第一章『我鬼討伐の依頼』

(1)

 澄み渡った静寂が支配する竹林の中。

 一人の少年が真剣を正眼に構え、眼を閉じて精神を統一していた。


 歳の頃は十五、六。切り揃えられた前髪に、頭の上で一つに結わえられた髪は黒。端整な顔立ちに引き締まった体躯。五尺半弱の背丈に纏うのは、薄い藍色の着物と袴。


 早朝の朝日が差し込む中で、少年はゆっくりと深く、深呼吸をした。

 青竹の爽やかな匂いが肺一杯に吸い込まれる。息を止める。

 瞼越しの、白とも黒とも付かない世界の中で、少年は感じた。


(左後方!)


 振り向き様に上げた刀を、躊躇うことなく振り下ろす。

 刀が飛来物を切断するも、少年の動きは止まらない。

 すかさず逆袈裟懸けに斬り上げ即座に落とせば、右前方から来る飛来物を叩き斬る。

 反転。八の字に斬りつけ、一歩下がれば、顔の前を何かが通り過ぎた。

 しゃがむ。頭上を風が吹き抜けて、立ち上がり様に刀を振り上げる。手応えがある。

 少年は、眼を閉じたまま、気配だけを頼りに剣を振った。振り続けた。

 小さな気配と風を切る音を頼りに剣を振り続け――

 突如背後に生まれた大きな気配に、思わず眼を開け、振り向き様にしゃがみ込み、かつ、剣を頭上へ掲げたなら、

 

 ギィイン


 重い一撃が振って来た。


「くっ……」


 思わず苦鳴が零れる。その額を一筋の冷や汗が流れ落ちる。


 目の前に、白狐の面を被った、白い水干に袴姿の性別も判らぬ相手がいた。

 おそらく、刀を持つ手や、五尺にも満たない体躯から察するに子供か女。

 だとしても、受け止めた一刀の重さは成人男性以上のもの。

 普通に考えたなら出せるものではない。だが、現に目の前の狐面は、未だに地面へ足をつけることなく、ぐいぐいと刀を押し込んで来る。

 そう。いつまでも地面に付けずに力など籠められるものではない。

 そんなことが出来るのは人外のものだけ――即ち、妖!


「うおおおおおっ!」


 少年は気合を入れて、刀ごと狐面の妖を押し退ける。

 振り切った刀に押し返され、向かって右に飛んで行く狐面。しかし、空中でクルリと体勢を整えると、一本の竹の側面に着地。反動で撓る竹の勢いを利用して、一気に飛び出して来る。


 瞬き一つで目の前に迫った狐面が、更に回転を加えた横一線の斬撃を打ち込んで来る。


「くっ」


 渾身の力を籠めて受け止めたのも束の間、暴力的な衝撃の重さに、刀を握る手が痺れ、弾かれれば、少年にとって大きな隙が生まれた。


 当然、着地もそこそこに、すぐさま狙って来る狐面。

 だが、狐面が地面を蹴る僅かな時間で、少年は体を捻った。

 左足を軸にした、強烈な回し蹴りが狐面の体に吸い込まれる。

 異様に軽い感触だけを残して、鞠のように飛んで行く狐面。


 それでも狐面は空中で再び体勢を整え、同じように竹の側面に着地した。

 蹴られた威力を体現するかのように、先ほど以上に大きく撓る竹。

 見上げなければ見えないほど、頭上高くに茂る竹の葉が、驚いたようにざわめいて――邪魔だとばかりに狐面を弾き飛ばす。


 風を斬り裂き、真っ直ぐに飛んで来る狐面が、再び回転を加えた重い一撃を放たんとした瞬間、青年は大きく一歩、右側へと踏み出した。

 刹那、堆積した笹の葉を巻き上げて、狐面が激突する勢いで着地する。


 物言わぬ狐の面が忌々しげに睨み付けているように青年には見えたが、次の瞬間には、狐面が着地するとほぼ同時に振り下ろしていた一刀が、問答無用に狐面の頭を捕らえていた。


