サムデイ

「30分間、水飲みタイムに突入します。水飲んで脳みそのしわを取り戻してください」


 人間ヘ復帰セヨとみことのりを下した良介は、せっせと二人に水を飲ませ続ける。具体的に言うと30分間で最低2リットルは飲ませるつもりでいる。この方法が正しいのかどうかは分からないが、体に留まらないものならば、薄めて排出するのが最も手っ取り早いはずだ。

 75歳の三井薫子と、82歳の真田“ドラゴン”隆がそれほど水を飲めるのかどうかは念頭にない。飲めなければ飲ますのだ。なんとなれば「30分後に警察呼びますんで」と煽ってもよい。毒見役として散ったドラゴンはともかくとして、知っててマジカルチョコレートを勧めてきた薫子に対しては、それくらいの苦痛なら与えても構わないのではなかろうかと良介は考えている。

 なぜ30分という短い時間を設定したか。それはひとえに、もういい加減帰りたかったからである。朝から知らずのうちにキマったりキマらされたり、積極的にキマりにいっている老人を説得したりして、疲れ切っているのであった。


 どうにかコップ2杯目の水を空にしたドラゴンが悲鳴をあげる。


「良介、これは、きついぞ……」

「苦しいですよね。なら上向いて口を開けてください。飲むか飲まされるか、選んでいいですよ?」

「マッスオさん……お水中毒って、あるのよ?」

「貴女の口は、今この場において、水を飲む為にのみあります。食べたり喋る機能はついでです。理解できたら黙って上向いて口を開けてください」


 実質一択の選択肢を設けることにより、ドラゴンには優しさを見せたつもりの良介だが、薫子に対しては慈悲がない。

 もはや全自動水分注入と化した良介は、老人たちに水を飲ませ続ける。事情を知らない者はともかく、ある程度の事情を知っている者が見ても老人虐待の疑いはまぬがれない。だがある程度の事情を知っている者は同じのムジナなので、どこにも訴えかけることはできないのである。そういう観点で言えば良介の行動は理にのみ適っていた。


 30分間後、良介の望み通り、二人の老人はそれなりに戻ってきていた。疲労困憊ではあるが、なんとか話ができるまでに回復している。これなら更に都合よく話を進めることができそうだと良介は小さく拳を握った。


「時間がもったいないので、三井さんとドラゴンの気持ちを一旦横にどけてお話ししますね」


 それどけていいのか。どけられるものなのか。

 呆けたように口を開けて聴いている二人の老人のみならず、言った良介の頭にも同じ考えがよぎったが、ここは時間を優先する。


「とりあえずお二人で結婚しましょう、とりあえず。とりあえず一緒に住んで、とりあえず入籍しましょう。そうすれば万事がうまくいきます。それにより三井さんは寂しい孤独死を迎えることもないし、ドラゴンはもともと三井さんと仲良くなりたかった」


 薫子は横目でちらりとドラゴンを見た。


「それはそうなんですけど。でも、私はまだ主人を」

「同情します、同情はしてます」


 覚悟の差で押し切る。気持ちをどけるといったらどけるのである。


「同情はしますが、もう19年経ってますよね、ご主人亡くなってから。もしその虚脱感からガンジャクッキー齧って19年間オホオホされてたのであれば、それはご主人を体よく言い訳にしている気がします」

「良介お前、その言い方はないぞ!」


 ドラゴンが義憤を顕にしたが、良介は取り合わない。言い過ぎだという自覚はあるが、今日、ここで話を終わらせると決意しているのだ。


「その空白の時間を、新しい目標に費やすことをお勧めします。強くお勧めします」

「新しい目標っていっても、もう私75よ」


 冷笑とため息混じりの言葉に、良介は強く反発した。


「年齢は関係ありませんよ。まったく関係ない」


 この時、良介の頭の中では、Old Holmesが最初に練習した時の風景が浮かんでいた。バラバラのリズム、チューニングすらあってないギター、やる気なさ気なベースに、ただただ笑いをこらえ、同時に絶望したものだ。


