7.嵐夜の判断

 医師の予感、当たった!


 早めの入浴を終え、それでも美湖は診察室で医療書などを読んでいた。

 時間は22時。窓は激しい風が叩きつけ、うねる波の音も聞こえる。

 テレビの天気予報で、高知沖に台風が来たと云っていた。その影響で愛媛地域も暴風雨になっている。


 松山市街と直結している東の港、そして、島の山を越えて美湖がいる西側の港。山のトンネルを抜けると近道。その比較的新しい道がいま通行止めになっている。東側の市街コースのフェリーも、西側の諸島を結ぶフェリーも運休状態。


 向かいの家が一段敷地が高かったのは何故か、少し解った気がしてきた。

 この家、大丈夫だよね。高潮てここまで来ないよね、だからここに集落があって残っているんだよね。そんなことが頭に過ぎった。


『先生!』

 診療所玄関からそんな声、聞いたことがない男の声だった。

 診察室から白衣のまま出てみると、雨合羽姿の男たちが数人、担架に人を乗せて駆け込んできた。


「先生! 船上で胸打ってから苦しんでるんだ!」

 五十代ぐらいの男性がまず叫んだ。

「わかりました。こちらの処置室の寝台まで運んでください」

 男たちが雨合羽を濡らしたまま、担架に乗っている男性を診察室と隣接している処置室に運んだ。


 男たちに指示をして、寝台に患者を乗せてもらう。

 聴診器を首にかけた美湖は、駆け込んできた男たちをひと眺めする。見知った男が誰もない。

 苦しそうに顔を歪めている男性の顔を確認する。あちこちを触診して、ほんとうに胸を打っているか確認する。


「この男性の名前、教えてください」

 運んできたリーダーらしき五十代の男性が答える。

「成夫。小嶋成夫や」

 その男性がさらに付け加えた。

「マナの兄貴だ」

 さすがに美湖も一瞬、息が止まる。


「愛美さん? 仙波愛美さんの?」

「ほうや、ここで看護師しとるやろ」

「わかりました。あと、どのような状況から、このように苦しみ始めたかわかりますか」


「船を守るために、嵐の前にロープなどで固定するんじゃが、成男の船がそれが上手くいってなかったようで思った以上に揺れて他の船にぶつかりそうになった。それを直しに行こうと船に飛び乗ってきちんと修復したんじゃが、高波が来て甲板で転げた。そんとき、倒れる前に船端のポールで打ったとか言ってた」

 男性がふりかえり、後ろに控えている若い男たちに『ほうやったよな』と確認をした。男たちが揃って頷いた。


「救急に連絡したんじゃけど、やっぱこの雨で回り道になると言われた。中央病院から、この診療所に運べて言われて連れてきた。先生、なんとかなるんかね。ここで!」

 落ち着いているように見えて、その男性が最後に険しく声を張り上げた。

「いま、確認します」

 聴診器を耳に当てた時、先ほど、美湖が確かめたかったその顔が急にドアの向こうに現れた。


「成夫が倒れたって、ほんとか!」

「ハル、やっときたか!」

 誰が誰だかわからない状況の中、やっと知っている人間が現れる。

「岡ちゃん、悪い。母ちゃん見ていたから」

「そりゃ、かまんけどよ!」

 そのハルがすぐに美湖を見た。

「センセ。マナ、呼んだ方がいいよな」

「お願い。彼女のお兄さんらしけれど、呼んで」

 わかった。彼がすぐにスマートフォンを耳に当てた。


 港の男たちが言うとおり、胸に打撲痕を確認。

 美湖は聴診器で胸の音を確認する。

 なのに、『岡ちゃん』と男衆が急に落ち着きをなくして、美湖につっかかってくる。


「先生、今日、吾妻先生がおらんのやろ。もし、ここで出来んことやったらどうしたらええ!」

「ほうじゃった、それに、トンネル道も遮断されたままや!」

「この雨風じゃ、ヘリ無理やろ! どうすればええんや。救急艇も怪しいで!」

 その先の不安が募ってきたようだったが、美湖は顔をしかめる。

「静かにしてください。胸の音が聞こえない!」

 美湖の一喝で男たちがシンと静まりかえる。


 聴診器を当て、胸部数カ所の音を確認する。

 美湖は聴診器を外す。

「気胸だ」

 愛美がまだ来ないため、一人で血圧を確認、さらにレントゲン撮影の準備をする。

「美湖先生! いま来ました」

 愛美が来た。だが、彼女は寝台にいる男を見て顔色を変えた。

「お兄ちゃん!」

 駆け寄るその姿はナースではなく、家族、妹の姿そのものだった。


 それでも美湖は指示をする。

「ショック状態になっている」

 美湖は処置室の棚へと一人向かう。そこにある手術用の手袋を急いではめる。

「ドレナージするから準備して、愛美さん」

 しかし愛美は兄にすがりついたままだった。そう、医療従事者は肉親のオペには携わらないほうがいい。いまそれにあたるのだと美湖は判断する。

 それもしかたがない。美湖はひとりで器具の準備を始める。


「いえ、先生。私、やります。大丈夫です」

 気持ちが落ち着いたのか、愛美が棚の扉を開ける。これまで美湖を頼もしくサポートしてくれた愛美の横顔に戻っている。


「レントゲン、確認した。肺尖は鎖骨の上に見えたからそれほど肺は潰れていない軽度。たぶんドレナージだけで、あとは様子見になると思う。でも、ここでは入院できない。処置後に手配して」

