19.瀬戸内の血脈
「だったら、どうして! 俺とこうなる前に確かめなかったんだよ! 自分から言わなかった俺もズルイけれど、人殺しに抱かれてよかったのかよ! もっと自分を」
大事にしろと晴紀が続けるのがわかった。美湖にとってはそれで充分。
「人殺しじゃないんだよね。ズルイ男は自分がズルイことをしていると気が付かないし、気が付いていてもズルイから自分からズルイて言わない。後出しでも晴紀はちゃんと言った。ほんとうに人殺しだったら、晴紀は大事にしようと思っている女には手を出さない。絶対に。私が知っている『ハル君』はそういう男」
「たった三ヶ月、俺のなにもかも知っているわけじゃないだろ!」
「五年つきあってもわからないことある。なにもかも知れば上手く行くわけじゃないよ。むしろ、私がハル君を選んだんだよ。それじゃダメなの」
非常に淡々と述べる美湖を、晴紀が茫然として見つめたまま、とうとうなにも言わなくなった。
「殺していないよね、ハル君」
晴紀が目線を逸らした。そうでないなら、晴紀、教えて。なにがあったのか。それすらも私は信じる。晴紀だからこそ、その出来事は起きたのだろうと信じる。
「殺してなんかいない」
ほら。やっぱり! でも美湖の心が、噂を聞いてから縛られていた心が柔らかくほぐれていく、ほっとしたのは否めなかった。
「殺したように見られてしまったんだ」
ベッドに座ったまま、晴紀がうなだれた。時々、彼から感じていた影をいま美湖は目の当たりにしている。
「同僚を――、と聞いているんだけれど」
「貨物で荷役をしている時に、すぐ隣にいたはずの後輩が、晴天なのに、いまそこにいたのに消えた」
え? 訳がわからなくて、美湖は聞き返す。
「いなくなったて? 船で? 『にやく』てなに?」
「港で貨物船にコンテナを積む、荷物を積む作業のこと。一等航海士と二等航海士が甲板でタグボートの牽引で離岸するまで監督するんだ。その時、三等航海士の後輩も俺と一緒にいた。すぐ隣にいたのにいなくなった」
「海に落ちたんじゃないの?」
「落ちない。滅多なことでは。落ちたとしたら、故意に落とされたか、故意に落ちたかだ。三日後、遺体であがった」
「死因は? 捜査があったのなら検死、解剖したんでしょ」
「溺死だった」
「それなら、彼が故意に、自殺じゃなかったの」
「自殺の理由が、俺――ということになっている」
だから、人殺し!? 今度は美湖がなにも言えなくなった。早苗の言葉を思い出している。『正しく生きてさえいれば、間違いを起こさない、にはならない』という言葉。
「ハル君が……、自殺に追い込んだってこと?」
「パワハラと言われた」
晴紀はそう告白するたびに、美湖から目を逸らす。彼の中の罪の意識を感じずにいられない。
「先生も、今日までの俺を見て思っただろ。口が悪いんだ。ついズケズケ言ってしまう。きっちりしないヤツにはつい」
つまり私もきちっとしていないように見えていたわけか――と顔をしかめたが、否定できなかった。そしてそれだけ聞いて、美湖も理解する。
「船の運航は安全第一だもんね。いいかげんな仕事は決して許されない。医者も同じ、トラブルはあっても絶対回避、ミスは許されない。ハル君はそれが、許せなかったんだね」
言いたかったことを先に美湖が見通したせいか、やっと彼が驚いて美湖を見てくれた。
「でも、俺の叱責が追いつめたのではないかと言われていた。仲間は船乗りなら当然の心構え、注意しなくては運航に影響が出ただろうと言ってくれたけれど。結果が全てというのはこういうことなんだと思っている」
殺人は犯していない。でも精神的に追いつめた責任はあるとハルは思っているようだった。
「そんな……、ハル君の注意でへこたれるような気の弱い子だったの?」
晴紀は人を見て労れる男だと美湖は思っている。気が弱い子ならそれなりに柔軟に対応が出来るはず。そう信じたい。
「違うよ。逆だよ。俺と張り合うようなヤツだったよ」
ほら、やっぱり――と美湖もほっとする。でもそれなら自殺なんて精神状態になるのかとそこが腑に落ちない状態になる。
「自分の思い通りにならなくてヤケになったんじゃないかとみんな言っている。それでも俺も衝突する状況を作ってしまった責任が二等航海士としてあったと思っている」
「だから、辞めたの?」
ハルが頷いた。
「その事件、事故が発生した貨物の運航に損害が出た。俺はその責任を感じている」
なんだか美湖にも見えてきた気がする。その男、責任感が強い晴紀が苦悩する状況を死んでも作りたかった? だとしたら恐ろしい怨恨だとゾッとしてきた。
「その子に、恨まれるようなことした?」
晴紀がそっと首を振る。
「でも……、そうなる積み重ねはいっぱいあった。向こうは三等航海士で後輩だった。俺は広島の商船系高専に通っていたんだけれど、そいつも後輩だった。学生の頃から軽薄というか、親の権威をかざして人を動かしたり、自分の思い通りにさせようとしたり、そんな自分の周りに負担をかけるのも平気ないい加減さがあった」
「ハル君と衝突していたんだ。学生の頃から」
それだけじゃないと晴紀が苦悩するように頭を抱えた。
「あいつの実家、わりといい地位にいる資産家で、学生の頃からそういう態度だった。『資産家』という立場から、俺はよく敵視されていた」
資産家がハルを敵視する。そっか、やっぱりハル君の実家は重見家は資産家なのかとようやっと美湖も認識。
