終章『鬼退治』

(1)

「大丈夫ですか、桃狩様」


 問われたのは、我鬼とは対極に位置する座敷の西側の壁に下ろされたときだった。


「桃狩様は、離れて攻撃して下さい。ワタシがあ奴の動きを止めます」


 安否を尋ねながらも、戌斬の顔は我鬼に向けられたまま。犬歯を剥き出しにして怒りを露わに睨み付けながら言われたなら、『わかった』と素直に頷いた。

 そして思う。もしかしたら、あばらが折れたかもしれないと。

 ズキズキと痛む左脇腹を押さえながら、しかし桃狩は意識を集中させた。

 そうしなければ、戌斬を攻撃しかねなかったから。

 いくらなんでも戌斬を攻撃するわけにはいかなかった。

 戌斬まで左右(そう)のように消してしまうわけにはいかなかった。

 左右は言っていた。自分も草禅も恨んではいないと。

 今回の件が片付いたなら、誇りに思うと。


 だが、桃狩は忘れられなかった。自分の力で思いがけず左右を消してしまったときの衝撃を。そのとき左右が浮かべていて驚きと戸惑いの顔を。

 その顔が言っていた――何故ですか、桃狩様!


 それが怖くて怖くて、それ以来桃狩は己の力を恥じた。だが、その力は必ず将来必要になると草禅に諭され、桃狩は自在に力を操れるようになるため日々努力を重ねて来た。

 そしてようやく、力の効果を制御出来るようになった今、再び同じことは繰り返すわけにはいかなかった。痛む脇腹を抑えながら、戌斬と我鬼の動きを目で追う。

 桃狩の任務は、戌斬の援護。だが――


(早過ぎて、付いて行けない……)


 実際問題、戌斬と我鬼の攻防が激し過ぎて、桃狩は手出しが出来なかった。

 下手に斬撃を飛ばそうものなら、かえって戌斬の邪魔をしかねない。

 故に桃狩は、もどかしい思いをしながらも、その時が来るのを待ち続けた。

 体格的には我鬼が優位に立っていた。同様に、一撃に込められる破壊力も我鬼の方が上だと言うことはすぐに分かる。だが、速さは圧倒的に戌斬の方が上だった。


 桃狩から見ても、戌斬は我鬼の攻撃を掻い潜り、確実に一撃一撃を決めている。

 ただし、威力が弱いのか、我鬼が頑丈なのか、さしたる痛手にはなっていないようで。

 それでも、細かい傷でも数を増せば痛みを無視出来なくなるのだろう。

 次第に我鬼は防戦に回り始めた。


 実際、戌斬の速さは我鬼の想像を上回っていた。

 一撃でも与えられたなら話は違ったのだろうが、その一撃がなかなか決まらない。

 ちょこまかと動き回る戌斬は、斬り付けては離れ、離れては斬り付けて。

 直進して来たかと思えば上に飛び。そうかと思えば下から潜り込み。側面に回り、背後から攻撃。一撃一撃は大したものではなかったが、けして無視出来るものでもなく。与えられた傷は致命傷ではないものの、纏う着物はズタズタで、いい加減、我鬼もイライラして来た。その隙を付かれたのだろう。


 背後に回った戌斬によって、我鬼は膝を蹴り付けられ、態勢を大きく崩された。堪らず畳に左手を着くと、俯きがら空きになった首筋に、チリリと焼けるような痛みが走る。

 雄叫びの一つも上げず、戌斬が短刀を振り下ろす映像が頭を過り、我鬼は忌々しげに舌打ちをすると同時に前方へと転がった。

 直後、畳に何かが突き刺さる。確かめるまでもなく、戌斬の短刀が獲物を逃して畳に喰らい付いたのだと言うことは分かっていた。


 振り返れば、戌斬がちょうど畳から短刀を引き抜くところで。

 しかし、突如戌斬が畳に膝を着けば、我鬼は訝しむよりも早く振り返り、反射的に身を反らした。その反動で翻った髪の毛が、蒼白い斬撃によって斬り飛ばされたる。


 刹那、我鬼の頭に血が上った。

 桃狩だった。桃狩が一瞬の隙を付いて攻撃して来たのだと知れれば、猛烈に怒りが込み上げて来た。


 邪魔だった。脅威だった。決して認めたくはないが、本能で解かっていた。

 桃狩の刀身から放たれる蒼白い光は危険なのだと言うことを。決して喰らってはいけないものだと言うことを。


 だが、それ以上に我鬼の怒りに油を注いだのは、戌斬との攻防を邪魔されたことだった。

 桃狩の攻撃そのものは脅威だが、速さも強さも脅威の範囲外。

 そんなものに折角の攻防を邪魔されるのは我慢ならなかった。

 思わず睨み付ければ、露骨に桃狩の顔が引き攣った。

 刹那、我鬼は標的を桃狩へと切り替えた。

 

