23.お父さんは怒っている
白衣のまま岡家に上がり、志津が倒れている部屋まで案内してもらう。
「お母ちゃん、しっかりして。いま父ちゃんが美湖先生、呼びに……」
そこに美湖が現れて、目が合うなり芳子の目から涙がこぼれたのを見る。
「先生、どうして……」
「昼間、お会いした時の様子が気になったものですから。あの時、もっと気をつけておくべきでした。岡さん、柔らかい布団など寝かせる準備をお願いします」
「おう、わかった!」
美湖もすぐに聴診器を耳につけ、志津の胸元をひらいて当てた。
呼吸は少し弱っている。
「志津さん、美湖です。わかりますか」
力ないが頷いてくれる。意識はある。
身体が熱い。でも痙攣などはなし。
「志津さん。めまいはしましたか」
彼女がこっくりと頷いた。
「水分補給は一日何回しました?」
志津が答えられないようだったので、芳子を見ると彼女が『食後と、その間に一回づつくらい』と教えてくれる。尿の色について確認すると、志津が『朝みたいなのが出るなあと思った』と色が濃いのが出ていたとなんとか答えてくれる。
「夕方から頭が痛いと言いだして、夕食もまったく手につけなくて。そしたら、こんな……」
様子を聞いて、美湖は答える。
「たぶん、熱中症ですね。手を触った時に熱くて、足下が頼りなかったので……。申し訳ないです……、あの時戻ってくればよかった」
「そんな、悠斗のことで先生だって忙しかったでしょう。でも暑いから外に出ないようにしていたのに。どうして」
「最近の熱中症は、室内で起きる室内型熱中症が増えていて四割近くを占めているんですよ。お年寄りは渇きを感じにくいので、喉が渇いた時だけの水分補給では間に合わないこともあるんです」
芳子がショックを受けた顔になる。
「知らなくて……」
お嫁さんとしてお姑さんへの気遣いが足りなかったと悔いているのだろうか。芳子がまた涙目になっている。
「最近、多くなったことで、そのような情報がまだ全国的に行き渡っていないだけですよ。大丈夫。芳子さん、氷枕とか氷嚢を準備できますか。志津さんの身体を冷やします。点滴も持ってきたので、ここで処置します。それで様子を見ましょう」
岡氏が戻ってきて、美湖と一緒に布団を敷いたという部屋に志津を連れて行く。
仏壇がある部屋だった。
「熱中症やって? 先生」
「重度ではないから大丈夫。クーラーがあるなら適度な温度で冷やしていただけますか。奥さんがいま氷を準備しているのでお願いします」
それから、と美湖は志津を寝かせてから、岡氏の側に行き少し離れたところで耳打ちをする。
「芳子さん、動揺しているみたいだから、ご主人から大丈夫と言ってあげてくれますか。あとお母様、志津さんにもお嫁さんのせいではないとさり気ないフォローを……」
「あ、うちな。俺が入り婿な。俺、次男なんでこの家はいったんやわ。親子なのはばあちゃんと芳子な」
え。母娘だった? じゃあ、あの涙は……。娘として母親を案じる涙だったのかと、美湖も我に返る。
「お母ちゃん、お母ちゃん。気付かなくてごめんな、ごめん」
芳子が昔ながらの氷枕から、いまどきの保冷剤からありったけに持ってきた。それを芳子と一緒にタオルに巻いて、志津の脇に挟んだりする。
「志津さん。大丈夫ですからね。お家にいるままでOKですよ。そのかわり、点滴しますね。ちょっとチクッとしますよ」
点滴のスタンドも準備して、点滴針を施す。なんとかバイタルを確認して、ひと段落した。
「点滴が終わるまでいさせていただきますね」
志津の側に付き添っている間に、動揺している奥さんを落ち着かせるよう岡氏に頼んだ。夫妻がそっと部屋を出て行った。
志津のかたわらで美湖もほっとひと息つく。
時々、彼女の様子を気にしながら、しばらく一緒にいた。
「先生……」
力ない呟きが聞こえて、美湖は『はい』と返事をして耳を傾ける。
「先生、おらんかったら。うち、死んでた?」
「救急搬送で港病院に運ばれて処置しても、間に合っていましたよ。でも、おうちのほうが気が楽でしょう」
そんなに重度ではないと伝えて、安心させるつもりだった。
「いつ逝ってもええと思ってたし、もう父ちゃんのところに行こうと一瞬思うてしまった」
そんなこと言わないで――と言いたいが、美湖はそこでは口を出さず傾聴に努める。
「そやけど。娘の涙はなんや、いまでも辛いなあ。芳子があんな泣くなんてなあ」
「そりゃあ、そうですよ。私だって……。もう、ずっと母と離れて暮らしていますけれど、いきなりいなくなったらショックです」
「ちゃんと連絡してるの、先生」
「えーっと。スマホのメッセージ程度ですかね」
「ちゃんと声、聞かせてあげたほうがええよ。先生」
大先輩のおばあちゃんに言われて、美湖はそっと頷くことしかできなかった。
