第九章『暗鏡行路』
(1)
猿我は初め、いきなり抱きすくめられたとき、本気で身の危険を感じていた。
だが、猿我の警戒心と危機感をまるで無視し、鵺は静かな寝息を立てていた。
猿我は鵺の腕を枕にし、簡単に着物が剥ぎ取られないようにがっしりと抱き締められている。その状況で着物の隙間から見える鵺の睫毛が長いと思った。
もしかしたらこれは、鵺なりの気遣いだったのかと猿我は思う。
もしもあのとき、鵺が咄嗟に着物を被せてくれなかったなら、猿我は桃狩と戌斬に見られたくもない姿を見られていた。
もしもあのとき、『寝るぞ』と言って、抱きすくめられていなかったら、頭から着物を被ったままの猿我は、普通に着ないことを不審がられていただろう。
そういう意味では、猿我は確実に鵺に助けられた。
違う意味で気遣った戌斬が桃狩を連れて行ったときは、少なからず絶望感も抱いたが、少しだけ、ほんの少しだけ『砂粒ほどには良い奴』だと認識を改めた。
外見も言動も軽薄で、人のことをいやらしい目でしか見ない最低の妖だと思ったが、本当に砂粒ほどには認識を改めてもいいかもしれないと思えば――
ありがとう――と、口の中だけで呟いた。
そして、今更ながら大人の男に、子供のように抱かれて眠ることなど初めてだと思いながら、猿我も束の間の眠りに付いた。
――――……そして、
「いつまで寝ているつもりだ! さっさと起きろ!」
怒り心頭の戌斬によって起こされた。
「んー、まだもう少し……」
と言って、寝惚けているらしい鵺が、唐突に猿我を抱き寄せて着物越しに頬ずりをして来たら、
「いい加減に起きろ!」
「げはっ!」
顔を真っ赤に染めた猿我が着物から顔を出して、容赦なく鵺の腹部に拳をめり込ませた。
「え、猿我殿……それはあまりにも鵺殿が不憫……」
と、桃狩が引くが、猿我には聞く耳などなかった。
「あ、あんたねぇ、貸しがあるから黙っていればいつまでも。人を抱き枕にしたんだから、これで貸し借りはチャラだよ!」
「はあっ?! そりゃ酷いぜ、別嬪さん! 俺があれほど機転を利かせて助けてやったって言うのに、あんまりじゃないか」
と、攻撃を受けると同時に飛び起きた鵺が、腹を抑えながら涙眼で抗議すれば、
「うるさい! 添い寝してやっただけ役得だったと思いな!」
「それを人の着物奪ったままで言うのかい? さすが山賊様だ」
と、指摘を受ければ、猿我は顔を赤らめて潔く脱ぐと、鵺に突きつけて言ってやった。
「返せばいいんだろ、返せば!」
と、言った瞬間。
「わぁお♪」と鵺が眼を輝かせて歓声を挙げ、
「あわわわっ、猿我殿!」と、慌てて桃狩が背中を向け、
「前を隠さんか!」と、戌斬までが顔を逸らしたなら、猿我は鵺の視線の先へ目線を送り、
「○▲◇×※Σ!」
声にならない悲鳴を上げて、再び着物で前を隠すと、力一杯鵺の頬を叩いた。
「何で俺だけ?!」
真っ赤に染まった頬を押さえ、少しだけ涙目になった鵺が抗議の声を上げるも、
「この変態!!」
猿我が説明をすることはなかった。
◆◇◆◇◆
「――なァ。ちょっと俺思ったんだけどよ。何だってお前ら『
と、鵺がおもむろに口を開いたのは、夜が明けて人目を憚るように森の中を突っ切っている真っ最中だった。
「……『あんきょうこうろ』?」
と、口ずさんだのは、戌斬に背負われ先頭を走っていた桃狩。
その耳慣れぬ名前に興味を引かれ、右斜め後ろを振り返れば、
「え? ちょい待ち。お前さん『暗鏡行路』知らないのか?」
信じられないとばかりに念を押す鵺。
「……と言うか、あたしも知らない。なんだいそれ?」
「おいおいマジかよ。別嬪さんまで……って、まさか、お前まで知らないとは言わないよな、戌斬」
言外に、『頼むからそれだけは違ってくれよ』と含ませて前方の戌斬へ問いかければ、戌斬は答えた。
「知っている」
「だったら――」
「…………問題があるのだ」
「問題? おいおい、戌斬さんよ。このまま休まずに走っても予告日までに目的地に辿り着くかどうか怪しいって言うのに、それ以上の問題がどこにあるってんだ?」
「何?」
逡巡しているかのような間を開けての返答に、鵺が鼻で笑って現実を突きつければ、いち早く反応したのは桃狩だった。
「それは本当なのか鵺殿。
戌斬。お前はそのことを初めから知っていたのか」
「なぁ、だから『暗鏡行路』って何なんだい? それ使うとちゃんと間に合うのかい?」
「戌斬。どうして黙っていたのだ? 問題とは何だ? このままでは間に合わないのか?」
「いえ。必ず間に合わせて見せます!」
「いや、間に合わねぇから」
「お前は黙っていろ。お前が間に合わずともワタシならば間に合う!」
「それで辿り着いたって、体力も気力も俺たちもいないで、どうやって妖の軍勢がひしめく中、そいつの父親助けるつもりだ? それともお前さん。我鬼とか言う鬼よりも強ぇのか? そりゃあいくらなんでもあり得ねぇよな。鬼に一騎打ち挑んで勝てるのは同じ鬼だけだ。でも、お前さんからはそれだけの力を感じねぇ。
あ、でも、坊主の親父さんは勝ったんだよな。どんだけ強ぇ人間なんだよ。それこそ鬼か?