「はい」

 ナースだけあって、気胸がどのようなものか理解しているぶん、逆に愛美も落ち着いてきた。


「愛美さん、お兄さんはおひとり? ご両親は?」

「近所に一緒に住んでいます。両親にも連絡しました。直に来ます」

「搬送時に付き添い、出来るよね。搬送時間、わかる? 近道のトンネル道、いま使えないんだよね」

「付き添い、出来ます。搬送は、ここ診療所から港病院まで、海周りで30分です」

「わかった。ドレナージが終わったら搬送しよう」

 愛美がオペ用の器具を兄のそばへと準備しているその傍らで、美湖は固唾を呑んでいる男たちを見据えた。


「胸を打ったことで、肺から空気が漏れています。胸部を圧迫しています。空気を抜くための処置をします。その後、搬送が必要です。手配、お願いできますか」

「わかった。港病院で大丈夫って先生は判断した。それで、ええんやな」

 岡氏の再確認に美湖は頷く。

 男たちが『よっしゃ』と、まるでもう解決出来たとばかりに明るく叫んだ。

「早く手配してください」

「わかった」

 岡氏が受付の電話へと走ってくれる。


「酸素も準備して」

「はい」

 愛美も私服のまま、落ち着いて行動している。それでも酸素の準備をしながら『兄ちゃん、大丈夫やけんね。美湖先生がしてくれるけん。ちょっとの我慢やから』と話しかけている。


 美湖も彼女の兄が着ている服を脇下で切り開く。イソジンのボトルを傾け消毒。

「先生、準備できました」

 愛美が横についた時点で、美湖も頷く。

「メス」

 手を出すと、息が合ったように愛美がそこにメスを差し出してくれる。

 処置室の入口から男たちの目線。それに美湖は気がつく。その時、ハルと目が合ってしまった。


「愛美さん、処置室のドア。閉めて」

 メスを受け取ってすぐ、愛美も気がつき男たちの目線を避けるようドアを閉めてくれた。

 愛美が戻ってきて、再度脇下に集中する。刃先を脇下、胸の横に当て切開。

「ペアン」

 切開したそこを器具で開く。慎重に差し込み、胸膜まで……。

「空気、出た。チューブを」

 胸の空気を出すための管を挿入する。

 患者の容態が落ち着いたのを、ナースの愛美が確認し、彼女もやっとほっとした顔になる。

「美湖先生……、ありがとうございました」

 ありがとうと言われることがないよにするのが……。そういう諍いを日中に晴紀としたことを思い出してしまった。


「ううん……。出来ることしただけ。重度の気胸ではなかったみたいで良かったね」

 自分でそう言えて、受け止められて。美湖はここで初めて、あの時、あの小さい空君に素直に微笑んでおけば良かったと後悔していた。

「もし、相良先生が……こっちの西側にいなかったら……大変だったかも。吾妻先生、今日は留守だったし……」

 愛美も同じだった。空君ママと同じ、差し迫った表情に崩れた。


「あとは搬送だね。この暴風雨の中、海沿いの道、ほんとうに大丈夫?」

 それでもこの状態なら、この診療所に雨風が収まるまで置いていてもいいかもしれないと、美湖も幾分かほっとした。


『先生! 成夫の親が来た!』

 岡氏の声が聞こえると、愛美がすぐに処置室のドアを開けて両親を呼んだ。

「成夫!」

 愛美の両親も驚いた様子で、処置室に駆け込んできた。

 それでも、苦しそうだった表情が和らいでいる。それだけで、愛美のご両親が安心し、それでも母親は泣き崩れている。


「お父さん、お母さん。大丈夫だよ。相良先生が処置してくれたから、あとは中央病院に入院して経過確認するぐらいだから」

 ナースである娘からの説明で、ご両親もさらに安心したようだった。そのご両親がまた美湖へと揃って頭を下げてくれる。

「先生、相良先生。ありがとうございました」

「ほんとうに、この診療所があって……。先生が来てくださっていて、ほんとうに良かった。ありがとうございます」

 それにも美湖は素直に一礼をして受け止める。


「まだ油断は出来ませんが、重度のものではなく良かったです。港病院に引き継ぎます」

 吾妻以外の内科医がいるはずだから、大丈夫だろう。なんとかなりそうだった。

 そうしてひと安心した途端だった。


 また診療所の入口が騒がしくなる。

「先生、また急患や!」

 今度はもっと騒々しい。だが、診療所の入口に現れたのは男性二人。

「こっちの診療所が近かったけん、連れてきた」

 足をだらんとさせて歩行ができない中年男性を、また初老の男二人が担いで連れ込んできた。


 二人とも作業服、ヘルメットをかぶっている。

「そこの道の復旧工事しよったんやが、重機が倒れて、こいつ足を挟まれよった。でも意識あるんよ。なんとかならん!?」

 しかし、美湖もひと目見て息が止まる。そして、密かに愕然とする。これは一筋縄では行かない損傷、出血量だとわかったから。


 それでも美湖は『処置室へ』と促した。

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