17.海のセンセ
そのうちに島を半周したぐらいの岩壁しかないような水辺へと、クルーザーがゆっくりとスピードを落とした。
遠い水平線にはいつものフェリーやタンカー、貨物船に漁船。今日は休日でヨットもクルーザーも動いているのが見える。
「綺麗」
緑の島に囲まれている、蒼い海は深く吸い込まれそうな湖のようで、海なのに緑の島々が圧倒しているように見える。夏の真っ青な空に白い入道雲、これぞ理想の海という絵図が目の前にひろがっている。
これが瀬戸内海。いままで東の都会で、島々に囲まれたゆったりとした遠い世界だと思っていたものが、今日は鮮やかにくっきりと美湖の目に映っている。
美湖がこの島に来る時に乗ってきたフェリーが東港へと向かっているのも見えた。
「美湖先生が来た時、ちょうど蜜柑の花の季節だったな」
「うん。あのフェリーで港に降りた時、すぐにその匂いがしたの。素敵だった……」
クルーザーが岩肌を目の前にして止まった。
ちゃぷんとした穏やかな波にクルーザーが揺りかごのように揺れている。
「先生が来た時は咲き始めだったから、港に降りなくちゃわからなかったかもしれないけれど。最盛期になると、あのフェリーで港に入る前にはもう、海上でも甘い香りがするんだ」
「そうなの! すごい!」
「ここもそう。五月の末にくると甘い香りがする」
ハルが岩肌に前からあるのか小さな桟橋のような場所にクルーザーからロープを伸ばして大きな杭に繋いだ。
「ここでなにするの」
「ここ、地元の俺らのシュノーケリングスポット」
そういって、ハルは美湖の目の前にシュノーケルリングの装備を差し出す。
目と鼻を覆う水中ゴーグルと口にくわえる管だった。
「え、まさか。これをつけて、私に、足もつかない海に入れていってるの!?」
んな無茶な! と美湖はらしくなくパニックになる。
今日は晴紀のほうが落ち着いている。
「大丈夫。俺がいるから」
「俺がいるからって、すごい自信なんだけれど」
「子供の頃からこの島で泳いできたんだし、航海士の時に人を担いで海の中を泳ぐ訓練もすげえやったて」
「人を、かつぐって??」
そんなこと、こんな岩壁そばの深い海で、こんな大の大人の女を担いで出来るのかとにわかに美湖は信じられない。
それでもハルは淡々と動いて準備を進めている。地元民が作った岩場の簡易桟橋に船を繋ぎ、今度は美湖が座っていたゴムボートを海原に放り投げた。しかしそれもロープでクルーザーに繋げられている。
晴紀がしっかりとロープの結び目とカラビナを点検し、クルーザーの舷にアルミパイプの梯子をかけた。
「これで降りてゴムボートへ。そこから海にはいるから。センセ、ちょっとこっち来て」
言われるまま、梯子をかけた晴紀の目の前に行くと、着せられた救命胴衣の空気をもう一度確認される。
「腕に、これつけて」
腕用の浮き輪をつけられた。
「俺が先生を脇下から手を入れて、そうっとひっぱっていくから。絶対に暴れるなよ」
要救助者が暴れると救助する者も溺れることは美湖もよく知っていたので頷いた。いや、待って!
