(2)

「こいつぁ、傑作だな。偽善的な妖だとばっかり思ってたが、実は鬼だったのか」


 へっへっへと小馬鹿にした笑いを上げる我鬼。

 しかし戌斬は取り合わず、無言のままに畳を蹴った。

 大きく抉られた畳。その速度は呼吸一つで座敷の半分を縦断出来るほどだった。

 瞬時にして間合いを詰められた我鬼が驚きに目を瞠る。


 その腹部に、強烈な戌斬の拳がめり込む。衝撃に背後の壁に激突し、反動で前に倒れ込んで来たところを、容赦ない回し蹴りが我鬼の顔を襲った。

 受け身も取れずに右の壁に吹き飛ばされる。

 頭から壁にぶつかった我鬼は、衝撃で棍棒を手放した。

 だが、戌斬は態勢を整える時間を与えはしなかった。

 ふらつく頭を押さえて立ち上がれば、風の唸る音。

 咄嗟に前のめりに飛び出せば、背後で壁が破砕する音。

 起き上がり様に振り返れば、戌斬の足が壁にめり込んでいた。


(角一本生えただけでその破壊力かよ)


 我鬼は内心で冷や汗を掻いていた。だが、同時に昂揚感すら覚えていた。

 これまでも自分に刃向かって来た連中は数多くいた。

 だが、我鬼が満足するほど全力で暴れられるほどの相手は現れなかった。

 それがまさか、結界に閉じ込められたこんな場所で出会えるとは。


「へへへ。そうだ。そうこなくっちゃ、面白くねぇ! とことんやろうぜ!」


 唸りを上げて顔目掛けて飛んで来る足を左手で受け止め、お返しとばかりに掌底を放てば、その姿は上空へと消え失せて。降って来たのは鋭い踵落とし。

 左腕で受け止めれば戌斬は大きく後方へ宙返り。我鬼はその着地点目掛けて駆け出した。


 今度は我鬼が攻める番だった。

 だが、戌斬は素早く捕まえることが出来なかった。

 受け止め、躱され、流されて。踏鞴を踏んだところに追い打ちの攻撃が飛んで来る。

 忌々しかったが顔に浮かぶ笑みを止めることはなく。腕一本。足一本でも捕まえればこちらの物だとばかりに攻める姿勢を崩しはしなかった。


 自分で抉った足が痛かった。力が入らず苛立ちが募る。故に我鬼は思う。もしも目の前のこの白い鬼を喰らったなら、どれだけ自分は強くなれるのかと。

 途端に我鬼は自分が空腹だと言うことを思い出した。ずっとずっと昔、自分の記憶の奥底にある初めの欲望。暴れ回りたいと思うよりも先にあったはずの欲望。


――喰いたい。


 グルグルと腹の虫が喚き出す。そうなると、我鬼の頭の中は戌斬を喰らうことで一杯になった。口いっぱいに唾液が溢れ出る。

 そうなると、後先など考えられなくなっていた。

 我鬼は戌斬を捕えるために雄叫びを上げて襲い掛かった。



  ◆◇◆◇◆



 桃狩は何故か、嫌な予感がしていた。

 状況はどう見ても戌斬の方が優位だと言うにも拘らず、酷く胸の奥がざわついていた。


「父上。私の傷を癒すことは可能ですか?」


 だらりとしたまま動こうとしない腕を見て、それでもまったく痛みを感じないことを不思議に思いながら訊ねれば、草禅は答えた。


「正直、治すことは可能だが、私に残された呪力もそれほど残ってはいないのだ。

 お前を治せばこの結界を張ることは不可能となる。その意味が分かるか?」

「はい」

「それでも今すぐ治せと言うのか?」

「はい」

「何故だ?」

「分かりません。ただ、何か嫌な予感がするのです。

 父上達のことは私が全力で守ります。ですから!」


 と訴えれば、草禅の後ろで匿われていた術者達は口を揃えて異議を唱え出した。

 お陰で桃狩は幼少期の頃を思い出していた。周囲からの拒絶の言葉を。疎外する言葉を。


 ズキリと胸の奥が痛んだ。自然と身が竦んで、前言を撤回したくなった。

 だが、草禅のたった一言が術者達の言葉を打ち消した。草禅は言った。たった一言、


 ――黙れ。


 それだけで、術者達は言葉も悲鳴も飲み込んだ。


「元はと言えば、私の注意を忠実に守らなかった貴様らの責任ではないのか?

