6.女医サンは、かわいげない
その日の夜から激しい雨になり、一日中雨。幾人かの診察があって午前診療が終了。
愛美がそのまま自宅へ帰宅する前に『では先生、十五時にまたここで』と、かねての約束どおりに車に乗って一緒に買い物に行く予定を確認して別れた。
しかし、その通りにはならなかった。
ダイニングで軽い昼食を取った後、診察室で雑務をまとめていた時だった。
「先生、相良先生!」
そのまま白衣姿で診療所玄関に出てみる。
すでに見知っている若いママさんが小さな子をおんぶして、そこにいた。
「藤田さん、どうかしたの。もしかして、空君……」
「昨日から雨が降って気温が下がったせいか、やっぱりぜいぜいしはじめちゃって……」
休診なのにごめんなさい――と彼女が申し訳なさそうに謝る。
「いいのよ。この診療所に住んでいるのだから。さあ、あがって。診察室で空君を診せて」
まだ二十代前半だろう若いママさんが泣きそうな顔で頷いて、苦しそうにぐったりしている子供と診察室に入る。
聴診器を首にかけ直した美湖は、診察台で横になった空ちゃんの胸や背中、そして喉元に当てて耳を澄ます。雨の音が激しいことにこんな時になって気がつく。
「空君、頑張ったね。いつものしゅわしゅわしようか」
この前来た時にも行った吸入のことを、この子が『しゅわしゅわ』と呼んでいたのでそう話しかけると、かわいい顎がこっくりと動いた。
「お母さんもここに座って、大丈夫だから」
愛美が帰宅していないため、美湖が準備をする。薬品の瓶と注射器を手に取った時だった。
「先生、センセ!」
待合室から男の声。誰かすぐにわかって、美湖も叫ぶ。
「ハル君、診察室!」
診察室のドアが開いた。
「センセ、いまからマナと……」
ドアを開けたものの、そこに顔見知りのママさんがいたためか、ハルの勢いが止まる。
「あ、ごめん……。急患……?」
瓶から規定量の薬品を注射器で吸い上げながら、美湖も答える。
「空君の喘息が出た。いま処置しているから後にして」
「わかった」
「緊急?」
ドアを閉めようとしたハルが立ち止まる。若いママさんを見つめて躊躇っていたが、ここに来た訳を教えてくれる。
「昨夜の雨量が多かったみたいで、トンネル道の密柑山が崩れた。道がふさがったらしいんだ。マナと買い物に行く予定だっただろ」
その話を聞いて、藤田ママも驚いて立ち上がった。
「ハル兄さん、それほんと!?」
「ほんとだよ。トンネル経由のバスが運休になった。フェリーと高速艇もこの雨と台風予報で運航休止になったと連絡が漁協にあったんだ」
それを聞いた美湖も淡々と返す。
「でも、遠回りになるけれど、海周りの道があるでしょう」
「海周りのほうが道が古い。新しいトンネル道で土砂崩れが起きたんだ。行かないほうがいい」
うそ。今日も買い物できない? 美湖はふとそう思ってしまった。いや、いまはそれより患者が優先。美湖は吸入の準備を終え、小さな子の口元に酸素マスクをあてる。
慣れているからか、美湖がなにも言わなくても空君はすーはーすーはーとゆっくりと吸い始める。
だが空君ママが少し動揺していた。
「良かった。相良先生がここにいて。良かった」
急に泣き崩れたので美湖も少し驚き、つい診察入口に佇んだままのハルを見てしまう。彼もちょっと表情を哀しそうに崩している。
「東港の中央病院に今日、いけなかったら……。空、どうなっていたか……。大丈夫だったかもしれないけれど……、でも……」
「ナオちゃん……、空が見てる。しっかりしろ」
もし土砂崩れでなにもできないような状況だったら。そうはならなかったけれど、もしかするとなっていたかもという恐怖に若い彼女が襲われて震えている。
それを年上兄貴だろうハルが慰め諫めるために、診察している寝台まで入ってきてしまう。それでも床に跪いて下から女の子の顔を見上げるその目は、頼りがいある男の目だった。
そのハルが吸入をしている空君の顔も見た。
「空、安心しろ。新しく来た相良先生は、空がいつも苦しくなっちゃうここ、呼吸の専門の先生だから」
空君ママも『そうだったんですか』と驚いて美湖を見た。
そして美湖もハルがそこまで把握していることに言葉が出なくなる。もしかして……、この男は……。
「そう思って、『おじちゃん』。ここおじちゃんの古い家だったところ病院にして、空がすぐにこられて楽になるよう、先生に来てもらったんだ」
それ、ほんと? それとも出任せ? 美湖も戸惑う。
小さくてかわいい口がやっと言葉を発する。
「ハルおじちゃん……、ありがと……」
「ありがとはおじちゃんじゃなくて、横浜からわざわざ島に来てくれた先生にいいな」
困った。美湖はそういうのが苦手だったから、顔を背けてしまう。
なのに、真っ直ぐな子供の瞳が美湖を捉えている。
「せんせ、島に、きてくれて……ありがと」
子供にそれを言わすか。美湖はそういうことを言わせたハルに憤りを感じてしまった。
「出て行って。邪魔」
勝手に入ってきたハルをつい睨んでしまう。ハルも美湖の様子が変化したことに気がついたようだった。
「わかった」
すっと出て行ってくれた。
空君はしばらくして落ち着いたため、自宅で療養できるものを持たせ帰宅した。
終わって診察室を出ると、待合室のソファーでハルが座って待っていた。
「なに、忙しいんじゃないの。港に船があるんでしょう」
「また夜行く」
