16.夕凪は切なくて


 チケット売り場の待合室、そこのソファーで素直に待っていると、スーツ姿の晴紀が颯爽とやってきた。


「いっぱい買ったなあ。やっぱセンセだって欲しいもんいっぱいあるじゃん」

 そういって彼が美湖にチケットを差し出してきたから驚く。

「これ、先生のチケット。俺が買ったからいいよ」

「え、なんで。自分の交通費は自分で出すって」

 バッグから財布を出そうとすると、晴紀がそれを止めるかのようにどっかりと美湖の隣に座り込んだ。


「水着、幾らした? 俺が準備しろと言い張って、センセ、市街に出て買ってきてくれたんだろ」

「それだけじゃないよ。他にもいっぱい買い物したし。あ、ほら、島レモンのマーマレードをつくった『真田珈琲』のカフェをみつけちゃって! そこでもおいしいもの食べたの。コーヒーもすっごいおいしかった」

 私は私で楽しんだんだから、ちゃんと払う――とまた財布を出そうとした手を、今度はハルの男の手ががっしりと掴んで止めた。

「水着。用意してくれたってことは、俺の船に乗ってくれる気になったてことだよな、センセ」

「……え、……う、ん……」


 スーツ姿の凛々しい青年の真顔が目の前にある。あの綺麗なまつげの眼差しが美湖へと向かっている、間近で。

 いつもはラフなハル君。でも、今日は大人の色香を感じずにはいられない晴紀君だった。


「じゃ、これは俺のお礼ね」

 俺が誘ったことで先生が水着を買うことになって、出不精なのに島を出て市街まででかけてくれた。だからそのお礼。しかも、いつものあの睨む真顔で美湖がうんというまで、見つめられたまま。

 だから美湖もついに『うん』と頷いてしまった。


「そろそろ乗れる時間だな。よし、桟橋に行こう。センセ」

 しかも美湖が抱えていた荷物もさっと持ってくれ、先へと行ってしまう。

 そんな颯爽としたかっこいい青年のあとを美湖はただついていくだけになってしまった。



 高速船は少し長めのクルーザー船のようで、客室はふたりがけの椅子が二列あるだけの狭いもの。それでもフェリーより速いため島民はバス感覚で乗っている。ただし料金は高め。

 その船室にハルと一緒の席に隣り合わせて座った。また窓際に美湖を座らせてくれて、そうして島を出てスーツでいる晴紀は気が利くいい男にしか見えない。

 その日は日曜の夕方だったためか、これから順番に巡っていく西側航路のそれぞれの島へ帰る島民も多かった。


 よく晴れた夏の夕は黄金色。冷たい青色に差す光が滲んで輝いていく。

 波間を切っていく高速船の中、美湖は晴紀と肩を並べていても、いざとなって言葉がでてこなくて困っていた。


 でも晴紀も疲れているのか、ぼんやりと海の水平線を遠く見つめているだけ。


「センセ。盆休みはどうするんだよ。静岡に帰省する?」

 唐突に聞かれてびっくりしながらも、美湖も答える。

「ううん。島に来たばかりだから、今年は帰らない。というか、めんどくさい」

「でた。めんどくさい。まさか、帰省しないのも出不精のせいかよ」

 ハルのいつもの呆れ笑い。

「うーん、帰ってもね。こんな大きな子供がひとり増えるだけだと思うんだよね」

「大きな子供?」

「そう。実家に帰ると、甥っ子と姪っ子と同じくくりにされるの、末っ子の私。親から見ても兄貴たちから見ても、私はずうっと子供扱い。お義姉さんたちにも気を使わせちゃうしね」


