抱え恵比寿公園で滑り台もした。

 初めて二本足で立ったのはその恵比寿公園で、義妹を置き去りにし、母へ伝えに家へ走った。だがその時、逆に怒られ急いで戻った。

偶然にも弟が通り掛かり、乳母車へ乗せていたのは助かったことだ。

 義妹と母、ぼくや弟と買い物やデパートへ行けば、義妹を屋上に連れて行き、面倒をみないとならなかった。つまり義妹の加入で余分な役目が出来てしまった。土曜など母は仕事があり、弟と自分でどちらかが面倒をみないとならない。三十円上げてはよく彼へ頼んだ。なぜなら土曜の午後は貴重で、友だちと野球が出来る日だったから。

 現場仕事の義父は、毎日の帰宅が楽しみのようで、帰ってくれば、われ先に「ちいちゃん」と呼び、義妹を抱いていた。ぼくと弟は毎日その光景を見ていて、歯がゆい思いだった。  

ちいちゃん、というあだ名まで義父がつけていた。常に、義妹が第一の家庭となった。義妹>義父>母>ぼくと弟という順だ。でも義妹が嫌いなわけではない。まだ幼稚園へ入っていないし面倒を見てやりながら、物事を教えていた。ただうっすらと義父や母の機嫌をうかがっていたのは間違いなかった。正直、義妹がいるため、ぼくと弟は不要の存在ではなかったのか。そんな雰囲気の家庭でぼくは育っていた。

 クラスメートに冷やかされる嫌なこともあった。それは父兄参観日や体育祭など、催しのときに起きる。

 ぼくが小学校五年のころから、母が義妹を連れて来るようになった。そうすると、女子がとても喜ぶのだ。

「えー、はまじの妹?」や「まったく似てないねー」、「はまじの妹、とてもかわいいすぎ」などはやし立てられるのだった。それが苦痛で、参観日や体育祭のお知らせを見せなかった。だが弟が見せれば伝わる。ある日は、弟にも見せないことを伝えた。でも母は義妹とやって来た。どうも近所に聞いたのか、匂いを感づかれたのか、必ず一緒にやって来る。たしかに家はだれもいないので、義妹を置き去りにできないためそうなってしまう。どれだけ女子に冷やかされたことか。幼い義妹はかわいかったので、母は自慢したかったのだろう。

 ぼくが中学になると義妹も幼稚園となり、面倒もほどほどとなった。それどころか、こちらが楽譜解読に白々しく教えてもらうほどだ。ある日の土曜、母から電話があり、丸井清水店にいるから、妹の面倒を見てくれといわれる。小遣いがもらえたけど、自転車を盗まれるという結果になる。自分がカギを掛けなかったのがわるいのだが。

そして義妹は入江小学校、弟は第八中学校、ぼくは橘高校へと進学した。この時の親たちは、とてもお金が掛かったはずだ。

 義父は義妹の運動会や父兄参観日も行ったくらいだ。来てもらいたくはないが、ぼくらへの催しは来ないので娘への溺愛がわかる。

写真もよく撮っていて、当然ぼくらはろくにない。

 ぼくは高校を辞めると、東京へ行ったりしたので、そのころの義妹の様子はよく知らなかった。

なにか娘が欲しいといえば買い与えていたから、甘やかされて育っているのは明白だった。

 静岡へ帰っても義妹は小学生高学年となり、生活に変わりはなかった。週刊漫画のりぼんを愛読していたためか、さくらの絵を見せて来た。ある時は、水泳帽へ「ハマザキ」と書いてあったので、さくらは本当に漫画家になったことを確信した。ただ、なぜ自分が出るのかと疑問もあった。

 中学はバレー部に入った。スポーツ部には驚いた。元々背が高い方と思っていた。が、より高くなるではないかと。ただ、自転車に乗れないため、試合があると義父が車で送り迎えしていた。

 反射神経を使うバレー部というのに、自転車に乗れないのは、義父の送迎があるから乗れなくてもいいという、甘えを予想した。

 そのころ、アイドルの光ゲンジの猛烈なファンだった。コンサートチケット代、旅費はもちろん義父だ。そのころから、ぶつぶつと義父へいうようになっていた。それはスポンサーである義父が金欠の時である。ぼくはトラックへ乗っていたので、自宅にそれほどいないため、あまり家庭のことを気にしていなかった。

義父は、たまに母へ愚痴をこぼしていた。

 高校に入ると、ロックバンドの追っかけをしだす。ぼくもそっちの方ならと、義妹と話す機会が増えた。通販で購入したベースを見た時は目を見開いた。追っかけをするバンドメンバーのベーシストへ好意があるようだが、ベース自体を買うとは。ぼくもベースを弾いているので教わろうとしたのだろうか。やがて教えてくれと部屋へ来た。たぶん無理と思ったが、義妹の聴く曲をまず弾いて見せ、その後、基本を教えずに曲のフレットポジションを教えた。奇しくも、ぼくの中一時代の逆となった。毎日楽器になれないと、練習しないとダメと向けた。部屋に来るけど、自分も当時通信高校の勉強があったので、こことここ、など一小節間をしっかりと音の出るような指の押さえ方を教えた。

 初日は張り切る、だが二日目、三日目と気合がなくなりダレ始める。

 やはりなと。結局、一週間も持たなかった。その後ベースは置物となり、後々ぼくが弾いていた。ホルンでもそうだが、楽器を吹く、弾くは練習がものをいう。それはなんでもそうだが、バレー部を三年間続けたわけだから、根気は多少あるだろう。でも楽器との違いなのかもしれない。その後、義妹は何度と義父からチケット代等を無心していたと思う。よく夜中に帰宅していた。渋谷などのライブハウスへ行って来たらしい。バイトもせずそんな金を持っているはずはなく、すべては義父だった。やはり口ケンカも度々聞こえた。お金のことだろうと予想はついている。

 高校を卒業すると、東京のデザイン専門学校へ進む。アパートはワンルーム七万の渋谷だ。だれがお金を? もうだれかわかるはずだ。東京はライブハウスも多く住むに都合はいいだろう。卒業したころ、そのまま東京でのアルバイト生活となった。掛け持ちでやっていると聞くが、本当か。母のように水商売は向かない。社交性はなく、人を持ち上げるという接客は無理だった。甘えた分、社会対応が利かなかったのかもしれない。パチンコ屋でのバイトと聞いたとき、よく出来ると感心した。接客と重量のあるドル箱を運ばないとならない。たしかに時給はいいが、続けたことへ少しは見直した。

 そして義父が亡くなった。義妹はたくさんの涙を流していた。いままでの感謝の涙と受け止めておく。母の死でも涙を流していたが、よく口ケンカもしていたので、そんなやるせなかった自分への思いが浮かばれた。母と一緒でゴミ問題が似る。いつまでも大事に取っておくなと釘を刺したがダメだった。近年は壊れた洗濯機を格安で回収するいい人を見つけたのに、連絡をせず、回収しないままだった。それにはお互いがメールでケンカとなった。それからは連絡をしていない。

 静岡へ帰って来てからは学校へ行き資格を取ったり、貸しホールの受付け、そして現在はビジネスホテルの主任らしい。頑張っている様子だが、アパートのいらない物は、さっさと捨ててもらいたい。断捨離の出来ない義妹のそこだけは、母と似ていた。


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