「『30代には30代の、40代には40代の、50代には50代の“いつかきっと”があると信じています』。僕の好きなミュージシャンがライブ会場でたまに言う言葉です」


 数回の練習を重ねて、課題曲のGET BACKがようやく形になった時の高揚を、良介は思い出す。


「ならば70代には70代の、80代には80代の、そして90代には90代の“いつかきっと”があって、何がおかしいんですか。100歳が夢を語って何がおかしいんですか。もしそれを笑う奴がいたら僕に言ってください。たちの悪い新興宗教の教祖に依頼して、ヒッドいヒッドい目に遭わせてやりますよ」


 あれは感動に近い、暖かな衝撃だった。人は目標があれば年齢に関係なく成長するのだな、と実感した瞬間でもあった。その際に贈った称賛は、バンド名を変えられ不機嫌だった小次郎に拒絶された。だが、またあの暖かな衝撃を味わいたいがために、いやいやながらも指南役を続けているのだ。メンバーが増えれば、その衝撃がまた違う温かみを帯びたものになることも期待している。

 ドラゴンが急に手を上げた。良介は話をとっとと切り上げて帰りたい気持ちを全面に押し出し、強気の姿勢を崩さずに告げる。


「三白眼の発言を許可する」

「お前な……。まあいい。なあ三井さん、おれは三井さんと一緒にバンドやりたいよ。下心隠さずに言うけど、もっともっと仲良くなりたいよ」


 その声に揺さぶられたのか、薫子がドラゴンを見つめる。


「おれはさ、この年まで独身なのよ。いつか結婚できるよな、って思ってたらこのザマでな。つまらねえ毎日をなんとなく生きて、どうせ孤独死するんだろうなって思ってたら、デイサービスでこのバンドの話聴いてさ」


 薫子は黙ってドラゴンの話を聴いていた。


「久しぶりだったな、日曜が待ち遠しいって思ったのは。日曜のために練習して、ベース磨いてさ。しがらみがない人生だと悟ったようなつもりでいたけど、結局、ただ寂しかったんだろうなって今なら思う」


 いや、そこはもっと早めにしがらんどけよ、しがらみまくっておけよと良介は思うが、さすがに口をつぐんでいる。


「だからやろうよ、一緒に。おれも変われたし。できたら結婚したいけど、それは三井さんの気持ちの問題だから後回しだ。断ってもらっても全然構わない。まずは一緒に、バンドやろうよ」


 薫子は長い時間黙っている。まだ大麻が抜けきってないのか、もっと水飲ますかと良介は腕をまくったが、薫子は静かに話し出した。


「……バンド、やりたいです。“いつかきっと”なんて偉そうなこと言える生き方をしていたわけじゃないけど……」

「三井さん……」

「結婚はまだ先のこととして、そこまで言ってくださるなら……。私も“いつかきっと”を夢見るようになれるのなら……」

「三井さん……。おれ、うれしいよ……」

「よし、じゃあとっとと葉っぱ焼きましょう」


 老人二人が見つめ合う、いい感じの雰囲気にすら火を放つ勢いで良介は行動に移った。気づけばもう夕方だ。早く帰らなければ。あっけにとられる薫子を急かして該当する草の場所を聞き、それら全てを引っこ抜いた。重労働ではあるが、だからこそドラゴンや薫子に手伝わせるわけにはいかない。庭に集め、火をかける準備までの段取りは驚くほど速やかに整った。


 足元に積まれた葉っぱを前にし、マッチを擦る薫子。その決意を優しい目で見守るドラゴン。そして、売ったら末端価格にしていくらになったんだろうと考える良介たちの前で、パッと火の粉が上がった。ふんわりとした柔らかな甘い煙が三人を包む。


 しばらくして火が弱くなって来た頃。夏の夕暮れに、細い煙がゆらゆらとたなびいていく。良介の目には、それが天に登っていく薫子の亡夫の魂にも見えた。


「夕焼けに浮かんで、4秒で1回転している顔がご亭主ですか。顔知りませんけど。2秒なら間違いないのに。4秒だと自信ないな。魔法少女の穢れがたまっていく」

「あれはオホ卵じゃありませんよオホ、明るい扉のオホ向こうは花々がきれいオホホ。ズレてきたわズレてきた、空気がズレてきたわオホ」

「刀がまだ完成してねえんだよ。魂込めないと折れちまうんだよ。なんで分かってくれねえんだ。バスはどこだ」

「魔法少女が老女だと面白いよなあ。どうですかどうですか」


 良介たちが正気を取り戻した頃には、夜空高くに夏の大三角形が瞬いていたのだった。

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