「待って! やっぱりダメ、怖い」
「大丈夫。今日は波もない。こんなに水面が凪いでいるだろ。それに俺、訓練の時は美湖先生よりもっとがたいのいい男で訓練していたんだから、大丈夫だって」
ほら。マスク、シュノーケル。はい、行くよと強引に手を引っ張られていく。
まず晴紀からクルーザーを梯子で降りてゴムボートへ。美湖はまだ決心がつかない。
ゴムボートに降りた晴紀が、クルーザーにいるままの美湖を見上げている。
「センセ。やっぱ怖い? 本当に怖いならやめる」
美湖は迷っている。そこから先は本当に知らない世界だ。素人が簡単に行けない世界だ。もうなにもかもを海をよく知っている男、晴紀に任せなくてはならない。
そう晴紀に自分を委ねるのだ。
遠く青い水平線と空の境目を一時見つめ、美湖は梯子へと足をかける。
「絶対に絶対に怖くしないでよ」
「しないから。ほら、来いよ」
今日は頼もしい海の青年が差し出す手を、美湖も握る。
ゴムボートに降りたつと、晴紀がかいがいしく美湖の頭にマスクをつけ、これをこうやって吸うんだよとシュノーケルをつけてくれる。
晴紀も同じように頭と顔面にシュノーケルとマスクをつけ、自分の身体にクルーザーの舷に固定しているロープをくくった。
「俺が先に海にはいるから。先生はゆっくりと俺に向かって降りてきて。俺が先生を受け取るから、怖いからって真っ正面から俺に抱きつかないこと」
「抱きつかないから」
言われなくても、ハル君になんか抱きつかないと意地を張ったのに、それでもハルは本当は怖いが為の『美湖の強がり』だとわかってしまったようで笑っている。
「行くよ」
つなぎのスイムウェア、シュノーケルを口にくわえた晴紀が、ほんとうに凪いでいる青い水面に入っていく。
「センセ、いいよ」
彼を信じて。晴紀を信じて。ハル君に任せよう。
美湖も深呼吸をして、そっと足を冷たい海面に向ける。
ゴムボートから手を離したら、海中に落ちていくイメージしかない。怖くて離れずにいると、美湖の腰を晴紀ががっしりと掴んだ感触。
びっくりして固まっていると、いつのまにか身体がふわっと海面に浮いたから驚いた。
「え、え。どうして」
「もう海の上だ。先生。そう、もっと力抜いて」
脇下にほんとうに晴紀の手がはいって掴んでいる。そして美湖の背中には晴紀の体温。彼が美湖の下で泳いで、浮いている美湖を海上へと運んでくれている。
美湖の耳元にはシュノーケルで呼吸する晴紀の息づかい、そして波の音。真上には太陽の光、潮の匂い。水面に反射する光は眩しくて、時々青色に見える。海水はほどよく冷たくて気持ちがいい。
島に来た時、吾妻が運転する車から見下ろしたあの景色を思い出している。島が海に囲まれているのではない、海が島に囲まれている。いま美湖はその島々の緑の谷間にいて、その湖底にいる気持ちになってきた。
「どう、センセ」
彼の顔は見えない。でも耳元すぐのところで声が聞こえるし、時々彼の手や身体の体温が触れて安心している。
「私、いま、ど真ん中にいる気分」
「ど真ん中? 大袈裟だな。ここはまだ波際なのに」
沖合ではないのにと晴紀が笑う。
「よし、ここだな」
晴紀が手をかざして太陽の位置を確かめたのがわかった。
「美湖先生。いまから浮いている身体を反転させるから。怖かったら、俺にしがみついていいからな」
なによ。しがみついていいなんて、ちょっと頼もしそうに言ってくれちゃって生意気と、美湖は密かにむくれた。
でもここでは晴紀しか頼れないし、晴紀だからここに来た。
彼がそうっとそうっと美湖の身体を海面に顔が付くようにと反転させる。ようやっと晴紀と顔が向きあう。
彼が美湖の両手を握って『力抜いて抜いて』とスイミングの先生のようにして、一緒に海面に浮いている。
「海の中、見て。先生」
言われて、美湖はマスクをしている顔を海面から下へとつっこんで覗いてみた。
揺れるアクアブルーの光、そうっと流れている海流に、小魚だけでなく、大きな魚も深いところで群れになって泳いでいる。まるで、そこは大きな水族館の水槽そのもの!