「小僧ぉぉおおおっ!」


 我鬼が苛立たしげに声を上げ、桃狩に向かって突撃して来る。

 解かっていたことだったが、吹き付けて来る殺気に中てられ、桃狩は心の臓が弾き飛ばされたかのような衝撃を味わっていた。


 恐ろしいと思った。逃げ出したいと切望した。

 だが、桃狩は両手でしっかりと刀を握り、逃げることなく身構えた。

 怖いと思う気持ちを押さえ込む。逃げ出しそうになる足を押さえ込む。


「桃狩様!」


 我鬼の後ろから戌斬が追い掛けて来る。

 引き付ける。上段に構える。


「おおおおおおおおっ」


 雄叫びを上げて、視界いっぱいに広がる我鬼に対し、一気に刀を振り下ろす。

 空間を裂くかのような大きな斬撃を生み出し解き放つと、我鬼の眼が驚愕に見開き、次いで、勝ち誇ったかのようなニヤリとした笑みに歪めば――その姿が忽然と消えた。


 故に、背後にいた戌斬が驚愕に目を見張る。獲物を失った斬撃が、襲ってはならない相手に襲い掛かる。


「戌斬!」「桃狩様!」


 と、互いの名を呼び合えば、桃狩の体は、突如左へ吹き飛ばされた。

 どこにぶつかることもなく、そのまま石壁に叩きつけられる桃狩。

 その視線の先で戌斬が辛うじて斬撃を躱したのを見ると、桃狩は一瞬意識を手放した。


 壁に叩きつけられた反動で落下する桃狩。その腹部に容赦のない衝撃が与えられる。

 我鬼によって鞠のように蹴られたのだと察するのに、時間が掛かった。


「桃狩様!」


 戌斬によって抱きとめられ、思わず呻く。その視線の先で、


「なんて小僧だ。蹴られる瞬間、刀を構えていやがった」


 足をざっくりと斬られた我鬼が、忌々しげに吐き捨て、広がろうとする蒼白い光を気持ち悪げに覗きこんでいた。


「何だこの光、俺の足を喰ってんのか?」


 と一瞬で正体を見破れば、何の躊躇いもなく傷口付近の肉をごっそりと自分で抉って捨てる。


「さすがに痛ぇな。こいつは早く力を補充しなけりゃやってられんぞ」


 にやりと笑った口の端から、太い牙が覗いて見えた。

 獲物が桃狩だと言うことはすぐに分かった。

 ふざけるなと、戌斬の中で怒りが膨れ上がる。

 一瞬でも、我鬼の狙いに気付くのが遅れていたら、戌斬は桃狩の力でもって致命傷を与えられていただろう。それだけは何としてでも回避しなくてはならないことだった。


 もしも傷の一つでも負おうものなら、絶対に桃狩は自分のことを責めただろう。

 左右の二の舞になるわけにはいかなかった。

 戌斬は今でも鮮明に覚えていた。故意にではないとしても、左右を消してしまったときの桃狩の取り乱しようを。幼かったからと言うこともあるのだろうが、それ故に異常に自分を責めていた。 

 それを見て、戌斬は固く誓ったのだ。自分だけはけして桃狩の力で傷つきはしないと。追い詰めたりなどしないと。それを――


(決して許してなどやるものか)


