6月16日 3

「左半身に麻痺が見受けられます。長い期間のリハビリが必要なんじゃないですかね」


 医者は絶望的なことを軽い口調で言った。

 ベッドの上の小次郎が、虚ろな目をして天井を見上げている。余りにも瞬きをしないので、良介は義父の口元に手をかざした。生きている。晴香には尻を叩かれ、小次郎には睨まれた。

 我が子の誠也は、動かない小次郎の左半身を触ってはケラケラ笑っている。不謹慎者の血が受け継がれてしまったかと良介は我が子を暖かく見守った。


「とはいえ、このご高齢で、脳梗塞開け初日。点滴が抜けそうになるほどベッドの上をのたうち回った人は、私が診た中ではいません」


 褒めているのかけなしているのか分かりづらい。口調的に後者の気がする。


「ですので、おそらく良くなります。少なくとも、今より悪くなる可能性は低いでしょう。まずは早急な退院を目指しましょう」


 小次郎は掛け布団の下の左手を見た。時折苦しそうな顔をしている。動かそうとしているのだろうか。小次郎は医者を見つめ、言葉を発した。


「ギター」

「ん? なんですか?」

「ライブ、ギター」

「お義父さんプロじゃないんですから。カッコいい遺言はほどほどに」


 と口に出しかけた良介は隣に立つ晴香の震えに気づく。彼女は顔を両手で覆っていた。

 その様子に、良介は己の性格、というか人間性を疑ってしまっていた。実父が脳梗塞で倒れ、妻が悲しみのどん底にいる時に、なぜおれはついふざけたことを考えてしまうのだろうか。こんなふざけ切ったノリが誠也にまで受け継がれたら、誰の得にもならない。

 本人は気づいていないが、これは純粋に小次郎の身を案じ、その安堵が生み出した反動であった。ほっとしてつい軽口を叩き、余計なトラブルを招くおちゃらけ者は多いが、その方面で言えば良介は達人レベルにまで落ちていた。

 晴香が何か言っている。震える小さい声で何かを。良介は耳を澄ました。


「恥ずかしい……」


 晴香の両手は赤面を隠すためのものだったのである。

 やっぱりそうだよな、と思う。だって、さっき「今より悪くはならない」って医者が言ってたもんな。なのに急にカッコいい遺言みたいなこと言われても周囲は受け身取れないよな。

 うんうんとうなずき、良介は再び小次郎に話しかける。急いで確認しておきたいことがあった。


「お義父さん、バンドのメンバーには現状を知らせても?」

「ああ。頼む。頼む……むむむ」

「看護師呼びますか」

「違うわバカタレ。やっぱりドラゴンにだけ。言っておいてくれ」


 三人のバンドで一人だけ除け者にする気か。


「ハッピーには?」

「いい。知らせないで」

「しかし」

「わかったわ」


 良枝が会話を打ち切り、良介の袖を引いた。そのままズルズルと待合室まで連れて行き、声を落として話を引き継いだ。


「あのね、本条さんに知られると、色々とややこしいのよ、多分」

「けど自分だけ知らされなかったって分かったら嫌じゃないですか?」

「うん、あのね。その考えは正しいんだけどね」


 そっか、あの人伝えてなかったのか、などと良枝は呟いていたが、やにわに声を張り上げた。


「ハッピーハッピー、ゴールデンハッピー! 世界人類チャンス目前!」


 機敏な動作で両手を広げて目を剥いた。

 良介は息を呑み、一歩後退した。義父は脳梗塞による半身不随、義母は緊張感と脳の血管が同時に切れたのかご覧の有様だ。

 こういう場合は「お義母さん、動きも血管もキレッキレですね」と褒めた方が良いのか、ナースセンターへ行って頭の方の急患一丁とひと声かけた方が良いのか。どちらにせよ良介が今取るべき行動は一つ。即ち目を合わせないように気をつけること。


「あ、あの」

「知らない? 最近昼間のテレビでもCMやってる新興宗教」

「知りません」

「なんで目を逸らすの」


 良介が会社に行っている時間にそういうCMが放映されているのだろう。病院のおごそかな雰囲気の中でその宗教のパフォーマンスを良枝が敢行したということは、答えは一つしかない。


「ぼ、僕は信仰の自由は認めていますけど、このタイミングで勧誘というのはさすがにどうかと」


 良枝は目を瞬いた。


「何言ってるの! 私は信者でもなんでもないわよ!」

「お静かにお願いします」


 通りがかった看護師に注意を受け、二人はすみませんと頭を下げる。良枝はカバンからスマートフォンを取り出し、何やら検索した結果を良介に見せつけた。禿げ上がった大柄な老人が両手を広げて目を剥いている。黒い三つ揃えのスーツのそこかしこに、金色の星の刺繍が施されていた。


「ゴールデンハッピー教、教祖……? ハッピー幸雄ゴールデン……?」

「見たことあるでしょう」

「あ! あああ! ハッピーだ!」


 良介の大声が待合室に響き渡る。


「ああ、これ、ドラムのハッピーですよ! 長髪のかつらかぶって死化粧してる、ガレージに取り憑いた妖怪みたいなうっさんくさいの! 冒険心のかけらもない慎重すぎるドラムを一丁前に目ェつぶって叩く糖尿病のハッピーです!」

「お静かにお願いします」


 戻ってきた看護師に同じ言葉で再び注意を受け、やはり二人してすみませんと頭を下げた。廊下に背を向け、小声で話し合う。


「だからね、できたら知られたくないのよ」

「わかりました。確かにめんどくさそうですねえ」

「何がですか」


 いきなり割り込んできた声の主は、二人の真後ろに立っていた。

 黒い三つ揃えのスーツに金色の星の刺繍。禿げ上がった頭に薄化粧。

 見間違えるわけがない。老人ホームズのドラムプレイヤー、本条“ハッピー”幸雄。そして新興宗教ゴールデンハッピー教の教祖ハッピー幸雄ゴールデンが、同じ格好をした信者と思しき数人を引き連れていた。

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