ラブレボリューション82
サマー・オブ・ラブ
7月中旬の日曜日、朝8時。
大西小次郎宅の庭に設置されたガレージ。その大きさはせいぜい車三台分。ドラムセットやアンプ類も運び込まれた狭い空間に5人。一人の人間を、四対の視線と耳が捉えている。
ギブソンが誇るセミアコースティックギター、ES-335を肩から下げた三井薫子(75)は、長いギターソロを終え、固い笑みを浮かべた。
「緊張しました。人前で弾くことがなかったので……」
周囲の反応は沈黙だった。
一言で言うと、レベルが違ったのである。運指の正確さといい、335の特性を活かしたサウンド作りといい、柔らかなカッティングといい、気品すら漂う演奏は老人たちはもちろんのこと、良介すら圧倒していた。
「なかなか上手いじゃないか、三井さん」
黙っていればいいものを、身の程知らずにも悔しそうに褒め称える者がいた。大西“KOZY”小次郎(78)だ。続けて
「わしも左手が動いていれば……ツインリードギターができたのにのう」
などととのたまうが、賛同するものは誰もいない。比べ物にならないということが、小次郎以外の全員分かっているのだ。
真田“ドラゴン”隆(82)が呆けたような表情のまま、良介に話しかけた。
「……お前とどっちが上手い?」
「僕じゃ教えられることがないです。比較するのもおこがましい」
長年の研鑽がそのまま実力に結びついている稀有な例だ。このバンドには相応しくない、まっとうなギタリストである。
正直に告白すると同時に、良介の頭上の電球がピカーンと灯った。大事なことに気づいたのだ。
「じゃあ、僕いらないんですよね。いなくていいんですよね。ライブだけ観に行けばいいですよね!」
「ずいぶん嬉しそうだな」
「そんな訳ないじゃないですか大変残念です、いやあ残念だなあ」
良介は口が緩むのを自覚したが、止められるものでもない。
その様子を横目で見ていた小次郎がマイクを引き寄せた。
「では、オーディションの結果『Old Holmes』の新しいギタリストは三井薫子さんに決定。異論はないな」
異論などあるはずもない。そもそもオーディションと言いつつ後にも先にも一人しかいない。左手が動かない小次郎以外の全員が拍手と笑顔で応えた。薫子は嬉しそうにお辞儀をする。
「そしてまた、指南役は今後もマッスオで」
「なーんでですかー」
マイクを通した良介の声は、隠しようのない不満で溢れていた。
「三井さんは僕より全然上手いですよ。教えて差し上げられることなんてないです」
「薫子さんはギター以外知らんらしい。バンド自体初めてだそうだ」
ふと薫子と目が合った。薫子は軽く会釈し、やはりマイクを引き寄せて言った。
「そうなんです。ギターはずっと一人で弾いていて、バンドはやったことなくて。経験者のマッスオさんにエフェクターのこととか、他の楽器との兼ね合いとか、色々教えていただけたらすごく嬉しいです」
「あの、そのあだ名にさん付けはやめてもらったほうが」
「マッスオさんならドラムもベースも守備範囲ということでしたので、勉強になるかと思いまして」
話を聴かない系老婆か。厄介な敵が増えやがった。
それはともかくとして、嫌なものは嫌だ。甘い顔ばかりしていたから、今もこうしてつけあがられるのだ。ポイント稼ぎとはいえ、毎週日曜日まで早起きしていたら体がもたない。ここはひとつ、はっきりとした意思表示をしておかなくてはならない。
「もうやりません。日曜日は休みたいです。少なくとも毎週はいやです」
良介の視界の隅にいたドラムの本条“ハッピー”幸雄(79)が、マイクを通さない地声で言った。
「そういえばこないだの動画の編集が」
「やります。日曜日でもがんばりますので」
あんなもの公開された日には、会社どころか社会に居場所がなくなる。華麗な手首の回転で良介は自分の生活を守った。
「指南役、任されました。大変ですし、体もしんどいですし、めんどいですが、やらせていただきます」
いやいやながら、という態度と言動を隠そうともしない良介の宣言を、小次郎以外のメンバーが拍手で讃えた。
「しかし、前から問題になっていたことをお忘れではないですか。脳梗塞とかカチコミとか色々あったので仕方ありませんが」
KOZYとドラゴン、そしてハッピーは顔を見合わせ、首を捻っている。
「なんだったっけ」
