借家

生まれた時から浜崎家は借家住まいである。清水草薙頃の幼年時は、二階があって三部屋あった。幼稚園の年中頃、なぜか引っ越した。家賃滞納の立ち退きかもしれない。

元住んでいた所からわずか百メートル位の所である。いかにもアパートという感じだった。家族四人の間取りも二部屋になり元の家より一部屋減っていた。

四人だけど父はカツオ船漁師のため家にはいなく、ほぼ三人だった。狭いとは感じなかった。でも友達の家の二階建てベランダ付きの家を見たときうらやましく思った。

卒園する前、清水恵比寿町に引っ越す。卒園するまで恵比寿町から草薙の幼稚園まで電車で通った。

そして、ぼくは小学校、弟は幼稚園に入学入園して恵比寿町の新築借家から新たなスタートをした。恵比寿町の借家は二部屋しかない。初め引っ越すので広くなるのか期待していたら、また二部屋だったのでがっかりしたのを覚えている。

父母の離婚により、小二まで三人生活であった。母は水商売なので夜は、弟と近所へ預けられたこともある。ぼくと弟はこの預かり所を嫌っていた。威張ったヤツがいたからだ。ぼくらはたまに預けられたが、威張ったヤツは家の事情で毎日いた。それで主のようになり威張っているのか。そこへ預けられるのだったら家に居たほうがまだよかった。

小二の夏、義父が住むようになる。そしてぼくが問題児の小三時、妹が産まれ一挙に五人家族となった。

二部屋の内訳は、ぼくと弟の一部屋。義父、母と妹の一部屋だ。二部屋なので自分の部屋という感じではなく、ただ寝る時の振り分けだった。

その後、小学校を卒業して中一の時、確実に自分の部屋が欲しくなった。理由は自家発電をするからだ。これだけは見られたくなかったが、何度も見られた。突然部屋に入って来た義父や妹、同部屋の弟は早朝に見つかり、母は夜中に見つかった。狭いため究極のプライベートがない。エロ本も隠すが弟や妹にバレていた。こんな感じが高一まで続いた。

恵比寿町の借家は平屋建ての長屋で、三軒同じ敷地にある。六畳二間でトイレは汲み取りで風呂の給湯はなくガスで沸かす。台所は六畳位あり、最初食卓を囲ったが狭くて誰も使わなくなる。台所の食卓テーブルの上には食器や調味料置き場になっていた。

台所には勝手口があり裏の洗濯機置き場につながる。その勝手口から侵入するヤツがいた。それは野良ネコだ。この野良ネコは毎日、勝手口が開いてるとどこからかスキがあれば狙っていて、台所に人がいないとわかれば侵入し、魚やパンなどを口に加えて持っていく。

中学の帰り、その野良ネコを家の近所で目撃したとき、アジの干物を加えていた。ぼくは母に聞いたら持っていかれたと言っていて、あのネコ野郎と、頭にきたときもあった。結局そのネコは一回も捕まえたことがない。成功率が百パーセントだ。と言うか、ぼくらの家が透きだらけだった。多分、ネコにバカにされていたのだろう。

高校中退し、しばらくすると東京に進出したくなる。東京四ッ谷駅に行き駅近くの不動産に入った。近辺で一番安いアパートと聞いたら、女性の営業人は近くに家賃一万四千五百円のアパートがあると言う。それが一番安いと言う。

早速、物件を見ると伝え、女性の営業人と見に行く。若葉町という所らしい。

四ッ谷駅から歩くこと十五分、若葉町に着いた。下町にきた感じだ。彼女は一軒の小さな食堂に入った。そこが大家さんとのこと。その食堂から五メートル先の細い通路を横に入ると、薄汚い玄関があった。ここが一万四千五百円アパートの共同玄関だった。アパート名はトラオカ荘。玄関の真正面の部屋に入る。ここが物件だ。

部屋は四畳半一間に木の窓と小さな押し入れがあるだけ。トイレは一応水洗で共同、流し台も共同だ。新宿区で一万四千五百円と格安なのでしょうがない。

ぼくはここに決めた。

トラオカ荘は六世帯というか六部屋あって、ぼくを入れると全部屋埋まっていた。玄関には運動靴や革靴が一杯並び、まるで寮のようだった。

たまに女性の白いハイヒールがあり、それはトラオカの玄関には似つかず輝いていた。だれかが女性を連れて来たのだろう。

住民は大学生や社会人で、全員独身の男性である。二階の一人は学者か教授のような人もいた。丸尾スエオが大人になった感じを想像してくれればいい。

トラオカ荘には二年住んだ。冬は木の窓からすき間風が入り、とても寒い時があって、よく敷き布団の上へコタツを置いた状態で寝た。いまから思えばいかにも怠け者の暮らしだったなと。

十八歳のころ、清水へ帰って来ると引っ越すとのこと。とうとう思い出深い恵比寿町とお別れだ。妹が入江小学校なので同じ学区の渋川へ。それは恵比寿町から近かった。

三DKのアパートの家賃は六万八千円する。入ったときは高いと思っていたが、今では普通かな。当初五人家族だったが、妹の東京進出や弟の結婚と義父の死でぼくと母の二人になる。だが妹が十年いた東京を三月に退散し、三人となった。

ちなみに妹は東京の渋谷区大官山に住んでいた。家賃は高く一DKで七万円と言った。

当時のぼくの部屋は、六畳でCDラジカセにテレビ、ビデオ、ベース、サーフボード、机、布団、小型タンス、大量のビデオテープとワープロのある部屋だ。大量のビデオテープと言ってもエロビデオは少しだけで、寅さんの映画や好きな番組をとってある。

この部屋でベースを弾いていると外まで余裕で聞こえるらしく、近所の人に『ギターをよく弾いてるでしょう』と言われた。ぼくは少々照れながらギターではなくベースと訂正した。

本当は『ウルサイわね、ベースなんて弾かないでくれる』と言いたかったのではないのか。

 四十ごろそぼくは離れ、アパートを借りた。妹との折り合いがよくないのが理由だ。

 それは実家から遠くない北脇にある一間のアパートだった。昔の四ッ谷時代よりはだいぶいい。でも家賃は三万五千と結構値が張った。清水は安くてこんなもんである。古い木造のアパートなどないに等しかった。大学のある三保地区ならそれでもありそうだが、街中では古いアパートを壊し、新たなしゃれたアパートに変わっているようだった。そうしないと入居しないのではと思う。

 その北脇アパートでは下の住民から怒られた。ベースがうるさいと、何度も苦情を言われる。頭に来たので「隣人」という物語を書いた。『小説家になろう』や電子書籍へアップしてあり、無料で読めるはずだ。

横には変人なジジイも越してきたので、これなら越すかと、駿河区に同じ家賃の鉄骨&六畳一間と広いキッチンがヤフー不動産に出ていた。結果はそこへ引っ越した。そこはベースを弾いても苦情が来なかった。さすが鉄骨だ。

ただ変人はいる。ぼくも変人扱いかもしれないが。一人住まいは結婚もしていないということで、変人が多いのかもしれない。それと冬はとても寒い。なんだろうと友人へ聞けば、鉄骨といっても古い鉄骨なので、冷えて余計に寒くなるのでは、といっていた。そうかとぼくも納得。それとガス代がプロパンとなり高くなった。いままで光熱費はどうのこうのと知らなかった。やはりこういうことは経験でわかるのではないだろうか。ゴキブリがよく出るのには参るけど、まだ住むだろう。もっと安いアパートが出現したら、そっちに行きそうだ。


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