タクシーにケンタが乗る

 タクシードライバーのとき、仕事が入ると『パンパカーパーン、パパパパンパカパーン』と漫画トリオの横山ノックが片手を上げてよくやっていた音が鳴る。

 ぼくは、ちびまる子ちゃんランドなどがあるエスパルスドリームプラザ近辺へ待機していた。

 カーナビの座標は、ドリームプラザ近隣の大きいマンションだった。二月の週末の夜。どこかへ飲みにでも行くのだろう程度に思っていた。

 あのマンションなら近くで知っているし、何度と迎えに行った。

二分ほどで到着。オートロックなのでタクシーを降り『長谷川様、〇×タクシーです』というと返事が返って来た。

 タクシーへ乗って待つこと三分、現れたのはなんと、ジーンズに黒ジャンバー姿のケンタではないか。

 瞬時に、まずい、となった。当時ケンタはJ1リーグ清水エスパルスの監督だ。

 タクシードライバーのぼくとでは身分は違い過ぎる。

 乗務員証で気づくまで、口を結んでいることにした。

 そして乗せると『静岡の両替町まで』というので、『はい』といい、ハンドルを握った。

 向かう場所は繁華街だ。エスパルスは大きなスポンサーがある。そこで接待でもされるのだろうか。

 本音は積もる話はあるはずだ。小学校五、六年生時代は同じクラスである。もちろんさくらも一緒だ。

 同じ班でもあり、ぼくの嫌いなグリンピース、牛乳などすべてもらってくれた。それに背の順も同じで前にケンタがいる。さらにゼッケン番号順も『浜崎』、『長谷川』と彼は後ろにいた。

 常々、ケンタが近くにいる。だが部活は違った。彼は大のサッカー好きなので、当然サッカー部だ。朝練、昼はクラスメートとサッカー、そして部活も行っていた。

 そんなケンタとあいさつを交わせば、だれこれどうしたなど質問されるのが普通だ。

 沈黙は続き、流れるのはラジオのみ。

 そろそろ乗務員証を見たはずだ。

 通常、タクシーへ乗ればお左のダッシュボードを座席の間からのぞくだろう。そして横顔を見るのではないか。『浜崎』という名字は多くない。その名が憲孝では『はまじじゃないか?』というはずだ。

ただ帽子にメガネの格好で、もしかしたらわからないのかもしれない。

 でも県内屈指の高偏差値校である清水東高校を出たケンタだ。

 その名を記憶のはず。

 ラジオしか流れない。ときおりバックミラーを見る。彼は携帯でもいじっっている雰囲気でもなかった。

 やがて自分がおかしく思ってきた。もしかすると自分のように気づいていて、あえて話さないのではないか。気を使っているのだろうか。 

まさか同じ班、同じ背の順、同じゼッケン順のはまじを忘れて、ただの不愛想なドライバーと思っているのか。そんなことはないだろう。

 清水と静岡の中間地点だ。夜八時半ではすいすい走っていく。

 寝ているわけでもなく、ラジオのみ聴こえる。

 普通のドライバーだったら、市民のだれもが知るケンタだ。なにかと聞くことがある。エスパルスの選手時代から日本代表入りして、それに監督まで成し遂げた男。敬意を表し話し掛けるのが当然だ。

 それが無言である。こんなドライバーは初めてだ、と思っているに違いない。

 彼も照れるから黙っているのなら、異様な密室になる。互いに早く着かないかと思うわけだ。

 そしてとうとう両替町へ着いた。三千円を超え、いい営収だった。

 ケンタからはチケットをもらう。

 走っていく彼の背を見ながら、ぼくは深いため息をついた。車内は緊張の空間だったのだから。

 知人友人でもケンタでは、身分が嫌になってしまった。これが逆の立場なら、彼もそうするのではないだろうか。

 その後、ケンタはぼくのタクシーへ乗らなかった。もしかすると、浜崎というドライバーはやめてくれ、といわれたのか。そんなことはないと思うけど。

いまではFC東京の監督だ。東京のドライバーは静かだろうか。あのときの静かなドライバーを思い出してくれればありがたい。


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