 私が戻って来ていなければ、私の息子達がやって来てくれなければ、今頃外の世界がどうなっていたか分かっているのか? 職務怠慢を棚に上げ、自分の身もろくに守れず、それでいて守ってくれる者達に対しての非難の声。情けなくて涙も出ぬわ。

 嫉妬も嫌悪も畏怖も陰口も、術者だとしても聖人ではない。人ならば仕方がないこととあえて気にせず見逃していればいつまでも。いい加減に恥を知れ!」


 その声は凄まじく冷ややかかつ鋭いものだった。

 自分に向けられたものではないとは言え、思わず桃狩も居住まいを正してしまうほどに厳しいもの。


「こんな情けない者達を守るために貴重な呪力を使い続けて来たのかと思うと、本当に無駄なことをしたと思う。私の後ろに固まって隠れていた分呪力は回復しているだろ。ならばもう結界は要らぬな」


 その声は、到底『否』とは言わせぬ圧力が籠っていた。

 当然のことながら、『否』と答えるだけ度胸のある術者はなく。

 結果、結界は解かれ、桃狩は草禅によって回復してもらうことに成功した。


 その間にも戌斬と我鬼の他者を寄せ付けない攻防は続いていた。

 二人の周辺の畳で無事でいられるものは皆無。

 殴り飛ばし蹴り飛ばし。斬り裂いて投げ飛ばし。掴み合っては離れ、離れては掴み掛り。

 時に我鬼は戌斬の銀色の髪を背後から掴んで仰け反らせ、その無防備な喉元に喰らい付こうとした。


 だが、容赦ない戌斬の裏拳が我鬼の鼻っぱしを打ち砕く。

 堪らず鼻を押さえてよろける我鬼。その腹部に決まる鋭い戌斬の蹴り。

 しかし、呻いたのは戌斬も一緒だった。

 見れば、戌斬の右足が。細筒の白い袴が赤く染まっていた。


 一体いつの間に? と桃狩が駆け出そうとしたならば、『クックック』と不気味な笑い声。

 見れば我鬼の右手が血に濡れていた。蹴られた瞬間、戌斬の足を引き裂いたのだと理解すると、我鬼はその滴る血を迷うことなく舐めとった。

 ゾッとした。怖気が立ち、嫌悪感が先立つ。


「くぁっ! うめぇなぁ、おい。減った力が漲るぜ」


 事実。我鬼の皮膚に刻まれていた傷の一部が白煙を上げて修復するのを見たならば、桃狩は改めて『鬼』と言う存在に恐怖を覚えた。

 どれだけの傷を負わせても、他の妖を喰らえば力を取り戻せると言う事実と、血を舐めるだけで傷を癒す『鬼』の血の効力を。

 血だけでそうなのだ。もしも一口でも肉を齧り取られたなら。四肢の一本でも喰らい尽されたなら、一体どんなことになるものか。


 何が何でも戌斬を喰わせるわけにはいかないと、桃狩は覚悟を決めた。

 しかし、それは杞憂だった。


「ぅおあああああああっ!」


 初めて聞く、戌斬の雄叫びだった。心の底の恐怖心を刺激するかのような雄叫びに反射的に首を竦め、呆然と見やる先でそれは起きた。


「あ?」


 間の抜けた我鬼の声。遅れて落ちる重い物と、吹き出す血飛沫。

 その血が、瞬く間に我鬼の横をすり抜けて、肩からバッサリと腕を切り落とした戌斬の半身を紅に染めた。


「がああああっ!」