そのスマホから時々着信音が聞こえている。きっと晴紀からのメッセージだろうとそのままに。
「先生、お仕事中だから電話を見んの? かまんから、気にせんと見て」
いやいや。こんな時に晴紀からのメッセージを見てにやけたらいけないと、美湖は『大丈夫です』とカバンの中にあるスマホの通知をオフにしようとした。
そのスマホを手に取ったら、電話の着信音が流れたので美湖はドキリとする。
しかし、着信表示が晴紀ではない。晴紀は仕事中は電話は滅多にしない、できないと言っていたから。
その表示を見て、美湖は思わず出てしまう。
『美湖、久しぶりだな。元気か』
「お、お兄ちゃん……」
長兄の大輔からだった。
志津に笑いかけて、少しだけ廊下に出ますねと伝え、障子を開けて廊下へ。
『なんだ。いまどこかにでかけているのか』
「ご高齢の方が熱中症、その処置を終えたところ」
『そうか。やはり昼夜問わずと言ったところか。ご苦労だな』
上の兄と美湖は七歳ほど離れている。長兄はいつも大人であって美湖もいつまでも敵わない兄貴だった。
「なに、兄ちゃん。電話なんて珍しいね」
『優しい兄ちゃんとして、先に言っておいてあげようと思ってな』
優しい兄ちゃんと切り出してきただけで美湖は眉をひそめる。兄貴がそういうときはろくなことがない知らせばかりだからだ。
『おまえ、顔も見せずに、父さんに連絡もせずにそっちに行っただろ。行ったら行ったで連絡なし。めちゃくちゃ不機嫌なんだからな』
「ちゃんとやっているつもりだけど。ただ、横浜の病院を簡単に出たと怒られるかと思って」
『それもあるけれどな。おまえ、直人君と別れたうえに、なんの相談もなく離島の、しかも瀬戸内に行ってしまって、父さんだって心配しているんだよ』
「えー、そのへんについてはお兄ちゃんにも話したよね。なるべくして別れて私は納得しているって、そう伝えてよ」
『だから! おまえから話を聞かないと父さんも納得してくれないんだよ!』
「もう~、わかったよ。近いうちに私から父さんに連絡するって」
父が不機嫌で、兄二人が仕事がやりにくくなって連絡してきたのだと思った。
『もう、遅い。おまえ、覚悟しておけよ』
ん? 覚悟? そして美湖は兄からとんでもないことを聞く。
『速達で送っておいたからな。見合い写真』
は!? 見合い写真!!
余所様宅の廊下で大声を出したくなったが、なんとか堪える。でも美湖の心はひとり大騒ぎ。岡が障子を開けて様子を見に来てくれたが、彼も『先生、実家から電話?』と気がついてしまう。
兄が最後にひとこと。『俺はもう知らない。自分でなんとかしろ』だった。
・・・◇・◇・◇・・・
「先生、ご実家から速達でなにか届きましたよ」
翌日、診療時間中にそれが届き、愛美から受け取った。
「なんだろうねえ、もう、めんどくさいなあ」
中身をわかっていて、でも素知らぬふりをする。
「ちゃんと今日の内に封を開けてあげてくださいね。ハル兄に言われたんですよ。先生はめんどくさがりやだから、よく見ておいてくれって」
あいつ、余計なことを幼馴染みに頼んだな――と美湖はちょっとむくれた。しかし当たっている。しかし、本当はいますぐ開けたい。抑えて抑えて、午前診療を終了。
愛美が昼休み帰宅、美湖もキッチンへ向かうと清子がいつもどおりに昼食を作ってくれている。
「清子さん、ちょっと部屋に行きますね。すぐに戻ってきまーす」
いつもすぐ席に着く美湖が二階のプライベートルームへと上がっていったので、清子が少し訝しそうだった。
二階の部屋、ドアを閉め、美湖は部屋のデスクの上でさっそく大きな茶封筒の封を切る。いかにもいかにもな写真冊子と釣書が入っていた。
まず写真、そして釣書! それを見て、美湖は額を抱えてうなだれる。
「に、兄ちゃんの……後輩、かな」
釣書の経歴が兄と同じ医大で、兄が最初に勤めていた大学病院、専門も同じ。歳は兄より三つ下、美湖より四つ上。三十代後半、未婚。結婚歴なし。
さらに美湖は唸る。眼鏡をかけた頭が良さそうなスマートな雰囲気の男性は、別れた彼に似ていた。
「兄貴め。似ていれば次も気に入ると思ったのか。違う! もう!」
写真を思わず机に叩きつけてしまう。
すぐにスマートフォンを取りだし、滅多にやりとりをしない長兄、大輔にメッセージアプリで文句を送りつける。
【 届いた。兄ちゃんの後輩? 絶対に絶対に見合いしない。お写真は送り返します。 】
送信してやった。
『美湖先生? 大丈夫ですか』
清子の声がドアの向こう、階段の下から聞こえてきて、美湖はなんとか平静を取り戻そうと、窓の向こうに見える残暑の瀬戸内海を眺めて深呼吸をする。
「絶対に会わない」
意気込んで、昼食へと一階ダイニングに降りた。
「どうかされたの、美湖先生」