 桃狩の力で同士討ちをさせようと目論んだ我鬼を許しておくことは出来なかった。


「桃狩様。暫し草禅様の元でお休み下さい。あ奴はワタシ一人で倒して見せます」

「しかし、戌斬。相手は鬼だ。そなた一人では……」

「大丈夫です。かつて『鬼喰い』の名を頂いたこともありますので。我鬼ごとき鬼に遅れはとりません。ただ、少し暴れますので離れていて下さい」


 そう言うと戌斬は、足の肉をごっそり抉り、動きづらそうにしている我鬼を一瞥した後、草禅の前に桃狩を運んだ。


「草禅様。桃狩様を頼みます」

「ああ。だが、程々にしておけよ。今の私の力では全力のお前を押さえる自信はないからな」

「大丈夫です。使うのはこの短剣きば一本ですから」

「それなら良い。行って来い」

「はっ!」


 そう言って頭を垂れた戌斬が立ち上がり、桃狩に背を向けて歩き出すと、桃狩は己の無力さに苛立ちと情けなさを覚えていた。




 桃狩の左腕は全く動かなかった。いや、左だけではない。右腕も動かなかった。

 おそらく、先ほどの横殴りの一撃で右腕を。壁に激突した際左腕が折れたのだと知る。

 相当痛いはずなのに、痛みを感じないことが怖かった。


(脆い。脆過ぎる。なんて自分は弱いのだ!)


 桃狩は悔しさに涙が滲んだ。

 涙で滲んだ視界の向こうで、戌斬が立ち止ったのを見る。場所は座敷のほぼ中央。

 そこで戌斬は短剣を持った右手を持ち上げた。


「そんな場所からどうするつもりだ?」


 我鬼が嘲笑しながら問い掛ける。

 実際桃狩も、戌斬が何をしようとしているのか分からなかった。

 すると突然、結界の内側から草禅が呟いた。


「よく見ているのだ、桃狩。そなたが兄と慕う者の実力を」


 一体どういう意味なのかと草禅を振り返ろうとしたときだった。

 視界の端に、信じられないものが引っ掛かり、桃狩は慌てて戌斬を見直した。

 後ろからでも分かった。戌斬が自分の腹に短剣を突き立てたと言うことを。

 刹那、戌斬を中心に風が吹き荒れた。

 その風は、離れている桃狩の肌をビリビリと刺激した。

 背筋をゾクリと悪寒が走り抜ける。

 そこには、桃狩の知らない戌斬がいた。


「お、お前……その角は……」

 さすがの我鬼も、目を瞠って言葉を失っていた。

 何故ならそこには、額の左から一本の白い角を生やした戌斬が立っていたからだ。


「お前……鬼だったのか?」


 半ば呆けたような口ぶりは、桃狩の思ったことと同じだった。


「戌斬が……鬼?」


 鬼だ鬼だと、桃狩の後ろ――結界の内側で草禅に匿われている術者達が騒ぎ始める。

 しかしそれも無理からぬことと桃狩は思ってしまっていた。今まで想像すらしなかった事実に、桃狩自身も驚きを隠せなかったのだ。


 鬼と言えば、桃狩が知っているのは目の前にいる我鬼だけ。

 勿論、鬼の被害状況などは話では聞いていた。だが、実際実力を目にしたのは我鬼だけ。

 そんな我鬼と――残虐非道な鬼と、いつも穏やかな眼差しで見守ってくれていた戌斬が同じ者だとは到底思えなかった。


 だが、目の前に居る戌斬の気配はそれまでの物とは一線を画していた。

 何をどう違うのかと問われても適切な言葉が思い浮かばない。

 それでもあえて言うのであれば、恐怖を覚えていた。

 つい先ほども戌斬によって助けられたと言うのに、その戌斬に対して恐怖を抱いたのだ。


「恐ろしいか?」


 静かに問われ、桃狩はぎくりと体を強張らせた。

 その動揺を草禅は見逃さなかっただろう。

 今まで世話になっておきながら、守られておきながら、一度正体を垣間見ただけで恐怖を抱いた自分のことを、草禅が薄情者だと思ったかもしれない。情けないと思ったのかもしれない。呆れられたかもしれないと思うと、桃狩の中で焦りが募った。 

 だが草禅は、桃狩の心中を察したかのように、責める言葉を続けることはなかった。


「あれは本来、鬼を喰らう鬼――『鬼喰い』として恐れられていた者だ。

 それ故、私に下るとき、私に逆らわぬことの証明として力の象徴である二本の角を折り、献上して来た。故に私は、そこまでしてくれた戌斬を信じる証拠として、その角を戌斬のぶきとして加工し、戌斬に返し、主従の関係を結んだ。

 だが、いつどこでどうなるかも分からない。その時は躊躇わず角を取り戻せと言ってあった。故に戌斬は決断したのだろう。お前を守るために。

 故にお前はしっかりと見守ってやれ。人を守るために使われる鬼の力を」


 草禅の言葉は欠片も戌斬を恐れてはいなかった。絶対の信頼関係を前提とした、信頼の言葉だけ。その強い想いに心を打ち震わせながら、桃狩は『はい』と頷いた。

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