 思い出したかのように悲鳴を上げて肩を押さえる我鬼が膝を着く。


「いてぇ! いてぇ! ふざけんな、畜生!」


 血走った眼で戌斬を睨み上げる我鬼。

 だが、その顔が勢い良く蹴り飛ばされる。

 大きく流れる躰。かろうじて残った左手で躰を支えるも、がら空きになった腹部を蹴り飛ばされる。畳を離れて宙に浮き。落下した後転がって。怒りも露わに戌斬に悪態をつこうと口を開くも、戌斬は既に背後に立っていた。


 我鬼は、遥か昔に感じたことのある『畏怖』と言う感情を、今になって思い出していた。


 殺される――と思った。

 ふざけるな――と思った。

 俺はまだ終わらない――とばかりに、左腕を振り抜けば、戌斬によってあっさりと捕まれて。容赦の欠片もなく背中を踏みつけられれば、左肩が嫌な音を立てた。


 なす術なく顔面から倒れれば、ささくれ立った畳で顔を擦った。

 あり得ないと我鬼は思う。何かの間違いだと内心で叫び声を上げる。

 自分は鬼だ。誰もが一目を置く鬼だ。誰もが怖れを抱く鬼だ。

 それが、半端に力を取り戻した鬼に全く歯が立たないなど考えたこともなかった。


 何故だ? 何故これほどまでに力の差がある?

 

 問い掛けたくとも、我鬼の口を吐いて出たのは痛みによる叫び声だった。

 前のめりに倒れた我鬼の右膝を、戌斬が容赦なく踏み砕いたのだ。

 両腕を失い。右足すら自由を奪われた。

 上から押さえつけるように吹き付けて来るのは、極寒の冷気を纏った殺意。


 冗談じゃないと怒りが膨れ上がる。

 だとしても、怒りでどうにかなる状況ではなかった。

 このままでは殺される。終わってしまう。

 嫌だと思ったとき、我鬼は背中を踏み付けられ、髪を鷲掴みにされた。

 そのまま少しずつ持ち上げられれば、躰は強制的に反らされて、背骨が嫌な音を立てて軋んだ。


 その様を見て、桃狩は紛れもなく恐怖を感じていた。

 あれは一体誰なのかと、自分の目を疑っていた。

 あの容赦のない冷たい戌斬と、いつも傍に居た戌斬が重ならない。

 あれは一体誰なのかと頭の中で問い掛ける。

 確かに、圧倒的な力で、人々の脅威となる我鬼を翻弄しているのは良いことだとは思う。思うが、このまま我鬼を殺してしまえば戌斬が帰って来られなくなるのではないかと思ったそのとき、


「戌斬、そこまでだ! 既に我鬼の力は十分に削がれた」


 草禅が戌斬を止めた。その声に反応し、一瞬ピタリと戌斬の動きが止まった。だが、不意に向けられた冷ややかな眼は、草禅の命令を受け止めているようには見えなかった。


 その証拠に、一度止まったはずの戌斬は再び手と足に力を込め始める。

 お陰で我鬼が、溜まらず呻き声を上げる。


「戌斬!」


 思わず桃狩は叫んでいた。このままでは本当に戌斬が知らないところへ行ってしまう。

 しかし、草禅の声ですら今の戌斬には届かない。どうすれば戌斬を元に戻せるのかと、縋るように草禅を見れば、草禅はやれやれと溜め息を吐くと、桃狩を見据えて恐るべきことを口にした。


