先生には、ナイショ⑥-1

 またセンセは、元気よく島の診療医として働きはじめる。

「往診に行ってきまーす」

 冬の昼下がり、白衣の上にコートを羽織って、ドクターバッグ片手に出掛けていった。


 野間汽船の仕事も漁協の仕事も休職している晴紀は、診療所の手伝いをするようになっていた。

 手伝いをしながら美湖が留学する準備を晴紀が進めている。母の英会話も順調だった。


 さて。今日は午前のみの診療、午後は往診。俺は診療所の掃除でもするかな――と、掃除道具を手にした時だった。

 スマートフォンにメール連絡があり、晴紀はその報告を見てハッとする。

 まだキッチンで昼食の片づけをしている母のところへと向かい、晴紀は『でかける』と伝え、支度をして診療所を出た。


 漁船に乗り込んで、晴紀は冬の瀬戸内海へ。市街の港へ向かった。


 向かったのには訳がある。

 晴紀は空を見上げる。清々しい気持ちで。



 瀬戸は、夕波小波。

 日が暮れる前に晴紀は戻ってくる。


 漁港に父からもらい受けた漁船をつなぎ船を降りる。

 黒いダウンジャケット姿で、港を歩く。

 また子供達が叱られるとわかっているのに、テトラポットの上で遊んでいる頭がちょこちょこと見え隠れしているのを晴紀は見つける。

 見てしまったら見逃せない。そう小学校からも通達されているから。


「おい、こら。また手を切って怪我をしてもしらないぞ。岡ちゃんや母ちゃんに叱られるだろ」

 晴紀の声に気が付いた子供たちが、テトラポットの影からひょいと顔を出した。

「怒られんけん」

「大丈夫やけん」

 『やけん』じゃ、ないやろが――と、うっかり伊予弁で叱りそうになる。自分もそうやって海辺で遊んできたからわからなくもないが、ご時世がご時世。見逃せなかった。


「こら、また怪我をするだろ」

「大丈夫や」

「大人もここにおるもん」


 ん? 大人もここにいる? どこに? 晴紀は気になって、ついに岸辺から波打ち際に並べられているテトラポットの上へと降りてしまう。


「怪我しても大丈夫やもんな」

 うんうんと男の子が三人で頷いている。でもその向こうにも数人の子供の頭が見える。潮が満ちると波がかぶる場所だった。

「だから、危ないゆうてるやろがっ。ほんまに母ちゃん呼ぶぞ」

 波打ち際のテトラポットを覗いて、大人として晴紀が乗り込むと、そこにはやっぱり小さなバケツを置いて浜辺遊びをしている男子と女子数名、そして。


「ハル君!」

 白衣にコート姿の美湖がいた。


 呆気に捉えていると子供たちが笑う。

「な、大人と一緒やからええやろ」

「怪我しても先生いるから大丈夫やろ」

 そういうことかとほっと……しない!

