神様が微笑む時
6月15日
6月15日。
17時前。
大西小次郎は病院に緊急搬送された。脳梗塞だった。
頭を高くしたベッドに仰向けで寝ている小次郎の顔色は赤い。腕には点滴の針が刺さり、目は閉じたままだ。鼻には管が通されている。
20時過ぎ、担当医は病室前の廊下に小次郎の家族を招き、話をした。
「現時点で命に別状はありませんが、ご高齢なので、開頭はしません。薬で血液の瘤を流します」
テレビなどで耳にするサラサラ血液のもっとサラサラな感じと言えるでしょう、と医者は補足をする。サラサラ血液という状態は医者が言うくらいだから本当にサラサラなんだなあ、と良介はぼんやり思った。頭が動いていない。
「その為、少しの切り傷が出血多量に結びつく恐れがあります。くれぐれも鋭いものやひっかかりそうなものの搬入は避けてください」
医者は話を続けた。
「また、目を覚まされた時、言葉が出てこないかもしれません。その時は、できるだけゆっくりと声をかけてあげてください」
「わかりました」
返事をしたのは晴香である。この場所で、うとうとしている誠也を横に座らせた晴香が、最も気を張っていた。ゆえに、医者のすすめに即答することができたのである。
小次郎の妻の良枝はすでに緊張の糸が切れ、長椅子に座って泣き崩れていた。
「……私がもう少し早く……病院に連絡していたら……」
「お義母さん、それは僕も同じです。午前中も一緒にいましたから……」
思い返せば、練習終わりのガレージでその兆候、サインは見受けられた。いつもははっきりと物を言う小次郎が、口の中でモゴモゴとどもったり、体をふらふらさせたりしていたのだ。公園で誠也に倒された時もそうだった。その時に病院に連絡していれば、と良介は頭をかきむしった。
「いつまでも私達が病院にいるわけにもいかない。今日は帰りましょう」
晴香がそう言って泣き続ける母の手を取り、車へ乗せる。すでに眠っている誠也は良介が抱いて運んだ。
ハンドルを握った良介は慎重に車を走らせる。今にも降り出しそうな曇天が、必要以上に夜を暗くしていた。
22時過ぎ。
良介と晴香、そして良枝の三人がテーブルを囲んでいた。
夕食前、小次郎が机に打っ伏すまでの状況をそれぞれが振り返っているのだ。起きたことを悔やんでも仕方がない。ならばどのような段階で病院に連絡すれば良かったのかを、今一度冷静になって語り合っているのである。
後悔し続けているわけではない。こういう対話は、もし次に誰かが同じような状況になってしまった時の行動指針になり得るのだ。
「朝食の時は……普通だったわ」
良枝が記憶を探るようにぽつぽつと語りだす。
「そう……ですね。普段と同じだったので注視していたわけではありませんが、異常はなかったですね」
「うん、私もそう思う。じゃあガレージにいる時は?」
「ああ、練習後の打ち合わせで、ちょっとふらふらしてた。疲れてるのかなと思ったけど、その後に話した時もちょっとモゴモゴしてたので珍しいなって。それは覚えてる。昼食時はどうでした?」
良介は良枝に目を向けた。
「食べるのがすごく遅かった。パンを齧って、お皿に置いて、手にとってまたお皿に……というくらい。『どうしたの? お腹空いてないの?』って聴いたからね。けど『そんなことない』って……」
「じゃあ、そこね」
晴香がうなづいた。
「口ごもるのは誰でもあるし、珍しいことでもなんでもないわ。この段階で病院に、というのはまず無理」
「そうねえ。きりがないしねえ」
「だからふらふらしているのと、食欲があるのに食事が余りにも遅い、という状況が重なったら、本人が大丈夫って言い張っても病院に電話することにしましょう。今後我が家では」
全員が無言で顔を見合わせ、頷いた。
23時を大きく回った頃。
良介と晴香は寝室にいた。今日の出来事が記憶に傷をつけていなければ良いのだが。愛息の寝顔を覗き込んだ良介の心配をよそに、誠也はぐっすりと幸せそうに眠っている。
ソファでうつむいている晴香の眼の前、つまり床に良介はあぐらをかき、頭を下げた。
「ごめん」
「え? 何が?」
「もっと注意深く見ておくべきだった」
晴香は何も言わず首を振り、何度めかの深いため息をついた。
「ガレージの中は熱気もこもってるし」
「もうやめよう。良介が責任感じることじゃないよ」
良介を立たせた。スマートフォンを手にし、しばし躊躇する。
「実は……」
「うん?」
「……あ、いいや。今言わなきゃいけないことでもないし。明日の朝会社に電話しなきゃ。良介は?」
「ああ。明日の朝連絡する。9時になったらみんなで病院行こう」
頷いて晴香はお茶を一口飲み、あくびを一つした。
「先に寝てくれる? 私もお茶飲んだら寝る」
言葉に従い、良介は誠也を起こさないように静かにベッドに入り、電気を消した。今日は眠れるだろうか。
暗闇の中で目を閉じて考える。誠也のことや小次郎のこと。遺産のことや仕事のこと。
時には「早く亡くなってくれればいいのに」とさえ思っていたのに、この胸を占める都合の良い喪失感はなんなのだろうか。
そしてバンドのことが気がかりだった。どのタイミングでメンバーに知らせるべきか、そもそも知らせた方が良いのか、良介には判断がつかなかった。
小さく寝返りをうつ。何回かの寝返りをした頃、押し殺したような小さい泣き声が流れてきた。ソファの方から聴こえてきたそれは、暗い寝室に静かに響いていた。
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