上を向いて歩こう
19時。3世帯全員が揃った大西家の食卓では、すき焼き鍋を囲んでいた。午前中に練習を切り上げた小次郎が娘の晴香にお願いして作ってもらったものだ。材料費はここから、とカードを渡された晴香は容赦なく最高級の和牛をたんまりと買い込んだ。
「やはり特別な日はすき焼きじゃ」
小次郎はご機嫌な様子で、最近では珍しくビールを飲んでいる。ここ数日はギターの練習をしていたので、アルコールはしばらく控えていたのだ。
小次郎の妻、良枝が味を整えたすき焼きは確かに美味かった。良いすき焼きは豆腐が美味いと言うが、正確には豆腐“も”美味いだ。
皆が笑顔で一つの鍋を囲む。入婿とはいえ理想的な食卓だなあ、と良介は卵をかきまぜた。
「なにか良いことあったの?」
晴香が小次郎に問う。
「練習が良かった。特にドラゴンが良かったな。マッ……良介君」
「あ、聴いてたんですね。他の人の演奏」
「そりゃそうじゃ。あいつのほうが上手いことくらいはわかる」
意外なことに小次郎は他のメンバーの音に耳を傾けていた。好き勝手にワウワウ言わせているだけではなかったのである。
「まあわしは、財テクやなんやで忙しいからな。練習の時間ははどうしても限られてしまう」
という言い訳をさりげなく言い放ち、静かに箸を置いた。
「それとな」
小次郎が全員を見渡した。箸を止めることなくすきやきを食べ続けている孫の誠也を目を細めて眺め、またビールを口に運ぶ。
「新しいバンド名が決まったんじゃ」
「あら良かった。前のは覚えにくかったからね。英語と数字で」
良枝が夫のグラスにビールを注いだ。
「うむ。ホームページの発注もかけた。ガレージにかける看板もだ。今回のはずいぶんと知的な名前でな」
わしが考案した、わしが、と小次郎はホラ貝を吹き鳴らした。小次郎の目線が良介を捉える。いいからうなづけとその目が言っていた。良介には3回ほど機械的にうなづく以外にできることはない。誠也が肉の味に衝撃を受けたようで、早々と1つ目の卵が無くなった。
「へえ、なんて名前になったの?」
「Old Holmesじゃ。老ホームズ。覚えやすいし、渋いじゃろ」
なぜか全員が黙った。小次郎は皆の称賛を聞くために。良枝と晴香は顔を見合わせ何かを考え込み、誠也は夢中になって卵をかきまぜている。そして良介は卵をかきまぜる手が止まっていた。
「それって」
「そうよね」
女性二人が話し合っている。良介は肉を一つだけつかみ、口に運んで食器を下げた。
「ん? どうした?」
軽い疑問を小次郎が投げかける。晴香は目をそらして指摘した。
「Oldって老人よね」
「うむ」
「ホームで区切ると」
小次郎はすき焼き鍋からのぼる湯気の向こうに焦点を合わせている。
「老人ホーム……ズ……」
バンド名を口に出し、呟いた。そのまま固まっている。
良枝が小次郎の小皿に豆腐を入れた。
「だって貴方が考えたんでしょう」
「あ、いや……」
「じゃあ仕方ないんじゃない?」
小次郎は血走った目をキリキリと下席へスライドさせた。だが残念なことにそれを受けるべき入婿はすでに食卓から姿を消していたのであった。
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