15.『大事』だから泣く
早苗の女性としての本心をダイニングで聞いてみる。
それでも彼女が何度も言うのは『本当に好きなの。だから泣きたくなる』だった。
いつものつめたい静岡茶を彼女に差しだし、美湖も向かいの椅子に座って落ち着く。
そんな早苗に、美湖は言ってみる。
「吾妻先生。寂しがりやだと思うんですよね」
彼女が冷えたガラスコップを手にして、お茶をひとくち。ほっとした顔になり涙が止まったようだった。
「そうでしょうね。だから……、島にいる女だから、ただその時、目の前にいたから手を出しただけ。横浜に戻ったらもう……」
その気持ちも女としてわかる。そしてこの隔離した島に長年住んでいたら、都市部に出るのは勇気が要ることだろう。
「でも。吾妻先生が二度離婚した様子を見てきた後輩としてはですね……。思うんです。吾妻先生は寂しがりやだけれど、その寂しさの穴もひとつだけで、それを埋められる女性が一人いれば先生は幸せ。ただ、家を空けることが多いし不規則になることもある。自分がいない間もきちんと待っていてくれて、帰ってきたら迎えてくれる。それだけでいいのに、それが通じあわない。そういう結婚生活でしたよ」
早苗さんは自信あるのだろうか。そういう生活。美湖はそう言いたくなったが聞ける訳もなかった。そこは吾妻と早苗、当人同士の問題。
「私はナースです。吾妻先生が仕事ならば待てます。逆に私だって……、ナースを続けながら……、彼とつき合えているのはやはり彼が医師だからだと思ってる」
「そうなんですよね。私もびっくりしました。吾妻先生、ナースの女性は極力避けていたみたいだったので。院内でごたごたになるのとか、仕事に差し支えるから『若い時に懲りた』と言っていたんですよね……」
あ、いけない。奥様以外の女性のことを口にしてしまった。しかも同業者のナースと遊んだ過去があることも言ってしまったと美湖ははっと我に返る。
でも早苗はさすが大人の女性なのかそこは平然としていた。
「私は絶対に職場では恋仲であることは匂わせたくありません。吾妻がふざけてきたら、二日は家に入れない」
おー、すごい。きっぱりしてる! 恋にほだされて崩れてしまう女では、院内恋愛はたしかに成り立たない。
そして美湖は『いつもの調子でうっかりふざけて、大好きな彼女の家に二日も入れずしょんぼりしている先輩』が浮かんでしまい、にやりと笑ってしまった。
「それ、吾妻先生には効果覿面ですね」
美湖が笑うと、やっと早苗が笑顔を見せてくれた。
「吾妻も……、息子も……、私も……二日が限界だっただけよ」
「わー、なにげに惚気てくれますね。吾妻先生が息子さんをとても可愛がっているのも目に浮かびますよ。子供も大好きなんです。だから……、先生は……家庭がずっと欲しかったんだと思います」
美湖なりの吾妻にあるだろう気持ちを伝えていいものかと思ったが、それが研修医のころから付き合いがある先輩の姿だと思っている。
「息子も父親がいないまま育ったから、あのように理想的なお父さんが出来たこと喜んでいるんです。別れたら、私もだけれど……、きっと息子が哀しむ……」
「それならば。もう少し話し合ってみてはどうですか。なによりも島で息子さんの子育てを続けたいのなら、それもお話するべきですよ。……あ、申し訳ないです。第三者が簡単に言うみたいで……」
早苗が首を振って、ゆるく微笑んでいる。
「いいえ……。誰にも相談できなかったんです。相良先生に会う機会もなかなかなくて、いつも吾妻がそばにいるものですから」
またなにげに惚気ているなと、逆に微笑ましくなってしまう。それで吾妻が届けるはずだった資料や書籍を、彼女が自分が届けると言って持ってきてくれたんだと思った。
「先生、唐突に申し訳ありませんでした」
「やめてくださいよ。早苗さんのほうが、私より大人で、島でも先輩ですよ」
「でも……。吾妻先生が、相良先生のことはとても信頼しているようだったので。あの人、付き合いは広いけれど、本心を見せるようなこと、本音を言わせるようなことはあまり見せない人です」
確かに、飄々としていて胡散臭いのは否めないと美湖も頷いてしまう。
「その吾妻先生が、結婚する時に奥様を紹介するほどの後輩はあなただけだったようなので……。女性として見ていないけれど、妹のようにかわいがっていて、それで診療所も任せるならあいつだと言いきっていて。私のような駄目な男に簡単にひっかかって離婚歴もあって、ずっと島にいるような女を見たら、吾妻のいまの女として『ああ、島で間に合わせたのね』なんて思われるのが怖かったんです」
吾妻の元恋人だったという噂が根拠でなかった。彼女が吾妻を愛するが故の恐怖を、美湖は煽ってしまっていたらしい。
「いいえ。私は早苗さんをひと目みた時に、綺麗な人。そして吾妻先生がすることに溺れずにきっぱり出来るクールな女性。ああ、先生の大好きなタイプ。あの先生のことだから、好きになったら一直線、猛アタックで落としたんだろうなと、感じましたけれど?」
涙目だった早苗がびっくりして目を見開いた。
「え、あの……。確かに、最初、とてもしつこかったんですけれど」
「何度もはね除けたでしょう。それそれ。先生はそういう女性に燃えちゃうんですよ」
