(2)

「ぅわぁ……なんだいここ。すっごい綺麗な場所じゃないか」


 一見すれば何の変哲もない木と木の間。その間に手を伸ばし、まるで暖簾を持ち上げるかのように戌斬が手を上げれば、そこにぽっかりと闇が現れた。


「ささ、行こうぜ」


 と鵺に背中を押されて一歩踏み込んだ瞬間、猿我が口走ったのがそれだった。

 そこは、不思議な空間だった。入り口は確かに闇だったにもかかわらず、中に入ると光が溢れていた。地面も天井も壁もない。ただの広大な光の空間。様々な色が前から押し寄せて背後へと抜けて。一体ここは何なのかと目を凝らせば、光の向こうに歪んだ森が見えていて。それもすぐに消えたなら、猿我は気付いた。

 その空間に、ポツリポツリと丸い穴が開いているのを。

 黒々とした穴は、『暗鏡行路』の出入り口なのだと鵺は説明し、とりあえず付いて来いと走り出したなら猿我は素直に後に続いた。


 自分が今、何とも言えぬ高揚感に満たされていることに猿我は気が付いていた。

 まるで真新しい玩具を与えられた子供のように、見知らぬ空間を駆けることが楽しくて仕方がなかった。一歩一歩踏み出すたびに、色鮮やかな波紋が広がり、躰は重さを忘れたかのように前に進んだ。


 故に、猿我は初め気が付かなかった。前を行く鵺との間が徐々に開いて行くことに。

 気が付いたときには、鵺の姿は猿我の手のひらほどの大きさになっていた。


(いけないいけない。浮かれ過ぎて離されちまった)


 そう思って慌てて速度を上げるが、


「あれ? 何で追いつかないんだ」


 焦りを覚えるまでにそうそう時間はかからなかった。

 鵺の背中がどんどん、どんどん小さくなって行く。

 脳裏に、わけの分からない場所に出たり、『暗鏡行路』から出られなくなった人間の話が蘇り、背筋を冷たいものが落ちて行く。

 いざとなれば穴から外へ出れば良いとは思うものの、出た先がどこで、どうやって『鬼ヶ島』へ向かえばいいのか、元の山へ戻ればいいのか分からないのではないかと思えば、途端に猿我は不安になって。


「ちょ、ちょいと戌斬。鵺ってばさっさと一人で行っちまいやがったよ」


 と、振り返り、今度こそ完全に言葉を失った。

 振り返った先に、戌斬と桃狩の姿がなかった。

 ゾッとした。一瞬にして頭の中が白くなり、助けを求めるように再び鵺へと視線を向けるも、猿我の目には既に鵺の姿は捕えられず。


「ちょ、ちょいと。冗談が過ぎるよ。鵺? 戌斬? 桃狩? なぁ、どこだよ……どこにいるんだよ。なあ! あたしを独りにしないでおくれよ! なあってばさ!」


 不安で堪らず、ともすれば泣き出しそうになりながら声を振り絞って助けを求めたときだった。


「な~に泣きそうな顔しながら可愛いこと言ってんだい? 別嬪さん」


 冷やかしを含んだ厭味ったらしい声は、背後から猿我を抱きすくめた上から降って来た。

 その際、猿我の豊満な胸が鷲掴みにされたなら、猿我は盛大な悲鳴を上げて振り向きざまに手を振り抜いた。

 ざっくりと爪が肉を抉る感触と同時に『いったっ!』と言う男の悲鳴。

 自分の胸を左手で守りながら、恥辱に髪の毛を逆立てて振り返れば、いなくなったはずの鵺が引っ掛かれた顔面を抑えながら信じられないものを見る目で猿我を見下ろしていた。


「うわ、いったぁ。そりゃねぇだろ別嬪さん。いきなり後ろで泣きそうな声出してるから迎えに来てやったってーのに。男前が上がっちまったじゃねぇか」

「う、うるさいよ。あんたがあたしをからかって置いて行くのが悪いんだろ」

「は? 俺が別嬪さんを置いて行く? おいおい。冗談は止めてくれよ。俺はずっと別嬪さんのすぐ目の前を走ってたぞ。戌斬はともかく別嬪さんを置いて行くわけねぇだろ」

「よく言うよ! さっさと行っちまったくせに!

 どうすんだよ。桃狩と戌斬の姿も見えないし」

「は?」

「あたしはね! 桃狩と一緒にいたいんだよ! それなのにどうしてあんたと一緒にいなきゃいけないんだよ!」

「――って、ちょい待ち。桃狩と戌斬の姿が見えねぇって、それ、本気で言ってんのか?」

「は? どう見たっていないだろ。ふざけてんのかい?」

「いやいや。ふざけてなんかねぇさ。ていうか、むしろふざけてんのは別嬪さんの方だろ?

 あいつらならすぐそこにいるだろ?」

「はぁあっ? 一体どこに――」


 いるんだよと、猿我が食って掛かろうとしたときだった。


「桃狩様!」


 確かに、焦った戌斬の声は真後ろで上がった。驚いて振り返れば、そこに、両手と膝を着いた姿で思いっきり吐いている桃狩と、傍目にも分かるほど血の気を引かせた戌斬の姿があった。


「嘘……」


 思わず本音が口を吐いて出た。確かにさっきはいなかった。

 だが、二人は目の前にちゃんといた。

 いや、それよりも――


「桃狩!」


 身を折って吐いている桃狩に何が起きたのか気になって、猿我は慌てて駆け寄り背中を擦りつつ戌斬を詰る。


「戌斬! 桃狩はどうしたんだい? 何があってこんな」

「だから言ったのだ。この道は使いたくなどないと。

 鵺。一度ここから出るぞ」


 そう言うや、戌斬は鵺の返事を待たずに、近くの穴へと桃狩を抱えて飛び込んで。慌てて猿我が後に続くと。


「ははぁ。なるほど。そう言うことね」


 納得いったとばかりに頷いて、鵺も大人しく後に続いた。


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