「あいつの婚約者が、俺になびいたのも原因だったと思う」
「彼の婚約者がなびいちゃったの?」
でも美湖は驚かない。仕事にシビアで田舎とはいえ実家や親戚は資産家、それにこんな男らしい青年だったら、若い女の子は晴紀を気にしてしまうだろうと。
「それで、ハル君……。まさか、その子……」
聞かずにいられなかった。そうではないと思いながら。
だから晴紀も心外だったのか、怒るような顔で美湖を睨む。
「そんなわけないだろ! 人の婚約者、女を取るなんてしない!」
「だよね、ごめんね。もしそうだったら、それも自殺しちゃう原因かなと思っちゃって……」
「警察にも聞かれたから……、大丈夫」
実家の立場も、仕事での食い違いも、女性関係もすべて絡められて取り調べされたようだった。
「そんなに不仲なのに同じ船に乗っちゃったんだね」
「時々あった。同じ商船会社の船員だったから。社会人になっても、あいつと俺はよく比べられたよ」
実家が資産家で、先輩と後輩で同じ高専学校出身、会社も同じ。ずっとライバルだったということなのだろうか。
そのライバルに仕事でも女性関係でも優位に立たれて、この男を奈落の底に落とすなら俺が死んで辛い状況に陥れる。そして責任感が強い彼から航海士としての仕事も奪う。美湖にはそうとしか見えなくなる。
「よく、田舎の金持ちていわれた」
「酷いね。島で血脈を受け継いで来た歴史を軽んじている」
またハルが美湖を茫然と、うなだれて座っているベッドから見上げた。
「美湖センセ、そう感じてくれていたんだ……」
「わかるよ。島で、重見家のそば、愛美さんの家族や、漁協の岡さんや、漁師だったというおじいちゃんたちの昔の武勇伝とか往診で聞いていたら。そうして受け継いできたからの財があるって」
そこで美湖は聞きづらかったことを言ってみる。
「ハル君の実家て、やっぱり資産があるんだね」
「まあ、そこそこ。元船主だったし」
船主? 聞き慣れない言葉に美湖は首を傾げる。
「その海運でもうけた財で幾分か島と市街の港町に土地を持っているけれど、船に関しては伯父にすべて引き渡した。その手に関しては伯父が今治では実績があるから」
ん? なんだか聞き慣れない話になってさらに美湖は眉をひそめた。
「伯父さんも、その、船主さん?」
「そうだよ。だから、俺が『エヒメオーナーの甥っ子』だとその後輩がムキになって張り合ってきたんだから。商船会社にいると、エヒメオーナーの伯父のほうが立場がいいから、いままで通用した後輩の親の権威が伯父に敵わなかったのもあるのかもしれない」
エヒメオーナー? また美湖は首を傾げる。
「あ、聞き慣れなかったか。えっと……、伯父はその『エヒメオーナー』の一人。今治という地域は貨物船や大型船を所有する規模がギリシャや香港に並ぶ規模で、世界では『エヒメオーナー』と呼ばれているんだ。つまり、海運の長と言えばいいかな」
さすがにギョッとした。世界で三つに入る海運のオーナー!?
「待って、待って。なに、そのエヒメオーナーって!」
「だから、今治にはそういう船主が伯父以外にもけっこういるんだって。このあたりの海域は戦国時代から海運で栄えていただろ。それが受け継がれて、いまはエヒメオーナー」
「ええっ! それがハル君の伯父様!?」
「の、一人な。伯父より船を所有しているランクが上の会社は今治では他にあるから。伯父はまあ、五本の指に入るぐらい?」
「そ、そんな大きな会社が今治にはいっぱいあるの??」
「大きくないよ。どこも百人以下、伯父のところは五十人くらいで回している」
え、たったそれだけ? でも世界では『エヒメオーナー』と言われるくらいの影響力? 美湖は混乱してくる。
「ご、五十人体制で……どうやって、世界に……?」
「そうだな。伯父のところは、所有している大型船、貨物船が、100隻ぐらいかな?」
「そんなに!! それを五十人体制で管理しているの!?」
「うん。一族経営が多いかな。だから伯父も従兄も、俺にも会社の手伝いをしろと言うんだよ。次世代の男子が従兄と俺だけだから。そうだ。来年、また伯父の会社の大型船が完成して、一隻増える。進水式があるんだ。先生も見てみる?」
殺人の話がぶっとんでしまった。
「まって。大型船て、造船て、すごいお金かかるよね?」
「金がかかるから、エヒメオーナーに『船を造ってくれ』と依頼がくるんだよ。最近では大手商船会社もコストがかかるんで、エヒメオーナーに依頼してレンタルするぐらい。造船と管理についてはプロフェッショナルと言えばいいかな」
「その、お仕事の、お手伝いがアルバイト、なんだ」
「人事の手伝いと、あと二等航海士の資格を維持するために、派遣で船に乗っている。従兄が伯父の会社とは別に、船乗りの派遣会社も経営しているからそこで、入れるシフトの乗船をしているんだ」
さらに美湖は驚愕する。
「ハル君、島を出たらなかなか帰ってこないと思ったら、船に乗っていたの!」
「瀬戸内海を行き来する内航船だけれどな。だから二週間ほど島を離れたりするんだ」
セックスの余韻もぶっとんだ。そして美湖は、目の前にいる男がほんとうに、この瀬戸内海の民の血脈を受け継ぐ子孫なんだと目を瞠った。
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