彼女の頬が真っ赤になった。大人の女性のクールな面影はもうない。
「しかも、かわいい男の子が先生先生と慕ってくれたらもう、吾妻先生はふたりとも愛おしくて、毎日しあわせだったというのも目に浮かびますよ。信じてあげてください。吾妻先生は飄々としているけれど、自分が大事なものと決めたものには純情一筋。胡散臭いことをしてでも守りますよ」
最後に美湖は彼女にひとこと。『私はそうして、吾妻先生に医師として大事にしてもらってきたと思っています』と――。
おなじ科ではなかったが、吾妻とは連絡を取り合っていたし定期的に食事もしてきた。院内のことも彼が影ながらサポートしてくれた。男と女として危うくなったことは一度もない。不思議なほどに。だから、美湖は吾妻を信頼している。
「吾妻先生も言っていました。相良は信頼できるから。相良には院内で嫌な目に遭って欲しくない。でも、俺がいなくてもあいつけっこう図太くて見ていて面白いんだけれどな。ちょっと手伝うだけ――だと。だから、余計に……、あの人がいちばんの後輩と思っていたから……どのような素晴らしい女性かと」
また早苗が目の前でしゅんとしてしまう。吾妻が重症患者の搬送に『俺についてこい』と指名したほどのナースだからやり手でベテランなのは美湖にもわかった。でも『ひとりの女』となるとやっぱり大人の女性でも弱くなるんだなあと思ってしまう。
「素晴らしいなんて幻想ですよ。清子さんとか晴紀君から聞いていません? 先生は冷蔵庫もひとりでいっぱいにできなくて『生活力ゼロ』だって――」
それは本当に聞いていたようで、早苗が目線を逸らして黙ってしまった。そしてなにかを思い出したようにくすっと笑った。
「吾妻先生も。島に来たばかりの頃、『島の買い物はめんどくさい』とか言って空腹で、自宅にも戻りたくないと、不精ヒゲになって院内のソファーで寝転がっていたんですよね。見ていられなくて……、つい……。うちで食事を食べさせちゃったのが……」
あー、なるほど。だから吾妻は美湖が来た時に『食べ物いっぱいにしておけ』と食材をありったけ準備してくれたのかとわかった。そして、自分は空腹を満たしてくれる『美人な彼女』の家にまんまとあがりこみ、そこで念願のかわいい息子も……。ん? それってもしかして吾妻の策略? 空腹の顔をして面倒見がいい女性をその気にさせて、まんまと家に入れる許可をゲット?? ん? 美湖は急に吾妻の胡散臭い本性を思い出し、眉をひそめた。
それでも、プロポーズをしたということは本気。三度目の正直で、子供がいる女性だけれど、どちらも幸せになって欲しいなあと願わずにいられない。
冷茶を飲み終わった早苗が診療所の玄関から帰ろうとしている。
夏の日が長い夕暮れ。それでも海が薄紫色に凪いでいる。
「相良先生とやっとお話が出来て良かったです。お困りのことがあったら、いつでも私に……。晴紀のこと……、清子さんのことお願いいたします」
美湖は美湖で、その話になると胸が痛くなる。きっと、いま美湖のいちばんそばにいる『大事』が重見親子になってしまっていると気がついてしまう。
「ありがとうございます。重見さんはよくしてくださるので、私も……」
ハルが人殺しなんて。どうして? うっかりだった。涙が出てしまった。それともこの大人の女性が自分の弱い部分も、こんな未熟な女に吐露してくれたからだろうか。
「先生、……相良先生……。大丈夫ですよ。晴紀を信じてあげてください」
「もう、早苗さんから聞いてしまいたい。安心したい。でも……、出来ない。彼から聞きたい」
聞くまではこんな気持ちを持ち続けて、ハルと清子の前ではいつもの美湖先生でいなくてはならない。
「早苗さんは知っているんですか……。なにもかも」
ハルが本当に人殺しなのか、ただの尾ひれがつきすぎた噂なのか。晴紀と近しい女性に聞いてしまう。
でも早苗が困った顔をしている。
「誰も、私も、きっと清子さんも、信じることしかできないような出来事だったんです」
信じるしかない。つまり真相はハルしかわからないということ? ますます困惑した。
「でも。あの子がそんなこと出来ると思います? どちらかというと正義感が強い子ですよ。でも……、先生もわかりますよね。正しく生きていれば決して殺人なんて出会わないなんてことはないと」
早苗のその言葉は、逆に美湖には衝撃的だった。正しく生きていても、人は時に過ちを犯すものなのだと。
「そう、思っているのですか。早苗さんは」
「いいえ。晴紀は間違いを犯していません。きっと」
きっと? なんの確証もなかった。
まだ涙が滲んでいる美湖を、今度は早苗が近くに寄ってきてそっと抱きしめてくれる。
「ハルを信じる気持ち、私は姉のように嬉しいです。でも、先生……我慢できなかったら、いつでも。それが晴紀を助けることになるかもしれない」
でも。まだ美湖は晴紀から聞きたいと思っている。
だから、この日は早苗とはそこまでで別れた。
でも、彼女が相良先生と話せて良かったと言ってくれたように、美湖も幾分かほっとしている。よかった。やっぱり吾妻が選んだ女性だと思った。
・・・◇・◇・◇・・・
ついに。出不精の女医。瀬戸内の離島に赴任して以来、初めて。定期で出ている高速船に乗って松山市へ買い物に出掛けた!