無数の魚と海藻と岩場で優雅にそよぐ綺麗なイソギンチャク。海月(くらげ)もいる。透ける青い光の筋を縫って、泳いでる。
どう、センセ。
水の上からハルの声が聞こえ、美湖は我に返る。ざばっと顔を上げると、美湖は思わず、すぐ目の前にいる晴紀に抱きついてしまう。
「うっわ、先生! あぶな……」
真っ正面から美湖が抱きついてしまったため、一瞬、晴紀の身体も海中へ沈んでしまう。美湖も一緒に! 晴紀と一緒に青い水泡の中……。また美湖はびっくりして、ざぶっと入ってしまった海水の中でさらに晴紀の首に抱きついてしまう。
それでも、鍛えている男の腕が力強く、勇ましく、二人分の身体を海上へと揚げてくれた。
海面に戻れた美湖も、やっと正気に戻って、自力で泳ぐ。
「ご、ごめん。ハル君!」
「びっくりした! 先生、大人しく海中を見ていると思ったから、もう怖くないんだと思って油断していた」
一時離れた美湖の身体を、また晴紀の長い腕が掴んで引き寄せてくれる。
なのに美湖は目の前に彼が来ると、今度はそっと首に抱きついてしまう。
晴紀が気が付いた。
「センセ、震えてる……?」
微かに震えている。
「怖かった? 先生……」
柔らかく抱きついているその女の身体を、晴紀がそっと抱きとめてくれる。
「恐ろしく……、綺麗だった……別世界……。異世界だった……。人間が入れない、生物の青い異世界……」
大きな水族館の水槽の真上、そこに浮いている木の葉のような錯覚が起きていた。そして深い深いアクアブルー、冷たい青に吸い込まれそうに思えて怖くなった。だから晴紀に抱きついてしまった。
「先生……」
濡れた黒髪を晴紀の手が優しく撫でてくれる。
いま抱きついている彼の向こうも、壮大な緑の島と瀬戸内の海。なのに太陽の光を浴びて鮮やか。
美湖もそのまま、晴紀の首元に顔を埋めて、囁く。
「ハル君……も、同じだね」
「え、なにが……?」
「医師は人体の神秘に真向かう。よく勉強しないと、経験を積んで鍛練をしないと向き合えない。命に触れるのは怖いよ」
『うん、そうだな』と彼も訝しみながらも相槌を打ってくれる。
「海も同じだね。地球を流れる潮は血流で脈流。地球の身体を熟知していないと、怖い世界。でも、とても綺麗。近寄りがたいけれど、さっき近づいたよ」
「それで震えてんの、先生?」
こっくりと彼の首元で頷いた。晴紀の腕がぎゅっと美湖を抱きしめたのがわかる。
「ハル君は、海のセンセだね」
なにも答えてくれなくなる。航海士の仕事を辞めてしまったから? でも晴紀はそうして美湖を抱いて浮いてくれている。美湖もそのまま抱きついて、しばらく瀬戸内の夏の匂いを光を、色を感じていた。
「震えなくなったな」
ハル君がいるから。そう素直に言えなかった。
「一度、あがろうか」
また晴紀が美湖を上手にクルーザーがあるところまで連れ帰ってくれる。
ゴムボートまで来て、晴紀が先にあがった。美湖もゴムボードのふちに捕まって浮かんだまま待っていると、彼が手を差し伸べてくれたので、しっかり握る。
晴紀が男の力で思いっきり、美湖を引っ張り上げてくれる。美湖もやっとの思いでゴムボートにあがれて、息を切らしてうなだれた。
「はあ、はあ……、怖かった。でも、凄かった」
マスクを外してシュノーケルを外して、やっと……、たくさんの空気を吸えて美湖はほっとする。
「でも、すっごい綺麗だった!」
きっと忘れない。蜜柑の花と一緒。いつかこの島を出て行くことになっても、決して忘れない。ほんとうに綺麗な綺麗な宝石を覗きに行ったようだった。
「よかった。そう言ってくれて」
息を切らしている美湖が顔を上げると、目の前に座っている晴紀が優しく目元を崩して微笑んでいる。見たことがない柔らかさだった。
「事前に詳しく言わないで連れてきて、また俺の独りよがりだったかも。でも、先生、出不精だから。怖いと思ったら断られると思って」
美湖も濡れた髪をかき上げながら笑った。
「それは言えるかも。でも、こうしてくれたから……。貴重な体験ができたんだもの」
美湖も、目の前にいる青年の目を見つめた。
「忘れないよ。ずっと。ううん、こんなの、忘れるはずない」
蜜柑の花も、青い光が降りそそぐ異世界も。そう呟いたとたんだった。
「センセ、美湖先生……」
目の前の晴紀が凄い勢いで飛びついてきて、美湖の身体はゴムボートの上に押し倒されていた。
「え、え……ハ、ハル君……?」
