14.島のお姉さん
俺が今治から帰ってくるまで、考えておいて。
ハルが海上に船で行こうと誘ってくれた。
返事はまだしていない。また十日ほど、今治の伯父と従兄と仕事をすると島を出て行った。
水着なんて、あるか! もう何年も着ていないから!
濡れてもいいラフな服で行ってもいいかとハルに再度確認すると『ダメ』と言われた。『私の水着姿が見たくて言ってるの』と真顔で聞くと『そんなんじゃない』とまた怒り出した。
とにかく水着を着てこいと言われる。めんどくさいからやめようかと思ったけれど、なんとなく……。せっかく瀬戸内海に出てきて海に出たことがないのももったいないと思ったり、なによりも……。『商船会社にいた男が操縦する船』の興味が湧いた。
ハルの過去の片鱗が見られる気がして。
そんな気持ちになった自分はいったいなんなのだと思っている。
美湖はまだ目の当たりにはしていない重見母子の苦悩。でも、島に来てそろそろ三ヶ月。診療所で様々な島民を診て、往診でそれぞれの家を訪ね、またはたまにいく商店街での挨拶など。島の空気、人の声で、島民が暮らす事情を肌で感じるようになってきた。やはり『重見親子』のことは、それとなく腫れ物扱いで遠巻きに見ているんだと。いま美湖のいちばん近しい存在である重見親子のことは、決して誰も話題にしない。それでも伝わる空気がある。『晴紀君がよくしてくれるみたいね』とか『清子さん、元気になったみたいでよかったのう』と当たり障りないことを口にする人々のその表情が、美湖の反応を窺っているのがわかってしまう。
それはもしかすると、美湖が『ハルの噂』を聞く前から見せていた様子だったのかもしれない。美湖も知らないから気がつかず、でも『噂』を聞いてしまったから気になるようになったのかもしれない。
晴紀も清子もいちばんどん底だった辛い時期に、母子で支えてきたに違いない。辛いことは辛いままにして、出来るだけのことで立ち上がってきた三年間だったのではないだろうか。
ハルが留守の間も清子がかいがいしく世話をしてくれたり、おいしい料理や季節の食べ物でもてなしてくれると、彼女だって前の自分に戻ろうとしているのだと美湖は感じている。息子の晴紀だってそろそろお母さんにべったりばかりでもいけないのではないかと思い始めていた。
ハルが誘ってくれたから行ってみよう。なにか彼なりの美湖に伝えたいことが海にあるのかもしれない。そう思えてならず……。
庭のバラと紫陽花、そしてリビングにかけられた『よしず』には、若紫色と瑠璃色の朝顔のが巻き付いて涼しげ。
薄暗くなるリビングだったが、強い陽射し除けにはちょうどよく、よしずには夏の花、向こうには瀬戸内の青い海が見える。
ダイニングで清子がつくったおいしい昼食をいただき、いつもの季節のフルーツや清子特製のところてんに黒蜜をかけて食べたり……。瀬戸内の食生活を満喫。
「ごちそうさまでした。まさか、手作りのところてんが食べられるとは思っていませんでした」
「よろこんでいただけて、作りがいがあるわ。晴紀なんて、当たり前の顔で食べるのよ」
「それはもう、お子様の頃から馴染んでいたからでしょうね。それに子供ってきっとそうですよ。私も実家のことあまり考えていませんでしたが、瀬戸内の島に来ることになって母があんなに心配してくれるだなんて思っていませんでしたから……」
「横浜ならいつだって会えるとお互いに思っていたのでしょうね。それが海を渡らなくてはこられない遠い西の島ですもの。それは心配しますよ」
清子さんも晴紀君が東京にいる時はそうだったんですか――と、喉元まで出掛けて、美湖は慌てて飲み込んだ。
少し前ならば、きっと平気に聞いていたと思う。知らなかったから。
でもきっと。東京の商船会社を辞めたその理由を清子は絶対に思わずにいられなくなる。そう思って慌てて口をつぐんだ。
「ほんと、美湖先生のご実家から送られてきたお茶、おいしい」
美湖が水出ししている冷茶を、今日もおいしそうに飲んでくれている。その笑顔に曇りはない。そのままでいて欲しくなる。
「それでは。午後の診療に行って参ります」
