第十章『襲撃を受けた村での再会』
(1)
「お前と言う奴は! お前と言う奴は! お前と言う奴は! 吐きそうになるたびに桃狩様を投げ寄越し、『暗鏡行路』から連れ出して休んでは、いくらもしないうちに再び拉致して走り回り、また吐きそうになれば投げて寄越し! 桃狩様を何だと思ってるんだ!」
時は夜。空には満天の星々と半月が浮かび、塩の匂いが立ち込める芒野原で、死んだように伸びている桃狩の傍で、鵺の胸ぐらを引っ掴んで喚き散らしているのは誰あろう戌斬。
だが鵺は、露骨にうるせぇなと言わんばかりに、右耳に指を突っ込んで顔を顰めると、ぬけぬけと言い切った。
「別に良いじゃねぇか。お陰で丸一日残して『鬼ヶ島』の目と鼻の先にまで来たんだからよ。後は陸路走っても明日の昼前には着くんだ。感謝されても責められる言われはねぇぞ。
つーか。担いでる上で吐かれたら着物が汚れるだろうが」
「お、お前と言う奴は……」
「やめなよ戌斬。そいつに何かを期待するだけ疲れるよ。
それより桃狩を見てやんなよ」
『暗鏡行路』と現実世界を出たり入ったりしたお陰で、幾分慣れたと言っても、多少は猿我自身も酔っている今、怒るだけの精神力もないのか桃狩の傍で寝そべって力なく訴えれば、
「だったら俺が別嬪さんの看病してやるよ。腹か? 背中か? それとも胸か? 苦しいところは遠慮なく行ってくれ。俺が丁寧に擦ってやるよ」
と、嬉々として提案すれば、
「今すぐそいつの首を刎ねろ、戌斬」
剣呑極まりない声で処刑宣言を発する猿我。
「ちぇ。連れねぇの」
と、露骨に唇を突き出して不貞腐れて見せれば、次の瞬間には簡単に戌斬の手を払いのけて背を向けて、
「まあいいや。だったら俺は何か食うもんでも探して来るぜ。ここに居てもお前さんにお小言もらうだけだからな。せっかく前に進ませてやったってぇのにいちゃもん付けられたら堪んねぇし。
んじゃ、そう言うわけだから、とりあえず火ぐらいは起こしておけよ。生でも構わんが坊主には無理だろうからな」
「って、どこに行く気だ!」
「どこも何も。その辺ぶらついてれば村の一つや二つはあるだろうさ。そこでちょいと食料を頂くんだよ!」
「盗む気か!」
「生憎俺は人間じゃねぇからな。金を払って物を頂く習慣はねぇんだよ。
大丈夫。とりあえず人間は殺さねぇよ」
「おい!」
「戌斬……いいから。行かせなよ。その方が静かだよ」
「くっ」
「んじゃ。後でなぁ」
そう言ってひらひらと手を振りながら芒の奥へと消えて行く鵺を暫し睨み付けていたが、完全に気配が消えた頃に、戌斬は盛大にため息を吐いた。
認めたくはないが、結果的には鵺の言う通り前に進むことが出来ていた。
もしも鵺が居なければ、今頃はどこにいたものかと考え掛けて途中で止める。
考えるまでもなく、今ここにはいなかったと言うことだけがハッキリしていたなら、考えるだけ無駄だった。
それよりも何よりも、今はいかにして桃狩を回復させるかだった。
「桃狩様、大丈夫ですか?」
芒を踏み倒し、即席で作った床の上――それも作ったのは鵺だったのだが――で、ぐったりとしている桃狩に声を掛ける。
よほど苦しいのか、眉間に皺を寄せた厳しい表情で、右側を下にして丸まっている姿を見たならば、どうしようもなく同情した。
「代われるものならば代わって差し上げたいが……」
そればかりは無理だと言うことは百も承知だった。
「お前は大丈夫か、猿我」
何一つ出来ることもなく無力感に苛まれながら、桃狩の隣で横になっている猿我に訊ねれば、
「まぁ、少し辛いけど桃狩に比べればどうってことないよ」
「そうか……」
「まぁ、あたしがこんなこと言うのもなんだけどさ。あんまり気にしなくてもいいと思うよ。桃狩はあんたを責める気なんて全くないと思うからさ」
「ああ。ありがとう」
「って、そんなしおらしく礼なんて言わないでおくれよ。何だか調子が狂っちまうよ」
「それはこちらの台詞だ。まさかお前から励まされるとは思ってもみなかったぞ」
「う、うるさいね。あんたがあんまりにも落ち込んでるからだろ」
「ああ。自分がこれほどまでに凹むとは夢にも思わなかったさ。悔しいが、お前たちがいてくれて良かったと思うよ」
「べ、別に、あたしはあんたのために付いて来たわけじゃないから。桃狩のために付いて来ただけだから。あんたに礼を言われる筋合いなんかないよ」
「ああ。解かってる。だが、それはそれ。これはこれだ。きっと桃狩様もそう思っている。
だから素直に受け取っておけ」
「う、うるさいよ。本当にもう」