 なのに晴紀が隣でまた笑いを堪えに堪え、お腹を抱えていた。


「なんかおかしかった?」

「いや。なんかちょっとわかる気がして。姪御さんと甥御さんとおなじ手がかかる大きな子供って、そういう意味か」

「もうー、なに? 私の生活力がゼロだから? 料理だってできないわけじゃないよ。ちゃんと洗濯できるしアイロンもできるし……、裁縫は……ダメかな」

「外科医なのに! 人の身体は縫えて、布はダメなのかよ」


 さらにハルがケラケラと笑い出す。


「縫い方が違うし、対象物質も違うし、針と糸も形状全然違うじゃない。笑えないから!」

「いや、笑える!」

 黒ステッチがある白シャツに、黒い品のあるネクタイを揺らしてずっと笑っている。


 出会っていままでそうであったように、年上の女医さんが年下の男に馬鹿にされるように笑われているのに。でも、今日の美湖はそんな晴紀を見て少し泣きたくなっていた。


 人殺しなんて。本当に過ちを犯していたとしても、していなくても。人殺しなんて人々に後ろ指さされて三年も過ごしてきたならどれだけ辛かったか。その彼がいま笑っている。笑えるならそれでいいじゃない。美湖の目が熱くなってくる。


 そんないつもと反応が違う美湖の様子にハルも気がついてしまう。


「センセ?」

「……そんなに笑わなくてもいいじゃん。これでも、気にしているんだよね」

 ちょっぴり涙が滲んでしまったから、つい思ってもいないことで誤魔化してしまう。


 ぷいっと窓のむこうの夕凪へと向いてしまう。

 なのに。美湖の手を、晴紀の大きな手がぎゅっと握ってきた。


「ごめん、先生。俺、そんなつもりじゃなくて」

「なに、優しくしたり意地悪したり、疲れちゃうんだけれど」


 だめだ。どうして、私はいつから、こんな駄目になってしまったんだろう? 涙が出てしまった。


「ごめん。センセ……。俺、いつも口が悪くて」

 違うよ。ハル君はなんも悪くないよ。私が涙の訳を言えなくて、また『かわいくない』ことをしているだけ。


 それでもハルはずっと美湖の手を握ったまま離してくれない。熱くて、彼の男の匂いがそばにあって、堪らなく切なくなる。


 あなたは素敵な男性だよ。きっと。女の子に気遣えて、人に優しくできて、男らしい青年だよ。ただちょっと口が悪くて生意気で目つきが悪いだけ。


 しかも最後には、晴紀が美湖の肩を抱いてそっと抱き寄せてくれる。もう堪らなかった。嘘をついて泣いているのに。自分のせいだと思って労ってくれる、自分より若い彼の、することが……。することが。



・・・◇・◇・◇・・・


 

 一緒に高速船で帰った日から、一週間後。

 また日曜の休診日。『ハル君の船』に乗りに行く。

 軽トラックに乗せられ、島の海水浴場の少し向こうにあるというマリーナに連れられる。


 そこに停泊させてある一隻のクルーザーに、ハルがほんとうに乗り込んだ。


「ハル君、ほんとうにクルーザー持ってる」

 買ったばかりのタンクトップビキニとショートパンツスタイルの水着に、パーカーを羽織ってきた美湖は桟橋で茫然とする。

「ほら。早く乗って」

 すでに乗り込んだ晴紀が手を差し出してくれ、美湖もそのまま甘え、晴紀の手に引かれクルーザーに乗り込んだ。


 操縦席と小さな甲板。そこに何故かゴムボートがすでにふくらませた状態で置かれていた。


「救命用?」

「それ、あとで使うんだ」


 え! なんのために! なんだか美湖は怖くなってきた。富士山の麓育ち故、それほど泳ぎは得意ではない。


「はい。センセもこれつける。救命胴衣。空気ふくらませるから、頭からかぶって」

「えー、やっぱり怖い! こんなんつけなくちゃ危ないところなの?」

「船に乗るなら常識だって。俺も着るからほら」


 そうしたら、またハルがくすくす笑っている。美湖の頭から救命胴衣を着せながら。


「なにが怖いだよ。人の身体を切開する時はめちゃくちゃクールにやりこなしていたくせに。俺なんか、そっちのほうが怖いよ」

「またそれを言うの? あれは私のやるべき仕事。こっちは素人」


 年上の女医サンが怖い怖いと焦っているのを笑っている男の子を美湖は睨んでしまう。


 でも。男の子じゃないかも。今日は。

 晴紀も今日はスポーツ選手並のぴったりとしたつなぎのようなスイムウェアを着込んでいる。なのに、胸元のジッパーが開いていて、そこからは浅黒く日焼けている筋肉がちらりと見える。