飛行機で松山空港に降りてから、タクシーで港まで直行してそのままフェリーに乗って島に来てしまったため、城下町である松山市は素通りだった。
中心街に出ればデパートもあると聞いて、美湖はそこで久しぶりに『女らしい買い物』をたくさんしてしまう。
そこで……、恥ずかしながら。水着を購入。しかし近頃の水着はちょっとした洋服のようで、胸元もビキニラインも気にしなくてもよい、露出が少なく身体のスタイルを気にしないもので溢れていた。
まだ独身なので体型も二十代のころから維持しているつもりだったが、もう大胆に胸も足もお尻も晒す勇気はなくなっていた。
他にも、診療所でもう少しラフに着られそうな仕事用の服、ランジェリーに化粧品など。やっぱり女の買い物は楽しいと存分に散財してしまう。
おばあちゃんの島レモンマーマレードを全国に流行らせた珈琲会社のカフェを見つけてしまい、そこでちょっと腹ごしらえ、上質なコーヒーを堪能して帰路につく。
天守閣が見える城山と、がたんごとんとのんびりと走っている路面電車。夏目漱石、正岡子規、秋山好古・真之兄弟など縁の街。古き良き時代の風を感じる。
蒸し暑い夏風がゆっくりと吹く市街をあとにして、美湖はふたたびフェリーが出る古港へと向かう。
電鉄の古港の駅を降りて、港の商店街を抜け、フェリー乗り場へと荷物を抱えながら歩いている時だった。
港チケット売り場の道沿い、歩いているすぐそばの車道、そこに大きな黒い車が停車した。
厳つい大きなクルーザー型の車。いきなり人のそばに停車したりして『なによ』と美湖は睨んでしまう。その助手席側のウィンドウが自動で開いた。
「美湖先生!」
運転席から助手席へと身を乗り出してこちらを見下ろした男の顔に、美湖も驚く。
「ハル君!」
「すげえ、センセ、島を出て一人で買い物が出来たんだ」
またスーツ姿の凛々しい男が、でもいつもの生意気な声でそういって笑っている。
「ハル君が水着を準備しておけっていうから、わざわざ出て行ったんだから」
「持ってなかったんだ、水着。それであんなに水着じゃないとダメなのかって言っていたのかよ」
「水着なんて喜んで着るのは二十代の若い時だけ! しかも前の水着なんて恥ずかしくて着られないから! 三十代の女のキモチなんだからねっ」
あ、そうだったのかとハルも我に返っている。
「そう言ってくれたらいいのに。おしっことか生理用品とか言えて、どうしてそれ言えなかったんだよ」
うわー、そういうつっこみするか。私にだって照れとか女心があってだね、ただ、それがかわいげがないだけでね! そう思ったが言いたくなかったので美湖は黙る。
「センセ、何時の船? 高速船だろ。俺も乗って帰るから。座席を合わせたいから、チケット売り場で買わずに待っていて」
「え、この車は?」
高速艇は人しか乗れない。車はフェリーでないと持って帰れないはず? しかも島で彼がこの車に乗っているのを見たことがない。
「これ、こっち市街用。今治に行く時に使っているからこっちの月極に預けてるんだ。そこまで置いてくるから」
そういうとハルの大きな黒い車が発進する。
「
しかも、厳つくかっこよくきめちゃって。やっぱり年頃の大人の男なんだなあと改めて思った。
「会社経営の母方親戚に、不動産持ちの古い家系らしき島民の家柄で。クルーザー持ち、高級外車持ち。まさか、おぼっちゃん??」
初めてそう思ってしまった。
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