「いってらっしゃいませ。相良先生」
そうして丁寧に送り出してくれるのも、美湖には嬉しいことだった。
・・・◇・◇・◇・・・
その日の夕、診療時間を終え、愛美が帰宅してから一人で診察室と受付の点検をしていると『お疲れ様です』とナース姿の女性が訪ねてきた。
吾妻の恋人、河野早苗だった。
「河野さん。お久しぶりです」
「お疲れ様です。相良先生。吾妻に頼まれたものをお届けにきました」
論文で使いたい書籍に資料だった。吾妻が届けに来てくれると思っていたので意外だった。
「ありがとうございます。わざわざお届けてくださって――」
美湖に負けず、仕事の時はあまり笑わない女性だった。
もうこれが初めての対面でもなかった。島に来てから美湖も東港の中央病院のスタッフと顔合わせをする機会があった。その時に、吾妻に紹介されて『先輩の恋人と、恋人の後輩』としての挨拶も済ませていた。
だが素っ気ないものだった。彼女が美湖に対してまだ警戒していると感じていたから。
今日も吾妻と美湖を会わせないために? もしかして彼女から届けに来たのだろうかと勘ぐってしまう。
「先生。いまお一人ですか」
「はい。愛美さんも帰宅しましたよ」
彼女が待合室を眺める。
「今日はハルはいないみたいですね」
何故、ここで晴紀のことを口にしたのか。今度は美湖が警戒する。
「今治の伯父様のところに出掛けています」
「清子さんもいまは向かいの自宅に?」
「はい……、そうですよ」
歳は美湖より少し年上の三十六歳。中学生の子供がいるようにはみえず、大人の女性の落ち着きが窺える。そして診療所の窓から差し込む夕陽があたる肌と瞳は綺麗で、色香があった。
「先生、なにかお困りのことはないですか」
その美しい瞳が美湖を見た。そしてその問いが、美湖がいま『嫌な噂』をどうしようもなく飲み込んでいることを直撃する。それが美湖が『困っている』ことだと。
「いえ、特にはありません。皆さんが良くしてくださるので、思った以上に暮らしやすいです」
そんな簡単には聞けないことだった。それにまだ彼女のことをよく知らない。彼女がハルや愛美に慕われている、島民に信頼されているナースであったとしてもだった。
だからなのか。彼女はまだ静かに美湖を見ていた。
「晴紀のこと、もう聞いてしまった……のですね」
年上の女性だから? 見抜かれていた。わりと平然を装ったつもりだったのに。
「吾妻先生もそろそろではないかと案じていました」
吾妻も知っている。そう聞いただけで、美湖は観念してしまう。
「吾妻先生も知っているんですか……、ハル君のこと……」
早苗も『はい。島に来てしばらくしてから』と小さく答えてくれる。
「吾妻先生が心配していたからだけではありません。相良先生とハルが一緒にいるのはやはり目立つのでしょう。一緒にいるところを見てしまえば、そこらかしこで『言いたくなること』あるでしょう」
彼女から切り出してきた。そして美湖も理解した。
「つまり……、私と晴紀君が一緒にいるせいで言われたことを、聞いたってことですか? いまそう噂されているんですね」
自分と晴紀が毎日一緒にいる、距離が近い生活をしていることで、新たな『噂』になっているのだと察した。
だから彼女が来てくれた? 吾妻がよこしてくれた? 彼女が今日ここに来たのはそういうことだというのも理解した。
彼女が哀しそうな目の色に変わった。大人の情が深い柔らかな目。吸い込まれそうだった。これは吾妻が好きになるはずだと思うほどに。
「晴紀と先生がそういう仲になるとしたら、ハルの東京での出来事は避けられない。相良先生が知らないままつきあうのはどうなのかと、心配になってしまうことが、噂話になってしまうだけですよ」
やっぱり。美湖はひとりそっと目を閉じ残念に思う。あの時、一緒に買い物に行くべきではなかったのかもしれない。どうあっても若い男と女。大家と彼の土地に住まう診療所の医師だとしても、もっと気を配るべきだった。
「迂闊でした。晴紀君の立場を思いやって、馴れ馴れしくすべきではありませんでした」