「ホームページのなんかだっけ」
「ガレージの温度調節でしたか」
良介は遠くを見ながら小声で言った。
「音楽にボケ防止の効果はないんだな……」
「なんか言ったか」
「いえ何も。GET BACKの次の練習曲を自作するかどうか。それとボーカルをどうするかですよ」
老人たちは、あー、と声を揃えて忘却を表した。それを無視して良介は薫子に話しかける。
「ちなみに三井さんは歌えますか?」
「まったくダメです。ギター弾くので手一杯で」
老人たちは再びあー、と声を揃えて失望を表した。
「なにがあーですか。餌待ちの小鳥みたいに揃って口開けてあーって。勝手に期待しておいて失礼な」
「あら、いいんですよ、マッスオさん」
誰も言うことを聴いてくれないガレージの中で、良介は涙がこぼれぬよう天を仰いだ。考え事ばかりして脳が回転しているからだろうか、7時に朝食を済ませたのにやたら空腹だ。そのせいか、ガレージ内にクッキーのような甘い香りが漂っている気がする。いや、それどころか、ポリポリと何かを齧る音がマイク越しに響いているような。
「あら恥ずかしい。マイク入ってたのね。お腹空いちゃって」
薫子が口を抑えながら何かを齧っていた。ニコニコと屈託のない笑みを浮かべている。聞けば、自分で焼いたクッキーだという。庭に自生していたヨモギを練り込みましてね、ええ、いいヨモギをオホ。これを食べるとなぜかすごくパワーアップしますのよオホ、オホオホホホ、などと強めの勢いで言い放ち、ニッコニコ笑いながらメンバーに配っている。緊張が溶けてきたのだろうか。
やがて良介の前にも老婆はやってきた。すごくパワーアップしたという笑顔を顔に貼り付け、オホオホ言いながらクッキーを差し出している。まだ9時前。昼食までは時間もあることだし、と良介はありがたく頂いた。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
気づくと良介は時計の真ん中に立っていた。時間を決めるのは良介の役割だった。見上げれば車椅子の小次郎がガレージの中をゆっくりと漂っている。
「お義父さん、うなぎ好きですよね」
「何言っとる。メキシコ人のモータルじゃあるまいし」
「あのボートはどこへ行くんですか。海外のSFでそういうシーンがありましたよ」
わしは辛いものがあまり好きではないのに、と愚痴をこぼしながら義父は激しく縦方向に回転した。回転の速度を慎重に調整しながら他の惑星へ移動する途中、彗星に激突してキラキラと四散した。
不規則に動く秒針の先にハッピーの腰が引っかかっており、クロワッサンのようなえびぞりになっている。8ビートのリズムで目がピカピカ光っているので、痛くないのだろう。あのリズムが16ビートなら水分が足りていない証拠だから会社に持っていかなければならないが、電車の操縦方法が不明だ。こんなことならタバコをやめるんじゃなかった。
眼の前の文字盤から、小さいサイズのミニドラゴンが懐中電灯を振り回しつつ現れた。
「ここは暑いな、暑いし暑いから暑くて木曜日」
などと絶叫しながら、あっという間にパンツ一丁になってしまった。そんなに暑いだろうか。言われてみれば暑くなってきたように思う。けど涼しい気もする。暑くもなく、涼しくもなく、かといって丁度いいかというと、それは深海の未知の生物が答えを握っているので良介にはよく分からない。
「長針の動きを邪魔するから暑いんですよ。驚異的なスピードで展開しますしそれは」
「そんな色のせんべいは見たことがない。けどもしも中学時代に戻るなら」
「そうですか。時間を決めますので。呼吸をしてください。もしそれが誰かの罠だとしても」
良介は時間を11時に決めた。
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11時。
良介は周囲を見渡した。バンドのメンバーはそれぞれ思い思いの姿でぬけがらを晒している。その状況をつぶさに語る気力は良介に残っていなかった。
薫子はいない。おそらく一足先に、現実と家に帰ったのだろう。
「あのバアさん……」
小さく呟いて良介は頭を抱えた。まるで罰に怯える子供のように。
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