先生は、かわいくない

市來 茉莉

1.蜜柑の花咲く島


 ほんとうに、来てしまった。

 まさか『島』に住むことになるとは思わなかった。

 瀬戸内海、愛媛と広島と山口の県境が目の前、しかも海上の県境。青い海と緑の島々が連なる諸島へ。


 人はこの状況を見て『島流し』と噂をするほどで、さらに本土である『市街』からフェリーで一時間もかかる島。そんな島にいま到着。


 五月だというのに、夏なのかというぐらいに暑かった。

 飛行機の中で羽織っていたジャケットなんてもういらない。

 ノースリーブのブラウス姿のまま、フェリーから港に降りる。


 

 その瞬間だった


 

 ふわっと美湖みこを包む初夏の風に、初めての香りをかんじた。

 なんの匂いだろう。いままでかいだことがない、甘い、爽やかな香り。

 初めて、この島に来ることになった美湖の心をうっとりさせた瞬間だったと思う。


 


「相良!」

 降りた港の桟橋のむこう、懐かしい男性が手を振っていた。

 彼から元気いっぱいに駆け寄ってきてくれる。

「吾妻先生、おひさしぶりです」

「おー、相変わらずクールな顔しているな」

 背が高い彼に笑われる。それでも美湖は少しだけ口元を緩めて言い返す。

「島流しですからね」

「本気でそう思っているのか」

「さあ。いつものことですから。教授がなにを考えているかなんて気にしません」

 彼が美湖の背中を叩いた。

「そうそう、それでいいんだよ。それで俺もここでいまは自由にしているんだから。いいぞ、ここは。学閥のしがらみから開放されるし、海は綺麗で空気もいいし、のんびりしている。なにより魚がうまい」

 ああ、遠い島に流されて到着した時によく言われる文句に違いないと、美湖はさらにゆるく微笑むだけ。


 しかし吾妻が耳元で囁いた。『しばらくの辛抱だ』と。ふと彼の顔を見上げると、吾妻はなにかを企んでいる自信ありげな男の眼をしていた。

 美湖の周りにいる『優秀な男たち』はだいたいこの眼をして、お腹の中の黒いものを上手に隠して微笑んでいる。美湖に島に行くように指示をした教授も、そしてこの『指導医』だった吾妻も。彼らほど胡散臭い男はいない。それだけに『最強の後ろ盾』ともいえた。

 なのに美湖は『島の新しい診療所に行ってくれ』と唐突に言われて来てしまった。


 彼が用意してくれていた車に乗せられる。発進した車は島の海沿いを走り出した。

 窓を開けると鮮烈な潮の匂い。ほんとうに海がすぐそば……。

「もう誰も住まなくなった家屋をリフォームしてくれたんだ。中は新築同然、海も見えてなかなかいい一軒家だ。診察室には必要な器具と機器を揃えておいた」

「ありがとうございます」

「あいっかわらず淡々としているなー。あはは!」

 彼が笑い飛ばしながら、運転している。

 その時、『病院』と目立つ看板がある前を通り過ぎた。

「吾妻先生はここで?」

「そう島の総合病院はここな」

 田舎に良くあるこじんまりとした総合病院。三階までしかない一棟のみ。それでもこの島の医療がここに集中しているのだろう。


「この島はまだいいほうだよ。総合と名の付く病院があって、医師がいる。無医村ではない。それでもな、この島も高齢者ばかりだ。島のこの地形、わかるだろ」

 海岸線を走っていたと思ったら、あっという間に坂道を車があがっていく。

「海の中から生えた山ってことだよ。島ってやつは」

 そして美湖はこの島の中央にある病院ではないところへ向かっている。

「島の裏側、頼むな」


 港で少し賑やかな中心部には大きな病院も商店街もあるが、山型の島となるとその麓に集落が点在している。東側、西側と別れているようで、松山市からのフェリーの航路は東航路、島の中心街に着く。反対側、広島に面している内海島々と結ぶ港は西航路。しかし、美湖がいま向かっているのは西側。港があるが中心街の裏側ということになる。そんな地形や町の成り立ちでなくとも、地方の離島となると高齢者が多く、またバスが走っているといっても本数も少ない。車を運転できる若い世代も僅かで、病院から距離がある島の裏側の島民は、すぐそばで見てもらえる診療所があったら……との要望が何年もあったらしい。さらに、その目の前にある『隣の小さな島々』から診療所近くの港から通える医療施設があると助かるとの声もあり、この島に新しく診療所をつくったとのことだった。


 美湖と指導医だった吾妻は、元は横浜の大きな大学病院に勤めていた。

 そこで上司にあたる広瀬教授が『系列病院の地方医療』に力を入れていた。ここ近年はこうした離島や無医村へのサポートに力を入れている。

 医師たる献身的な姿で支持を得ているといってもよい。ただ、こうして教授の思惑で地方へと急に飛ばされた部下もたくさんいる。挫折して辞めた者も続出。

 万人のためになる医療であるべきという献身的な姿を売りにして、人気を取っている教授だと後ろ指さされていることも美湖はよく知っていた。


 そして二年前。吾妻が離島の医療を助けてこいと教授に言われ、腕がある外科医なのにあっさりと飛ばされた時は周囲のざわめきも凄かった。

 腕が良すぎて飛ばされたと噂された。あるいは女性問題で失敗した等々。彼がいると学閥の戦いに邪魔で飛ばされたとも囁かれていた。

『相良、気にするな。俺は良い機会だと思っているよ。それにさ、なんだかあちこちの圧力の中で思うように身動きできなくなっていて、ちょっと息苦しかったんだよな』

 そうして吾妻ほどの医師があっさりと地方へと行ってしまった。すんなりと受け入れた彼の姿が美湖には意外だった。美湖は彼の教え子として、彼のことをよく知っていた。彼もまた野心家だったはずだから。


