(3)

「ようやくお前さんが『暗鏡行路』使うことを渋ってた理由が分かったぜ」


 暗い穴を抜けた先。どことも知れぬ川の岸。丸みを帯びた石が敷き詰められたその場所に桃狩を寝かせて水を飲ませる戌斬に向かって、鵺は仲間外れのように転がっていた大きな石に腰を下ろして口を開いた。


「分かったって、何が分かったんだよ」


 鵺の方を振り返りもせず、血の気を引かせて蒼くなった桃狩を心配そうに見つめる猿我が噛み付けば、鵺は面白くなさそうに答えた。


「そうなるから――だろ?」

「そうだ」


 戌斬の肯定は早かった。


「でも、どうしてこうなったんだい? あたしたちは平気なのに桃狩だけ」

「いや。その坊主だけじゃねぇ。別嬪さん。あんたも似たような状況になってた自覚はねぇんだな」

「は? あたしは何ともないよ?」

「何ともなくはないだろ。すぐ傍に俺たちがいたのに、『あたしを独りにしないでぇ~』って、可愛い声で泣いてたじゃないか」

「泣いてなんかないよ!」

「うわっ、あぶね。別嬪さんの腕力で投げると石も立派な凶器だぞ」

「いっそ、貫かれて消えちまいな!」

「あーあ。真っ赤になって怒ってる顔も可愛いねェ~。

 って、冗談はそのくらいにしてだな。だからその石下ろせ。別嬪さん。どうも別嬪さんが『暗鏡行路』に入ってからズレてること言ってるなぁって思ったんだが、別嬪さんにはあの場所どう見えてたんだ?」

「え? どうもこうも。綺麗な光が溢れてる場所だろ? 歩くたびに光の波紋が広がって。

『暗鏡行路』って、暗い鏡の行路って書く割には明るいなぁって思ってたんだよ」

「だからだよ」

「何が」

「そう見えてたのは、多分別嬪さんだけだ」

「は?」

「普通の妖にはな。あの道は漆黒の闇に見える。で、出入り口は光って見えるんだ。それも、覗けば元の世界と左右が反対になった状態で見える。それこそ鏡に映ったみたいにな。

 だから、誰が付けたか知らないが、その道の名前は『暗鏡行路』――」

「え? でも……」

「だから、俺も初め気が付かなかった。

 どうもあの道は、妖以外が足を踏み入れると違う面を見せるらしい」

「つまり?」

「半妖の別嬪さんと人間の坊主には本来の『暗鏡行路』とは違う物が見えていた。

 そのせいで、別嬪さんは目の錯覚を起こしたし、坊主は平衡感覚を失った」

「平衡感覚?」

「ようはあれだ。ひたすらグルグルその場で回って、いきなりまっすぐ歩けって言われてもまっすぐ歩けねぇだろ? それのもっと酷い状態さ。頭の中だけがグルグルまわって酔うんだよ」

「酔う? あの、お酒を飲み過ぎて世界がグルグル回るのと一緒かい?」

「おおっ。そうそうそうそう。で、飲み過ぎると吐き戻す奴いるだろ」

「いるねぇ」

「それと同じことが桃狩に起きたんだよ。

 でもよ。だったらだったで初めにそう言えよ。

『暗鏡行路』に入ると、桃狩様が使い物にならなくなるので避けたいのです――ってな」

「貴様……桃狩様を侮辱するのか?」


 ギラリと鵺を睨み付ける戌斬だが、鵺は腰掛け石に片膝を立て、その膝に肘を乗せ、その掌に顎を載せながらニヤリと笑って否定した。


「いんや。馬鹿にするのはお前だよ、戌斬」

「何?」

「お前の過保護っぷりには参ったね。目を回して吐くぐらいが何だってんだ。酔って吐いたところで死にゃあしねぇよ。ただただ苦しいだけさ。

 そんなことのために『暗鏡行路』使わなかったなんてな。それで間に合わなかったら本当にどうするつもりだったんだか。それこそお前さん、その坊主に恨まれるぜ?」

「そんなことは解かっている! 解かっているが……、見ていられんのだ」

「ふ~ん。でもよ。実際じゃあ、どうするんだ? 普通に陸路を行くのか? それとも、手っ取り早く距離を稼ぐのか?

 言っちゃあなんだが俺は、妖を大量に狩れればそれでいいんだ。狩れさえすれば、そこが『鬼ヶ島』じゃなくても一向に構わん。だから、お前さんたちが決めればいい。言っとくが、迷うのは自由だが、こうしている間にも時間は過ぎてるからな」


 言われずとも、戌斬だって解かっていた。このままでは時間だけが過ぎて行く。

 この状況で陸路を駆けても桃狩の負担は増すばかりで距離は稼げない。

 だが、『暗鏡行路』を使ってしまえば距離は稼げたとしても回復するまでにどれだけかかるか分からない。

 かつて桃狩が小さかった頃、草禅と戌斬の後を追って『暗鏡行路』に入り込んだことがあった。あの時は丸一日衰弱したままで、食事もまともに取ることが出来なかった。

 桃狩は忘れているかもしれないが、戌斬ははっきりと覚えている。

 仮に辿り着けても、動けなければ話にならない。

 だが、辿り着けなければそもそも草禅を救い出すことすら出来ない。

 その点だけを見れば、形振り構わず距離を稼ぐべきだとも思う。

 思うが、桃狩の苦しむ姿は見たくはなかった。

 