そう言うが早いか、桃狩と戌斬に背中を見せて丸まる猿我。
その耳が真っ赤に染まっているのを目にすれば、戌斬は声を立てずにフッと笑った。
そしてとりあえず、桃狩と猿我二人に布団を掛けて、自らは火を起こす準備を始めた。
その音を聞きながら、桃狩は申し訳ないと心中で何度も謝っていた。
正直、『暗鏡行路』を使っての強行軍は辛かった。
吐き出す物もない状況で、それでも何度も身を折って吐き出した。
酸っぱいものだけがせり上がり、喉を焼いて吐き出して。
それすら出て来なくなっても嘔吐きは止まらず、言葉通り体を折って全身で吐き出そうとした。苦しかった。涙が出て来た。唾液は止まらず、吐き気は治まらず。いっそのこと胃の腑を取り出してしまえと何度思ったか分からない。
早く終わってくれと何度懇願したくなったか分からない。
もう行きたくないと、何度切望したか分からない。
休ませて欲しかった。あの上下も左右も見失う眩暈を引き起こすだけの空間に連れ戻さないでくれと、何度泣いて許しを請いたくなったか分からない。
いっそのこと気を失えればどんなに良かったかと思う。気を失ってさえいれば知らぬ間に『鬼ヶ島』まで行けたかもしれないと言うのに、桃狩は気絶出来なかった。
あまりの辛さに気が狂うのではないかと恐ろしくもあった。
むしろ、その方がどんなに楽か分からなかったが、桃狩は狂うことすら出来なかった。
そして今、指一本動かせない状態だった。
何も出来なかったと落ち込んでいる戌斬を励ますことすら出来なかった。
眠ってしまえたらどんなに良いかと思うが、眠ることすら出来ない自分を恨めしく思いながら、何度も心の中で戌斬に謝った。
とにかく苦しくてしんどくて、こんなとき、母芙蓉がいてくれたらどんなに安心出来るかと思ってしまえば、桃狩は堪らなく情けなくなった。
こんな有様で、明日無事に草禅を救い出すことが出来るのかと自身を叱咤するも、それで容体が良くなるわけでもなく。
本当に情けなくて泣けて来ると思ったとき、それは伝わって来た。
「ん? 何か揺れてないかい?」
訝しげに猿我が躰を起こして口走れば、
「確かに。何やら震動が伝わって来るな」
実際、地面に横たわっているせいか、断続的に地面を伝って来る震動を桃狩も感じ取っていた。
「一体どこから……って、ちょいと戌斬。あっちの空、なんか明るくないかい?」
「ああ。もしかしたら、火の手でも上がっているのか?」
「だとすれば、少しばかり尋常じゃない炎が上がってることになるよ?」
「まさか、鵺の奴がおかしな真似をしたのではあるまいな」
「まさか。いくらあいつでもそんなこと……」
と一応は否定しつつも途中で猿我が言葉を飲み込んだときだった。
「おいおい。こんなところで抜け駆けたぁ狡いじゃねぇか。オレにもその人間食わせろよ」
梟の如き頭と翼を持った妖が弱った桃狩の傍に突如降り立った。
刹那、戌斬の動きは速かった。
間近で見ていた猿我ですら我が目を疑うほどの速さで妖を地面に押さえ付けると馬乗りになり、容赦なく翼を折ると、悲鳴を上げる妖の頭を引っ掴んで地面に叩き付けた。
「貴様どこから現れた。ふざけたことを抜かすと、殺すぞ」
それが本気だと言うことは離れて見ていた猿我でも分かった。
おそらく、過分に八つ当たりも含まれているだろうと容易に想像出来るあたり、猿我が少しばかりその妖に同情すると、
「わ、悪かったよ。お、お前のなら、もう寄越せとはいわねぇよ」
へ、へへ――と誤魔化し笑いを浮かべながらくぐもった声で許しを請う妖。
だが、その後が問題だった。
「む、向こうに行けば、今なら人間食い放題だからな」
「何?」
「は、はは。何を驚いてやがる。お前らはその人間をそこから攫って来たんだろ? 他の連中に横取りされねぇように……って、おい、何だって押さえ付ける手に力を込める? い、痛ぇよ。なぁ、頼むよ。このままだとオレの頭が、つ、潰れちまうよ。悪かったって言ってるだろ。なぁってばよ!」
だが、妖の命乞いを戌斬は聞き入れたりはしなかった。
問答無用で頭を握り潰すと、蒼褪めた顔で自分を見上げる猿我を見て、『聞いたか?』と訊ねれば、猿我は『聞いたよ』と頷いて。
明るくなっているその場所で、妖が人を襲っていると聞いた以上、
「行こう、戌斬。一人でも多く助け出すんだ」
血の気の戻らぬ青白い顔に決意の表情を浮かべた桃狩は、込み上げる吐き気を飲み込みながら命令を下していた。
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