「いいえ。大事な書類が来たのでまず確認をしました」
「まあ、そうでしたの」
愛美は実家から届いた封書と知ってしまったが、清子は知らないからそう誤魔化した。
「いただきます。本日もおいしそうですね」
「私もご一緒させていただきますね」
冷たい静岡茶を傍らに、今日もふたり一緒に昼食を取る。
清子と『いま晴紀はどこにいるのかしら。昨夜は高松沖にいたみたい』、『昨夜は瀬戸大橋の画像を送ってきていましたね』、『晴紀が船に乗っていて写真を送ってくるのは久しぶりよ』と、つい晴紀についての会話にばかりなる。晴紀も美湖だけに送らず、母親にもちゃんと送っている。きっと彼女に送って母には届かないなんてことがないように、逆もまた然り。そう思ってどちらの女性も自分を待っている人として気遣っているのが伝わってくる。
そうして清子と楽しい会話をしていると、そばに置いていたスマートフォンが震えた。
また表示が長兄の大輔だった。一度、無視をした。
「あら。先生、取らなくてよろしいの」
「はい。後で折り返しの連絡をします。仕事ではないので」
「では。ご実家? お友達? ちゃんと出てあげてください」
間を置かず、再度スマートフォンが震える。清子の手前、実家からの連絡を無碍にしている姿を知られたくなく、美湖はついに電話に出てしまう。
「はい……」
『美湖、お父さんだ』
うわ、兄貴の電話を使って接触してきた! 業を煮やした父がもだもだしている兄を押し切った強行だと美湖は仰天する。
『見たのか。写真と釣書』
「見た。興味ない」
『兄ちゃんの後輩だから、一度会ってくれないか』
そう来たか。兄の面子を潰すなということらしい。父親の面子など娘は平気で踏みつぶすが、同じ兄妹の立場が弱い兄の面子を潰したらどうなるかわかっているな――という作戦か。
「忙しいから会えない。わかってるくせに」
『土曜日曜、神戸でも広島でも、なんなら松山でもいい。おまえが会いやすいところへ彼から出向いてくれると、そこまで言ってくれているんだぞ』
知るか。こっちは会いたいわけじゃない。しかも『なんなら松山でもいい』とはなんだ。わざわざそこまで行ってやる的な言い方も気にくわない。
『そこまで縛られる仕事でもなかろう。吾妻先生がいるんだろう。日曜ぐらい島から出してもらいなさい。父さんも兄ちゃんも一緒に行く』
ここまでは、美湖も嫌々ながらもなんとかやんわり断ろうと思っていた。だが次に父が言ったことは許せなかった。
『おまえのためなんだぞ。島の診療所なんか大変だろう。いつまでも続けられるものでもないだろう。昨夜も遅い時間に急患がでておまえ一人で対処していたそうではないか。一人体勢なんて無茶にもほどがある。そんなところへ行かされてしまって……。どうだ、彼と一緒に開業してみては。父さんと兄ちゃんも手伝ってやる』
カチンと来た。いろいろなところでカチンと!
「なに。お父さんは私のこと、島の診療所もきちんとやるころができない医者だって言っているの!? それになに。私と結婚したら、兄ちゃんの後輩は開業と独立が出来る条件がついているんだ、私じゃなくて開業目的でしょ! そんな男、信じられない!」
清子がびっくりして固まっているのに気がついて、美湖も『しまった』と思ったが遅い。そして口も止まらない。
「会いたいなら、神戸とか松山とか簡単なこと言っていないで、ちゃーんと船を乗り継いで島まで会いに来いとそいつに言っておいて!!」
通話終了をタップして切断。父の声はもう聞こえない。
「み、美湖先生……」
はあ、やっちゃった、やっちゃった。お父さんに言っちゃった。これはヤバイ。数倍になって返ってくるかも!
しかし末っ子の美湖はいつだってこんなかんじ。父に生意気に歯向かって、そして静かな父の怒りにノックアウトさせられる。今回もきっと。
「お父様だったの? もう一度、お電話したほうがいいわよ。それに……美湖先生、もしかして……ご実家からお見合いのお話が?」
「私は! 望んでいないんです! 私は――!」
ハル君がいるから。好きだから。今は彼と一緒にいたいから。そう言いたい。でも、彼の母親の清子にはまだ正面切って言えない。
美湖が言い淀んでいると、急に……。いつもは柔和でかわいらしい清子の表情がすうっと引き締まった。
「美湖先生、そちらに座っていただけますか」
その顔は、母の顔だった。そして奥様の顔。家を守ってきたお嫁さんの顔。そういう清子が本気になった時の顔。
「はい……」
美湖も大人しく椅子に座った。
「美湖先生。晴紀のことを気にして、あのようにお父様に言い返してしまったのですか」
怖い、清子の顔も怖い。父と同じ、親の顔だった。
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