素っ気ない返答だったが、だからって帰ろうとしない。
そんな彼に、美湖は白衣姿のまま彼の目の前に立ちはだかり、今日は女の自分から見下ろした。
「愛美さんにでかけないほうがいいって連絡したの」
「した。先生と出かけると聞いていたから。それで、俺が愛美のかわりに先生に連絡するということになって、こっちに来た」
「わかった。島のことはなにもわからないから無茶して出かけないから。まだ簡単なものなら明日ぐらいまでは食べられるから大丈夫。帰っていいよ」
それでもハルもむすっとしたままうつむいて、動かない。美湖も分かっている。急に態度をきつくして『邪魔』と追い出したことが、彼の胸につかえているのだって。
「空君のために、私を選んでくれたってこと」
上を向けば威圧する女医の視線があるとわかってか、ハルも下を向いて目線を合わせない。
「吾妻先生が推薦してくれたのもある、でも呼吸外科の先生だって聞いて、空が助かると思ったのも本当だ。年寄りもそういう先生いたほうが助かるだろ」
そしてハルからもやっと美湖を見上げて向かってきた。
「なに怒ってんの、センセ」
「子供にありがとうと言わせたでしょ」
「それが?」
「私はありがとうと言って欲しくて医師をしているんじゃない。なに、私がお礼を言って欲しい満足をしたいために医師を? しかも島にやってきたと思ってるわけ」
「思ってねえよ。でも、先生が大きな病院からわざわざ島に来ることを決断してくれたことは、俺たちは感謝しているって言いたいんだよ」
「子供は! そういうこと考えなくても良いでしょ!」
ハルが黙った。美湖が言いたいことが通じたようだった。
「うん、子供にはあって当たり前のもの沢山あると思う。それが空には、島にはないことがある。都会なら誰にだってあるものが。それがやっと出来たからって、ありがとうは違うっていう先生の言いたいことも、わかった。でもさ……」
今日は下から、ハルに睨まれる。いままでよりもずっと、鋭くその目が光っている。
「子供のありがとうだって本心だと思う。そういう時は真っ正面から受け取ってくれたっていいんじゃねえの」
素直に空君の綺麗な目を受け取れなかったのは確かだった。
「空は、いや、ナオちゃんも先生が来て安心できるのは事実だろ」
「わかっているようなこと……いわないで……」
「そういうときだけ、大人の女の顔? 年下の男はなんにもわかっていないって理屈にして逃げるのかよ」
思わぬ言葉だったが、思った以上に今の美湖の胸に刺さった。
そしてこの男も言った、いつも男たちが美湖にいう言葉を。
「女医さんって、やっぱそうして可愛げないんだ。それともセンセが? かわいくないって人?」
慣れている、わかっている自分でも。何度も言われてきた。流してきた、受け入れてきた。でも。
「かわいいと言われるお医者さんをめざせばいいわけ」
「そうじゃないだろ。美湖サンとしてだよ」
「空君を見た医師として、素直に受け取ればいいって話じゃなかったの。ドクターとしての私の話だったよね」
抑えに抑えた口調であっても、どこか熱くなっている自分を美湖は否定できなかったし、どうしていま自分がこうなっているのかもわからなくて、頭の中がかあっとしていた。
目の前の男も、はあっと大きく息を吐いてしばらく動かなくなった。
「今夜、すげえ荒れると思うから。急患が出ても一人で外に出ないでくれよ。その時は俺か愛美を呼んでくれ」
目も合わせず、彼が立ち上がり背を向けた。そのままなにも言い返さずに診療所玄関から、向かいの自宅へ帰ってしまう。
彼が出て行ってから、美湖も激しく胸を荒げて、誰もいない待合室のソファーに座って項垂れた。
「だって……」
かわいくないと言われたことではない。『そういうときだけ、大人の顔で逃げる』と言われたことがいちばん胸を貫いていたようだった。
そう大人の顔、なんでもない顔じゃないと生きていけないことがたくさんあった。それが恋だったり、医師として哀しい出来事に出会ったときだったり。
その顔でみんな生きていたじゃない。特に病院の中……、都会のど真ん中で。そうじゃない。
そして美湖はいま、少しずつ揺れている。ハルじゃない。空君の目とか、泣き出した若いママさんの、そういう姿が。一歩間違えればどんなことになるのか。
だから『ありがとう』が聞けて嬉しい島でのお仕事だなんていいたくない。『ありがとう』なんて言われなくても良いものでなくてはいけない。
空君ママが震えていたように、トンネル山道も海側道路も封鎖されて港中央病院に行けなかったら? もし私が今日、この診療所にいなかったら? つまりそういうことだ。
大きな病院だっておなじだ。『運が良くて助かった』ことは沢山ある。だけれど島ではあまりにもそのサポートが頼りない。
大病院でだいぶ慣れてきたものが、平気になっていたものが、新しい種の恐ろしさとして襲ってきた。
それが美湖の、島からの洗礼のようだった。
ひとしきり、そこでなんとか心の波を宥めていた。雨空のせいか、暗くなるのが早い。
診察室の灯りはつけたまま、美湖は二階の自分の部屋へと下がる。
海際の窓が酷く音を立てていて、風の音も激しい。そして海鳴りも聞こえる。
吾妻は神戸に行けたのだろうか? 飛行機で行ったはず。そして美湖にも医師の胸騒ぎが起こる。
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