 さくりと軽い手応えだけを残して、狐面の胸元まで容易に切り裂く刀身。

 悲鳴の一つも上げることなく、血潮が盛大に噴き出すわけでもなく硬直する狐面が、突如として『ポン』と軽い音を立て、煙に撒かれて消えたとき――


「あー、驚いた」


 少年は心底ぐったりした声で呟いて、盛大な溜め息をつくと、がっくりと項垂れた。

 その視線の先には、頭から胸元までがさっくりと破られた、掌ほどの人型の紙が落ちていた。


「――父上。精神統一のときは邪魔しないで欲しいと常々言っているではありませんか」


 さくりさくりと、下葉を踏みしめる音を捉え、非難がましい眼で見やれば、


「いやいやどうして。あの速さに追いついて来られるようになったのだな、桃狩(とうか)。父は嬉しいぞ」


 全く悪びれた様子もなく、感心された。

 歳の頃は三十代の半ば頃。黒紫色にも見える髪は短めで、白い狩り衣に赤い袴を穿いた父親は、穏やかな笑みを浮かべて青年の名を呼んだ。


「そう言いますが父上。あのとき初めの一刀を受け止めていなければ、私は死んでいましたよ」


 目の前に立つ、少し見上げなければならない父親の笑顔に向けて不満を零せば、


「ああ。殺す気でやれと命令しているからな」

「…………」


 明日の天気の話しでもしているかのように、朗らかな口調であっさりと物騒極まりない言葉を聞かされた。


(皆、優しそうな外見に騙されるが、この人はこういう人なんだよな)


 と、諦めの極致に近い感想を抱き、頬が引き攣る。

 それを見た父親が、「まぁ、聞くのだ、桃狩」と、息子の肩に手を置いて、慰めるように言葉を紡ぐ。


「ちゃんとお前の力量に合わせて作っているのだ。故に今度は、もっと強い式神を仕掛けておくからな。頑張るのだぞ」

「――わぁ、ありがとうございます」

「なんのなんの。礼にはおよばぬ。そなたを鍛えるためなら、父は鬼にもなろう。はっはっは」


 思わず棒読み口調で答える桃狩に対し、父親は満足げに笑って見せた。


(……この人は……)と、薄っすらと殺意にも似た感情が浮かび上がる。

 だが――


(これが、父の私に対する愛情表現なのだろうな)と思うと、責めるに責め切れなかった。

 実際、万が一のことを考えて、式神だけを飛ばすのではなく、自分自身も気配を隠してこっそりと様子を見ていたのだから可愛いものだ。

 ましてや、稀代の大陰陽師の生まれ変わりと囁かれている、術者の中でも最強の異名を持っている父、草禅(そうぜん)。その息子である桃狩がろくな術の一つも使えない落ち零れだと知ったときの衝撃と虚しさと悔しさを鑑みれば、類稀ない優しさを有していると言っても過言ではないだろう。


 実際桃狩は、面と向かって落胆されたことはない。罵られたことも見限られたことも無視されたこともない。簡単な術一つまともに使えないことで桃狩自身が己を嫌いになったとしても、草禅は桃狩を見放さなかった。『明日には出来るさ』と言っては励まし。判らないところを根気よく何度も理解するまで教えてくれた。


 それでも満足に術を使えずに自暴自棄になった桃狩を見た草禅は、術を使うことを早々に諦めさせ、剣術を学ぶように促した。

 今思えば草禅には判っていたのだろう。桃狩には術者としての才能はないが、剣術家としての才能はあるのだと。そして、それこそが桃狩自身に秘められた『本当の才能』を生かすことが出来るのだと。


「――それはそれとして父上。今日はまた朝早くから何故こんなところに?

 いつも仕事が休みのときはもう少し遅くまで寝ているのではありませんか?」

「ああ。それなのだがな、そのことで少しそなたにも話があってな――」


 と、草禅が話を切り出したとき、


「草禅様! 屋敷の方にお迎えが来ております。すぐにお戻りを――ああ、これは桃狩様。お邪魔して申し訳ございません」


 どこからともなく現われた、歳の頃十八ほどの、銀髪に緑色の眼を持つ白ずくめの青年が、片膝立ちになり頭を下げて報告と謝罪を口にした。


「おお、戌斬(いぬき)。わざわざ迎えに来てくれたのだな、ありがとう」


 と、白ずくめの青年を労う草禅。


「今すぐ向かうので、暫し屋敷にてくつろいでいてくれと、伝えておいてもらえるか?」

「はっ」と一つ頷き、一瞬にして姿を消す。

 それを見て、せっかく来たばかりだと言うのにとんぼ返りさせられるとは……と、桃狩が気の毒に思っていれば、


「やれやれ。予想以上に早い展開だな……」


 困ったものだと憂い顔になり草禅がポツリと呟いた。


「父上。迎えが来たとはどういうことですか?」


 何故だか桃狩は嫌な予感がしていた。


「ああ。そのことを話そうとしていたんだが、どうやら時間がないようだ。帰る道すがら説明しよう」

「はい」


 促され、桃狩は素直に従った。


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