「桃狩。お前が戌斬を止めるのだ」

「私がですか?!」

「そうだ」

「無理です!」

「無理なものか。お前のその力があれば、今の戌斬を止めることが出来る」


 その理由は、頭を殴られたようなものだった。


「ち、父上。それだけは……」


 出来るはずがなかった。自分の力で戌斬を攻撃するなど。そんな事は出来るはずがなかった。


「何も戌斬を滅ぼせと言っているわけではない。あの角を斬り飛ばすだけだ。そうすれば戌斬は元に戻る」

「ですが、一歩間違えば!」

「死すらもあり得るかもしれんな」

「ならば!」

「だが。このままでは鬼の力に振り回された戌斬が、我鬼以上の脅威をもたらしてもいいのか?」

「!」


 それは、桃狩の望むものではなかった。


「ですが……」

「ちなみに。先程も言ったが私の呪力は殆ど使い尽した。故に、今の戌斬と渡り合えるだけの力はない。もしも今あいつがここを飛び出して行ったところで私には止める術はない。

 解かるか? ここで今の戌斬を止めることが出来るのはお前だけなのだ、桃狩。

 お前がどうしても嫌だと言うのならば仕方がない。

 だが、戌斬が我に返った時、どんな思いをするか。それを考えてみよ。

 大丈夫だ。今なら戌斬は派手には動くまい。お前は狙いを定めて力を放てばよい。

 万が一しくじったとしても、戌斬は感謝こそすれ恨みはすまい」

「ですが!」


 草禅の言っていることは分かるが、それだけは桃狩には出来なかった。

 どうしたところで失敗する自分しか思い浮かばない。

 左右に続いて戌斬まで失いたくはない。

 迷う桃狩に、草禅は突き放したように言った。


「決めるのはお前だ。桃狩。その後、何が起きるかもお前次第だ。

 大丈夫。お前は私の子だ。必ずやり遂げる。それを戌斬も待っている。そのことを、忘れるな」

「がああああっ」


 草禅の言葉に被さって、我鬼の苦鳴が座敷を震わせれば、桃狩は弾かれたように戌斬を見た。心の臓が激しく鼓動を刻む。我鬼と相対したとき以上に恐怖に体が震えた。吐き気が込み上げて来て涙が滲んだ。

 このまま戌斬を失うことも、戌斬が他の者を傷つけることも嫌だった。

 やることは分かっていても覚悟が決まらない。覚悟が決まらないままでは戌斬を失うことは確実。だとしても、草禅の言うように攻撃を仕掛けて失敗したならと考えるだけで、桃狩は身動きなど出来なくなった。


 そうしている間にも我鬼の悲鳴は続いている。みしみしと悲鳴を上げる骨の音さえ聞こえて来るようだった。

 嫌なことばかりで気が狂いそうになったとき――


『大丈夫です。桃狩様』


 励ましの声は耳元で上がった。


『ワタシを消してしまったと自身を責めたあなたは、その力をうまく制御するために努力なさって来ました。そのことをワタシも戌斬も知っています。ですからどうか、ご自身を信じて下さい。今戌斬は助けを求めています。他でもない、あなた様に。故にどうか、戌斬をお救い下さい。それが出来れば、ワタシは桃狩様を誇りに思います』


 それは、左右の声だった。左右が桃狩の背中を押していた。

 一筋二筋と、桃狩の頬を涙が落ちた。

 左右が、桃狩を許す機会を与えてくれた。

 絶対に出来ると背中を押して、戌斬もそれを望んでいると。

 それに縋るのは調子が良過ぎるのではないかと思う。

 思うが、それでも、もしも本当に自分しか戌斬を救えないのだとしたら。

 戌斬を救うことが皆を救うことになるのだとしたら。

 ここでやれなければ、この先ずっと、桃狩は何も出来ないだろう。

 そんなのは嫌だった。足手纏いは嫌だった。

 だからこそ、桃狩は決めた。

 左足を引き、腰を下ろす。居合抜きの構えで戌斬を見据える。

 戌斬は桃狩の知らぬ冷たい眼で見返していたが、その動きを止めていた。

 それはまるで、『今です』と戌斬が訴えているようで――

 桃狩は覚悟を決め、戌斬の名を叫びながら抜刀した。

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