 そしていちばんの相談相手を無くしてしまった。そして美湖もあっさり見送ってしまった。

 淡々と見送った美湖のことを、吾妻は先ほどのような笑顔で応えた。『おまえはそのまま、クールなままでいろよ』と。それがきっとおまえ自身を守るから、崩すなよと。もちろん、その通りにしてきた。



 吾妻が運転する車の窓から、海が下に見えるようになる。古いガードレールの周りには草や木々が生い茂っている。そして山肌には緑の木々ばかり。


「おまえもさ、散々、噂されただろう」

 お疲れさんとばかりに、吾妻も致し方ないと微笑んでいる。

「そうですね。まず島流し。その理由が別れた男が敵方の教授のお嬢様と結婚することになり、元カノの私が同じ病院にいると目障りだから――です」

「それほんとうのことなんだってな」

「別れたのはほんとうです。教授のお嬢様に疎まれたなんてことは嘘。気だての良い、素敵なお嬢様ですよ。あちらの教授だって、こんな私情を挟むなんて情けないこと絶対しませんよ。ほんとうにそれは噂。こっちは未練もなく別れただけのことなのに。でも、そういう噂をたてられてしまうちょうど良すぎるタイミングだったのは確かです」

「ほんっとにその男に未練ないのか~。脳外科のエースらしいじゃないか」

「ないですよ」

「おまえにとって、初めてのカレシだったんじゃないのか~」

「初めてではないですよ。でも、長くは付き合っていましたけれどね」

「三年だっけ」

「五年です」


 『うわ、長っ』。吾妻がどん引きしたようにして驚いている。


「そうですよねえ、吾妻先生から見たら長いでしょうねえ」

「うん。俺、二度の結婚生活、どっちも三年も保たなかったもんな。そうか。そこまで付き合って結婚できなかったのなら、そういうもんかもな」

「そうです。そういうもんです」

 そこで吾妻がハンドルを握って正面を見たまま、真顔で言った。

「また言われただろ。おまえは、かわいくないってさ」


 美湖は押し黙った。


「言われたんだ。わかってねえな、おまえの、かわいさってやつ」

「いいんです。きっと……彼は気だての良いお嬢様に癒されたんです。出世も出来ますしね」

「ほんとに、そんなもんだったのか」

 おまえは悔しくないのか。五年もつきあった恋人が去っていてしまっても。そう言われているとわかっている。


 でも美湖は陽射しが降りそそぐ緑の木々を見上げながら考える。

 わからない。なんにもわからない。悔しくもなかったし、惜しくもなかった。彼がいる家に帰るのを心の支えにしていたのも確かだった。でも、ぜんぜん心が痛まなかったのは何故?


『美湖は俺のことなどちっとも愛していない。おまえは、かわいくない』

 そういって、彼が家を出て行った。普通に一緒におなじ部屋で過ごして、笑ってワインを飲み合って、映画を観て、食事をして。そういう楽しい生活を重ねていた。それが五年。結婚? 考えたことがない。彼も匂わせなかった。そして二人とも不規則であっても、医療の仕事に没頭して充実していた。お互いに医師だから仕事への理解もあった。


 気が楽だった……。それ以上のことなど、望んでいなかったのに。

「先生。気が楽――と思うことが駄目だったんでしょうか」

 訳のわからないことを聞いてしまった、心の奥にそっと置いていたものを吐露してしまったと美湖は一瞬、後悔してしまう。

 だが吾妻もどこか憂う眼差しで答えてくれる。

「あー、それわかるなー。気が楽になると、相手が逃げるってやつ」

 そうなんだ。女性遍歴豊富な先生もそう感じることがあったんだと美湖は驚いてしまう。

「緊張感を無くしたり、空気のような扱いをされていると思われたのかもな。俺たちはそこに癒しを感じているのにな……」


 吾妻と再会して、数年ぶりにこうして話していると、美湖はとても安心する。

 女性関係が派手なのが玉に瑕だけれど、腕も良く、男らしく、要領も良く、頼りがいのある指導医、先輩だった。


 その吾妻が運転をしながら、窓を開けた。

 その瞬間。港でかいだあの甘くて爽やかな香りが鮮烈に入ってきた。

「この匂い、港でも……なんでしょう」

 吾妻が笑う。

「蜜柑の花だよ。いまちょうど季節だ」

 山肌に茂る緑の木々は蜜柑の木だと知る。よく見ると小さな花が咲いているのが見えた。

「わあ……、これが蜜柑の花? ほんとうに瀬戸内なんですね」

「ああ、瀬戸内だ。海と緑と蜜柑ばっかりの島だ。この島で栽培できない柑橘はないと言われているほどだからな」


 吾妻が運転する車が下り始める。

 幾分かすると、ほんとうに緑の島と海だけしか見えない景色が目の前に広がる。

 島が海に囲まれているのではない。海が島に囲まれている。そんな景色だった。

 海のど真ん中にいるんだと、美湖は初めて遠くに来たのだと実感する。


 

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