「センセ、なにやってんだよ!」

 それでも美湖はなに怒ってるのとばかりにきょとんとしている。


「なにって。この子たちにカメノテの取り方教わっていたんだけど」

「センセ。あんまり泳げないんだろ。子供が落ちても助けられないだろっ」

「岡さんにもちゃんと伝えているよ。あとで見に来てくれるっていうからそれまで私が一緒にいるだけだから」


 それならいいんだけどよ――と、思わずまた晴紀の目に力が入ってしまう。


「ハル君、怖い顔やめて」

「してねえよ」

「ねえね、ハル君。これ、見て見て。ほんとうに亀の手そっくり!」


 美湖が楽しそうにバケツを差し出しても、晴紀の顔はまだ強ばったまま。その様子に子供達も不安そうな顔になった。


「ハルおじちゃん、怒らんといてや」

「ちょっと、ハル君のこと、おじちゃんとか言わないでよ!」

「そないなことゆうたって、うちの父ちゃんとハル君、一歳しか違わんよ」

「私のママはハル君の後輩だったんだって」


 美湖が恐れおののいた顔になった。


「やめて、やめて! あなたたちのパパにママはまだお兄さんとお姉さんなの。ハル君のことも、ハル兄ちゃんて呼んで!」


 どうして、どして、美湖先生? 子供達が訝しむ眼差しが揃って美湖を直撃。


「あ、わかった。先生、ハルおじちゃんより年上なんだ」


 子供達についにばれてしまい、美湖が『ひっ』と引きつった顔で慌てている。

 子供には敵わない先生を見ると、晴紀も笑いたくなった。


「えー、そうですよ。ハル君より年上ですよ。あなた達のパパやママよりちょっとだけね……、て、やっぱり私、オバサンだね」


 子供達にお母さんよりもお姉さん、だから、お姉さんとは呼ばせられないと観念してしまったようだった。


 子供達が顔を見合わせた。

「先生は先生だよ」

「お姉さんでもお母さんみたいでもないもんね」

 うん、先生は白衣の先生。子供達が口々にそう言った。


「先生、アメリカに行っちゃうってほんと?」

「え、あ、うん……。春になったらね」

「もう帰ってこんの」

「ハル君と結婚するから、島のお嫁さんになるの。だからアメリカでのお勉強が終わったら帰ってくるよ」


 子供達がほっとした顔になる。


「結婚式、いつなの」

 女の子はそこが気になるようだった。

「先生、指輪はまだなの」

 ませた女の子数人が美湖の指先をみた。まだそこにはなにもない。

「えーっと、先生は時々、大きな病院で手術もするから、指輪はね……」

 そんなこと、一言も望まない、せがまない、年上の彼女で、そこは女の我が侭だと躊躇ってしまう美湖を晴紀は見てしまう。


 やっぱりね、センセはかわいくないよ。だから、俺が。


「それはどうかな」

 テトラポットの上に立っていた晴紀は、片手に持ったままの小さなペーパーバッグを掲げる。

「センセ、ちょっと来て」

「え、え……」


 ませた女の子たちが気が付いた。


「ハル君、それってもしかして」


 女の子数人がきゃーっとざわめく。男子たちはなになにとまったく解らない顔。


「海の上じゃ危ないから、こっちでな」

 テトラポットの上をおぼつかない足取りで歩いて来る美湖の手を、晴紀はぎゅっと握りしめひっぱっていく。


 きゃー、手を繋いだよ。

 わー、ハルおじとセンセ、らぶらぶじゃん。

 子供達の騒々しさも気にせず、晴紀は岸辺に美湖と一緒に上がる。


「え、ちょっとハル君、待って。なにそれ。突然」


 美湖にもわかったようだった。それでも晴紀は微笑んだまま黙って、ペーパーバッグの中から小箱を手に取り、包装紙を破って、その小箱を開け、中からガラスのケースを取り出す。


 そこには大きな真珠の指輪。


「勝手に選んだ。伊予にお嫁に来る先生へ」


 宇和島の最高品質のもの。それを専門店に大玉と小玉を使ったリングのデザインをオーダーしていた。それが仕上がったとの知らせが来て、晴紀は市街まで取りに行っていたのだ。


 海の島にお嫁に来た先生に、海の男が海から産まれたものを、そして地元産のものを贈りたかった。


 子供たちが『わあっすごい』と湧き上がり、とうとう彼らもテトラポットから岸辺にあがってきた。


「すごい、ハル君、これって婚約指輪てやつだよね」

「すげえー、ええっ、ハル君、いまからこれ先生に渡すのかよ!」


 俺たちいていいの、いいの――とあたふあしている子供達。

 でも晴紀はかまわない。そのまま目の前で驚いている美湖の手を取った。


 黒いコートの下は白衣、海辺の潮風に彼女の黒髪が揺れている。ヘアクリップが壊れてしまってから、美湖は晴紀が好きな大人っぽい分け髪のままになった。瀬戸の青い光の中、彼女がそっと微笑んでいる。


