6月16日 2
病室に入る勇気が沸かない。誠也が手をくいくいと引いている。良介は深呼吸をし、その頭に手を置いた。
死というものを教えておいた方がよかっただろうか。どのみちいつかは必ず突き当たることだが、良介にとって、死と子作りの情報はできるだけ誠也から遠ざけておきたい問題だった。特に後者は今の所良い言い逃れが見当たらない。
だが、今は迷っていても意味がないのだ。
「お義母さん」
震える良介の声に顔を上げた良枝は、無言で部屋の奥を指差した。そちらからは「お父さん!」という晴香の叫びも聴こえてくる。
意を決して病室に入った。
良介が目にしたのは、立ち上がろうとしているのか背中がかゆいのか、激しく体をくねくねさせていてる小次郎だった。無言が必要以上の不気味さを際立たせている。点滴が抜けてしまいそうなのを看護師たちが抑えていた。
義父は、毒虫になった幻覚でも見ているのだろうか。
「おじーちゃん、芋虫みたい」
無邪気でシンプルでそれでいて内角高めをえぐるような孫の笑い声が聴こえたのか、小次郎は少しだけ大人しくなった。段階的に呼吸の数を減らし、目には理性の火が灯る。やがてベッドの上で周囲を見渡した。
「なぜ喋れなくなってるのか、なぜ入院しているのかがお分かりになってないんです」
それゆえの混乱である、という看護師の説明に小次郎は首をかしげた。口を開くが、言葉を発するまでには3秒ほどかかった。
「……なんだ。……どこだ……」
「お父さん!」
晴香が小次郎にしがみついた。
「昨日、脳梗塞で運ばれたのよ! 死んじゃうかと思ったじゃない!」
「……そう……なのか……。そうか……」
ベッドを整えていた看護師たちが一斉に小次郎の顔を見る。
「今、先程より短い時間で反応してましたよね」
「そうでしたね」
良介が応えた。看護師たちは笑顔で返す。
「先生呼んできますね!」
入れ替わりで入ってきた良枝が小次郎に声をかけた。
「びっくりしたわ。昨日は起きる様子がなかったのに……」
「驚いた。わしも。体が。動かねえんだ。なんか」
「動いてるじゃない」
「……いや。右手は。ともかく」
「すぐに動くようになりますよ。それだけ元気なんですから」
良介の安請け合いが場の緊張をほぐした。晴香が起き上がり、照れくさそうに
「遺産の分配も決まってないのに死なれても困るわ」
と憎まれ口を叩いたのが合図のようなタイミングで、医者がやってきた。
「取り込み中に申し訳ありませんが、拝見します」
間違いなく「この上なくガツガツしたいやしくもがめつく場をわきまえない下品な女」と思われたであろう晴香がその場を空け、診察が始まる。
小次郎の瞳孔を覗き込み、口を開けさせ、痛みはないですかと訊いた。
「痛み。ない。多分。けど動く。ところが」
「わかりました」
医者は小次郎の首、右手、左手を順に押していく。
「感覚があったら声を出してください」
右半身は問題なく反応する。
だが左半身は。
押されようがさすられようが、小次郎は何も言わなかった。
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