だとしても、どんな強力な力を持ってたってな。孤軍奮闘にも限界っつーもんがあんだよ。お前それ、いつ来るのか知ってるのか? 本当に間に合うって断言出来るのか?
どんな問題があるのか知らねぇが、俺だったらとりあえず早く目的地に付く手段があるなら迷わず使うがな」
「戌斬!」
「そもそも、俺が告げた予定日って言うのは、あくまで『暗鏡行路』使うことが前提だったからな」
「じゃあ、それ使わなきゃダメじゃん。『暗鏡行路』って言うのが何だか分からないけど。
それって危ないのかい?」
「危なかねぇよ。妖なら誰でも通る道だからな」
「だからだ」
「あ?」
「だからこそ、通れんのだ」
「なんでだよ。俺たちゃ立派なあやか――あ」
言い掛けて、鵺はようやく戌斬の言っていることを理解した。
「そうか。別嬪さんはともかく大将が問題なのか」
「私が問題とはどう言うことだ? 私のせいでその道が使えないのか?」
「…………」
「戌斬。そうなのか?」
問われて戌斬は間を開けて、『はい』と小さく頷いた。
「でも、どうして桃狩のせいで使えないんだ? そこは妖しか通れない道なのかい?」
「通れなかねぇさ。実際今までだってふらりと人間が迷い込んだこともあるぐらいだからな。大抵そう言うときには神隠しにあったって人の世では大騒ぎになるが……」
「じゃあ、別に問題ないだろ?」
「いや、ある」
「だから、それは何なのだ?」
断固として譲れないとばかりに断言する戌斬に、若干の苛立ちを覚えた桃狩が詰問すれば、戌斬は唇を噛んで押し黙った。
「戌斬!」
己の何が問題なのか教えてくれぬ連れに苛立ちが募る桃狩。
自分のせいで草禅救出が間に合わないかもしれないと言う緊急事態に焦りも募れば、つい戌斬を呼ぶ声にも詰る響きが含まれて。
「なぁ。そもそも本当に『暗鏡行路』って何なんだい? 人間だって迷い込むことぐらいあるんなら、別に桃狩が通ったって問題ないだろ?」
背後で猿我がじれったそうに問い掛けた。
それに答えたのは鵺。
「『暗鏡行路』ってのは、こっちの世界と繋がってる妖の世界にある道さ。
その道を使えば、こっちの世界で普通に進むより、時間も距離も短縮出来る。
普通は人間には見ることも感じることも出来ねぇが、稀に迷い込んでわけのわからんところに出ちまう者もいるし、『暗鏡行路』から出られずにそのまま息絶える者もいれば、運悪く妖と出くわして喰われる者もいる。
そう言う意味では、『暗鏡行路』は妖にとっちゃあ便利だが、人間にとってはすこぶる迷惑な道ってことになるが……それと大将を通せねぇ理由は俺にも分からんね。独りで通れってんなら無謀だろうが、俺たちも付いてるんだ。何も危ねぇことなんてねぇだろうよ」
「ならば、その道を行こう! 戌斬!
そなたが何を危惧しているのかは知らぬが、私にはそなたがいる。
それとも、そなたでもどうしようもない問題が私にはあるのか?
だが私は、より早く『鬼ヶ島』へ行けるのであればその方がいい。頼む戌斬、私は私のせいで父上救出が間に合わなくなるのは耐えられぬ。より早く着けるのであればその道を行ってくれ!」
「だそうだ。戌斬。強情張って間に合わなかったときと、お前さんの言う『問題』を天秤にかけて、どっちが問題か考えてみろ。答えはもう決まってんじゃねぇのか? 一応言っとくが、消えた命は戻らねぇからな。まぁ、鬼並に強ぇ術者なら、あっさり蘇るかもしれねぇがな」
と揶揄を含んで忠告されたなら、戌斬は答えた。たった一言、『わかった』と。
そして一行は、森の中にある『暗鏡行路』の一つへと進行方向を変えたのだった。
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