 その指をそっと取って、晴紀はパールリングを……。


「センセの白衣みたいな色だろ」

 温かな白いパールは、センセの白衣に似ていると思ったから。

 細い指にその温かさが灯る。

 子供達がうわー、きゃーと声をあげた。


「うそ、信じられない。私……、結婚だってしないと思っていたから……」


 本当は指輪なんてなくてもこの先生はなにもいわなかっただろう。でも晴紀はそういうわけにはいかなかった。

 こうして指輪をさせておかないと、またすぐに誰かが先生に寄ってくるだろ。これは俺という夫が出来る印な。

 でも言わない。こんな心配をしているのも、先生にはナイショ。


「わー、すごい。先生、見せて見せて」

 女の子たちがこちらに走ってくるのが見える。美湖も嬉しそうに指輪を見せるのかと思ったら。

「ハル君、ありがとう。愛してる」

 子供達がいる目の前、晴紀にぎゅっと抱きついたかと思うと、つま先をきゅっとあげて晴紀の唇にちゅっとキスをしてきた。


 先生の背中の向こう、子供達がさすがに驚いて駆けてくる足を止めてしまう。晴紀もぎょっと目を見開いたまま、美湖の熱いキスを受けるまま。


「これアメリカでするね。大事にする」

 やっと離れた美湖が嬉しそうに真珠の指先を見つめた。

 でも晴紀はもう力が抜けてへたれそうになる。

「センセ……。いまのダメだろ。子供達の前でなにすんだよっ」

「え、あ……、」

「あ、じゃねえよ……。うわ、絶対に島中に噂になる」

「だって、子供達の目の前で渡したのハル君だよ」

「センセがそういう顔していたんだよ」

「そういう顔てなに? 指輪が欲しそうな顔をしていたっていうの!?」

「違うだろ! 先生が女の顔になったから今だと思って!」

「私だって、いまがハル君に愛しているって言う時だと思ったからじゃないの!!」

 一転して、いつもの遠慮ない言い合いを始めた婚約者同士に、子供達がおどおどしはじめている。


「なんや。騒がしいな。おう、美湖先生、子供たち見てくれてありがとな。ハルもおったんか」


 岡ちゃんがやってきた。でも険悪な様子の美湖と晴紀を見て、怯えている子供達の様子にも気が付いた。


「なにがあったん?」

「ハル君が、美湖先生に婚約指輪を渡したの」

「そしたら、センセが嬉しくてハルおじにキスしたんだよ」


 キスだあ!? 岡ちゃんも仰天して美湖を見た。美湖も晴紀もそっと顔を反らす。


「で、ハル君がびっくりして、先生のこと怒ったら、先生も怒って……」

「んで、喧嘩してた」

 まるで岡ちゃんに助けを求めるように矢継ぎ早に報告する子供達。


「ははあん。おまえら、なに子供達の目の前で幸せボケしているんだ」

 つい、うっかりと晴紀は美湖と一緒にうつむいてしまう。

「ま、でもな。きっとアメリカでは当たり前になるんだろ。予行練習ってやつやな。おまえたちも見ときな。幸せな大人ってヤツだよ。本気で喧嘩が出来る相手はなかなかおらんで」


 遠慮ない口で言い合える相手。晴紀は美湖と顔を見合わせ、最後には笑い合う。


「わあ、綺麗。いいな、美湖先生。私も大人になったら欲しい」

「きっともらえるよ。先生みたいにオバサンになっても、ハル君みたいなかっこいいお兄さんにお嫁さんにしてもらえたからね」

「また、センセがハルおじとのろけてる」

「いいだろ。おまえたちも大人の男になったら、センセみたいな『かわいくない女』は捕まえないように」

「また、なによそれ。普通はセンセみたいないい女を捕まえろよてのろけるところでしょ!」

「いいんだよ。こんなかわいくない先生を愛せるのは俺だけなんだから」


 岡ちゃんまで面食らって『はー、しょうもないっ!』と言われてしまう。晴紀もふざけて美湖を抱きしめると、男子からいい加減にしろと言われて、美湖と晴紀はまた寄り添ったまま笑ってしまった。


 幸せなのは、彼女と一緒にこの島にいるから。

 夕の瀬戸は夕波小波。彼女はもうすぐ瀬戸の島の嫁になる。

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