 ああ、また。この子が大人の、青年の男なんだという色香を感じてしまい、美湖はそっと目を背けた。


「酔ったら言って、無理しないで引き返すから。それからこのクーラーボックスに冷たいミネラルウォーター入っているから」

「了解。でも、船長さん。おしっこはどうしたら」

「おしっこは我慢な」


 今日は怒らず、仰天せずに、冷静に切り返してきたので美湖が驚いてしまう。そして晴紀は勝ち誇った笑みを見せている。


「じゃ、発進するから。ちゃんとそこ座っていて」

「クルーザーの操縦できる免許あるんだ」

「漁船を操縦しているんだから当たり前だろ。それから俺、そもそも航海士だし。小型船舶も航海士の時から持っていたから」


 今日は美湖がギョッとすることばかり。


「え、ハル君。航海士って……船乗りだったってこと」

「そう。でっかい貨物船に乗って外国に行くヤツな。二等航海士になったばかりのところで、商船会社を辞めたんだ」


 美湖は言葉を失う……。外航船の航海士なんて、ある意味エリート。すごい仕事に就いていたんじゃないと。どうりで何事もテキパキ出来る男だとようやっとわかった気がした。


 商船会社の陸側の社員だと思っていたら、まさかの船乗りだった。だけれど『船が好き』と言っていたことにやっと納得。しかし、だとしたら、好きな船乗りの仕事を『例の事件』のために致し方なく辞めている? そう思ってしまった。


 そして、美湖がなんとなく感じていたとおりかもしれない。いままで晴紀は美湖が島に来るまでの自分のことはあまり喋らなかった。なのに、今日は自分から『航海士だ』と教えてくれた。

 彼の好きな船に乗って、海に出て。そこで彼は『美湖センセ』になにを話してくれるのだろう。美湖はそう思ってついてきた。


 ハルが操縦席に立つとエンジン音が響いた。ゆっくりと船体が桟橋から離れる。マリーナから完全に離れるまでは徐行、船首が大きな海原に完全に向くと、ぐんっとスピードを上げて波を切り走り始めた。


「わー、速い! 波近い! やっぱり怖い!!」


 ほんとに波しぶきが飛んできたので、晴紀が水着を着てこいと言った意味をやっと知る。甲板に置いてあるゴムボートを座る場所にして、美湖はなるべく真ん中で縮こまっているだけ。


「そんな沖合にでないから! 少し回って岩場に行く!」


 クルーザーのエンジン音の中、晴紀が操舵を握りながら叫んだ。船首の向こうは海、晴れ渡る真っ青な空、そしてものともせずにクルーザーを操縦する青年。太陽の光の中、波しぶきの中。

 こんな、こんな……いかにも『夏の太陽!』みたいな男、本当にいるんだと思えるほどの晴紀の姿だった。


 そんな彼につい見惚れてしまいながらも、そのクルーザーが波の上を跳ねたりすると、もうそれだけで美湖は怖くてわーわー叫んでしまう。


「もう、センセ。うるさいっ」

「私が山育ちだって考えていないでしょ!!」

「海ぐらい行ったことあるだろ!」

「こういう海じゃない! もっと優しい浜辺の海!!」


 わかっているくせに。またどうしてそういう意地悪を言うのと怒っていると、今日のハルは自分のステージにかわいくない女医さんをひっぱりだせて余裕なのか、また楽しそうに声を立てて笑っている。


 今日は今日は泣かないから。ハル君が楽しそうに笑っていても、もう泣かない。というか、またクルーザーがちょっと高い波に突っ込んで跳ねた!


「わざとでしょ!!」

「んなわけねーだろ!」

「航海士のくせに、ちゃんと波を見て避けなさいよ!!」

「あー、もう、うるせえ。やっぱ、先生はかわいくない!!」


 航海士としてかっこよくしていただろうに、結局、年上の女医サンに『かっこいい』と言ってもらえないハル君が怒った。


 ああ、でも。いつもの私たちだなあと、今日の美湖は笑えてしまう。美湖が笑うと、晴紀も操舵ハンドルを動かしながら微笑んでいる。

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