 過保護だと言われればそれまでだ。自分でもどうかとも思う。思うが桃狩のことは草禅に頼まれているのだ。

 鵺は言った。吐いたところで死ぬわけではないと。

 だが、人間は脆い。今は吐くだけだが、そもそも『暗鏡行路』は人間が耐えられる空間ではないのだ。瘴気に当てられれば死ぬことさえ十分に考えられる。


 ある意味、破邪の力を有する桃狩ならば、その気になれば瘴気も浄化してしまうかもしれない。ただし、そうなった場合『暗鏡行路』そのものにどんな影響が出るか全く想像が付かない。

 同時に、どんな悪影響が返って来るものかも分からない。

 そんな不確定要素の多い場所を通ることが良いことなのかどうなのか。

 実際草禅は、あの時を限りに桃狩を『暗鏡行路』へと連れて行ったことはない。

 そもそも『暗鏡行路』と言う名前自体を教えていなかったことから関わらせるつもりなどなかったと言うことは容易に想像が付く。


 ならば、そんな場所へ桃狩を連れて行く必要はないのではないかと戌斬は考える。

 しかし、間に合わなければすべてが無駄に終わるのだ。

 戌斬は迷った。迷いながらも情けないと思っていた。前夜のやり取りが思い出された。あえて見ずにいたことだが、戌斬は桃狩に見切りをつけられることを恐れている。その結果が鵺の言うところの『過保護』なのだろうと言う自覚もある。

 だが、桃狩は大恩ある草禅の託してくれた存在なのだ。桃狩によって救われて来た面も数々あるのだ。芙蓉にもくれぐれも。と頼まれている。何はなくとも桃狩を守らなければならないと誓って来た戌斬に、危険を承知で『暗鏡行路』を進めとは言えなかった。


 しかし、出来ることなら『暗鏡行路』を進んで距離を稼ぎたいのは事実。

 悩む戌斬の横手で、鵺の呆れ返った溜め息が聞こえて来る。

 煮え切らない自分が本当に情けないと思った。昔の自分が見たなら、きっと鵺のように鼻で笑い飛ばしていただろうと思う。

 自分はいつの間にこのように弱くなってしまったのだろうかと自問していた。

 どちらも選べぬ優柔不断な存在に、一体いつの間になったのだろうかと。

 これほどまでに情けなくなるぐらいなら、昔のように何一つ守るものもない存在でいた方がどれだけマシだったかと、膝に置いた手を握りしめたときだった。


「……戌斬」


 弱弱しくも名を呼ばれ、ハッと我に返って顔を上げれば、全く血の気の戻らぬ青白い顔で桃狩は告げた。


「……あの道を、使おう」

「桃狩様!」

「大丈夫」

「どこがだよ。あんた、顔が真っ青だよ?」

「心配してくれてありがとう。猿我殿。だが、こうしている時間があるのなら、少しでも前に進みたい。だが、言葉通り少しでは意味がないのだ。同じ時を過ごすなら、距離を稼いだ方が良いに決まっている」

「ですが!」

「信じろ、戌斬。大丈夫。苦しいには苦しいが、鵺殿が言うように吐くだけだ。

 私は、私のせいで間に合わないことだけが耐えられない。だから行こう。戌斬……うっ」

「ああーっ。だから言わんこっちゃない。全然大丈夫じゃないじゃないか」


 体を起こした反動で、思い出したかのように吐き気が込み上げて来たらしい桃狩の背中を擦りながら猿我が抗議すれば、


「大丈夫。もう、吐く物もない」


 と、全然説得力のない顔色で笑って見せる桃狩を見て、やはり陸路を進もうと戌斬が決めたときだった。


「よく言った坊主。それでこそ大将だ」

「うわっ」


 突如として鵺が桃狩を肩に担ぎ上げたから堪らない。


「何をするんだ鵺!」

「そうだよ! まだ寝かせておかないと危ないよ!」


 と、猛抗議する戌斬と猿我を尻目に、鵺はニヤリと笑って言い切った。


「お前ら馬鹿か。大将が自分の進む道を選んだんだ。だったら黙ってそれに従え。

 いつまでもウジウジ考えてったって何一つ進みゃあしねぇんだ。

 お前たちが行かねぇならそれでもいい。でも俺はさっさと行くぜ。

 ちまちま、ちまちま、あっちこっち移動して妖狩るよりも、まとまってる連中を狩る方が楽だからな。んじゃ、そういうことだから、お先に」


 そう言うと、二人が止める間もなく再び『暗鏡行路』へと飛び込んで行く鵺。


「ちょ、ちょっと待ちなよ!」

「ふざけた真似をするんじゃない! 鵺!」


 当然のことながら見過ごせるはずもなく、二人も再び『暗鏡行路』へと踏み入った。

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