それでもお互いの胸と胸の間には膨らませていた救命胴衣があるから思ったより密着はしなかった。だからなのか晴紀は一度起きあがるとそれをさっと脱いで、また美湖に覆い被さってくる。しかも美湖の分も素早く頭から抜き取って脱がしてしまう。
「先生、俺――」
今度は彼の胸元と美湖の乳房が熱く重なり合った。もう彼の日に焼けた顔が目の前。
そして晴紀の手が、美湖の潮に濡れた髪をまた優しく撫でている。
「ハル君……、」
でも美湖は暴れなかった。抵抗もしない。真上にのっかってきて、真上で美湖を見つめているその黒い目を大人しく見つめてしまっていた。
だからなのか。ついに、晴紀の唇が美湖の唇に重なった。でも、一瞬だけ。すぐに離した晴紀が、また美湖を窺うように瞳を覗き込んでいる。
美湖もそのまま、なにも言わずに見つめ返した。もう、それが返事とばかりに。美湖から晴紀の首に腕を絡める。
どちらが先でもない。一緒に同じように唇を近づけて、欲しがって、結んでいた。
優しいキスではない。大人の男と女が性を欲した時の、口元を開いてお互いの侵入を許して、そして入ってきたものを一緒に吸って飲み込む。そういう貪欲なキス。
ずっと離れずに、いつまでも舌先を絡めて、唇を愛撫しているのは、それまでどこか奥に押し込めていた『男と女』が解きはなたれてしまったから。
密かに感じていた、自分より若い青年の、鮮烈な男の色香も匂いも。でも、私は彼よりずっと年上だからと押し込めたのは大人の理性。でも、それを……それを、いま壊している。彼がじゃない、美湖自身が。
潮のしょっぱいキスだから、彼の舌先は甘く感じた。美湖がそうして彼を許してしまったから、晴紀ももう止まらない。揺れるゴムボードの上なのに、我を忘れたようにして、美湖が着ているタンクトップビキニの下へと手を差し込んできた。
「あ……っ」
開放的にしている胸元へ、男の手があっというまに辿り着いた。
それでも晴紀は美湖の目を見つめて離さない。ずっとそうして美湖だけを、まっすぐにまっすぐに見て、美湖が許すように目をつむると、また熱いキスを強く押してくる。
男の太い指が、美湖の乳房の先を抓んだ。切なくて甘い痛みに、美湖も儚い声を漏らしてしまう。
「い、いや……」
そう呟いたとたんに、晴紀がはっと我に返ったようにして、凄い勢いで美湖の身体から離れていった。
「ハル君……?」
押し倒され寝そべったまま、起きあがった晴紀を見上げた。
彼が目元を覆って、苦しそうに表情を歪めていた。
「俺、……そんな資格、ない、のに」
ドキリとした。それはどういう意味?
彼の中にある『相応しい資格』とはなに? もしかして……。
美湖もそっと起きあがる。起きあがると狭いゴムボートだから目の前に彼がいる。その彼の顔を今度は美湖が覗き込む。
「イヤじゃないよ。嫌なのは……、ここでは、嫌」
美湖からそっと晴紀にまた柔らかに抱きついていた。
「美湖先生、そうじゃなくて・・」
「ここじゃ、イヤ……。ハル君はイヤじゃない」
ぎゅっと抱きついていた。だって、もう……美湖も止まらない。あんな、ドンとぶつかってくるように求められたら。
「それとも。年上すぎて、ダメ?」
そう呟くと、抱きついていた美湖を晴紀がほどく。また彼の落ち着いた男の目が、黒く深い瞳が美湖を熱く見つめている。
「思ってねえよ、年上なんて」
「そっちは二十代で、私は三十越えてるよ」
「きっと、綺麗だよ、センセ」
また一時、二人でじっと見つめ合って。また同じように目をつむってキスをした。息が合っている、そう思えるキス。
ハルが立ち上がり、美湖の手をひっぱりあげる。クルーザーの梯子を登って、ふたり一緒に甲板に戻った。
ゴムボートを回収すると、晴紀がクルーザーのエンジンをかける。
「どこがいい、美湖さん。俺の家はだめだ」
清子がいるから当然だった。美湖も答える。
「診療所も……、今日はちょっと」
なんとなく、まだ職場の心持ち。
「わかった」
晴紀のクルーザーが動き出す。岩肌を離れ、船首は島の外へ向いている。
高く昇った真っ白な太陽光線の中、クルーザーは島から離れていく。どんどん離れていく。
いつも一緒に暮らしている島を離れて、ふたり。いまからなにをするのか多くは確かめず、でも向かっている。火照りを抑えて、疼きを抑えて。向かうのは市街の港町。
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