「いえ、先生。私はそういうことが言いたいのではないのです」
彼女が慌てた。
「幼い頃からこの西の港地区で一緒に育って暮らしてきた子供同士です。むしろ、相良先生が来てくださったことで、晴紀にも清子さんにも変化がでていること、先生が自然に接してくださっていることとても良いことだったと思っています。子供の頃から優しくしてくれた清子さんが外に出るようになって、生き生きと先生にお昼ごはんを作って『雇ってくれたの』と嬉しそうに話してくれて。私もほっとしているんです。感謝しているのです」
「……それは、晴紀君にも言ったけれど。私にとっても助かることだったからです」
「清子さんから聞きました。晴紀に真っ正面からぶつかってくれるそうですね」
「……それは、私が、大人げないだけで……」
「いいえ。人に後ろ指さされて島に帰ってきた晴紀には、島の外からやってきた人間に真っ正面から相手にしてもらえたことで、彼も自信を取り戻しているんだと思います」
美湖はそう聞いて、うなだれる。
「後ろ指……って……、私は信じない。ハル君はハル君のままでしかないから」
そう言いきった美湖を、驚きの眼で早苗が見つめている。
そして、彼女が優しく微笑んだ。
「吾妻とおなじですね。美湖先生」
その顔はもう、凛としたシビアなナースの彼女ではなかった。きっとこれが吾妻が愛している早苗という女性の顔。
「なにも事情を知らなくても、どんなことがあったか知ってしまっても。島に来てから知った晴紀という子の自然な姿をそのまま信じると言ってくださるの……。吾妻も言っていました。『相良もきっと信じると言い切るだろう』と。だから、今日……彼はここに来ません。あなたを信じているから」
「でも。私はなにも、まだなにも知らない。そして、あなたから聞きたくない」
それにも早苗は優しく頷いてくれる。
「わかりました。私が……出しゃばってしまいましたね」
島のお姉さんとして、案じただけ。良くわかっているから、美湖も『出しゃばっていないですよ』と首を振る。
「彼が話してくれるまで、彼と話せるようになるまで。私は待っていようと思います。私は島に来た時から今日までも、明日からも同じ。彼と清子さんとの毎日は変えません」
「安心しました。先生、よろしくお願いいたします」
本当の姉のように頭を下げられてしまったから、美湖も恐縮し一緒に頭を下げてしまう。
その早苗がこれで安心して帰るのかと思ったら、ほっとひと息つくと、またちょっと困った顔で美湖に話しかける。
「相良先生。今度は私のお話を聞いて頂けますか」
「え、若輩の私でよろしければ……」
相手は大人の女性、百戦錬磨のキャリアがあるナース。吾妻のパートナー。美湖のほうがドクターといえども、自分で役に立つことなどあるのかと首を傾げる。
だが彼女が驚くことを美湖に告げる。
「吾妻先生にプロポーズされて困っているんです」
え! プロポーズ!! あの先生、恋人に飽きたらず今度は結婚に手を出している! 美湖も仰天した。
「あの、あの……そんな私なんか相談できるようなことでは」
「いいえ! 美湖先生は吾妻のことよくご存じなんですよね! 前の奥様のことも!」
それまで大人の女性で落ち着いていたのに、そこで彼女が顔を覆って急に泣き顔になった。
「私、そういうこと聞けなくて! やっぱりいままでの彼のこと知りたい!」
彼女がわっと泣き出したので、美湖は困惑……。そんなに悩んでいたの、溜め込んでいたの? そういいたくなる姿だった。
「ああ、ええっと。早苗さん。えっと、泣かないで……」
なんだかわかる気がした。都会から来たエース級の男前な外科医に見初められたのも、彼と対等に仕事ができるナースだから。そうして彼女は吾妻と対等でありたいと気が強いふりをしていたのかもしれない。そういうのは美湖も女として身に覚えがある。
お話聞きますよ――と、今度は美湖が弱々しくなった早苗を労りながら、ダイニングに連れて行くことにした。
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