34.アンダーグラウンド
美湖の違和感は的中する。
「彼女は婚約者だったのは確かなのですけれど……。どちらかというと家のためにこの男性の実家に差し出された女性と言った方がいいです」
なに。いまでもそんなのあるの――と美湖は顔をしかめた。
しかし慶太郎はなにも言わずとも美湖の表情がわかりやすかったのか、少しおかしそうに笑って教えてくれる。
「まあ、有り体に言えば『親同士が決めた政略結婚』です。女性の実家は、男性の実家の下請け企業だったようですね。彼女の実家のほうが援助を受けていて、彼女もそれで大学に通えていた状態。立場が弱かったんです」
「だから。晴紀君に想いを寄せても、自分の気持ちに正直にはなれなかった。そして亡くなった彼もそれが許せなかった。彼女の気持ちが向かないなら、彼女が好きな男の目の前で死んでやる。そしてこの男の責任にして社会的に貶める――ということだったのですか」
美湖から淡々と聞くと、慶太郎がちょっと驚いて、でも美湖の目に真剣に向かってくれたのが伝わってくる。
「気が弱い男ならそれもありかと思いますが、気が強い晴紀と張り合っていた気の強い後輩の男だったのですよ。そんな男が女に振り向いてもらえない、それぐらいのことで命をかけますか? 自ら死ぬには理由が弱い――、そう思ってここまでお父様と来られたのでしょう。ほんとうにそれだけだと思いますか」
慶太郎の表情も険しくなってくる。
「そちらのお父様と美湖さんが感じたように、私と父も早い内から『理由が弱い。ほんとうにそれが自殺理由か』と疑ってきました。容疑がかけられた晴紀を助けるために事件の連絡を受けてすぐに父と動き始めました。しかし『殺人ではない、自殺だ』と確定させるためには調べるのに時間がかかりましてね。証拠のようなものを取り押さえられたのは、皮肉にも、叔母が自殺を図ったからです」
え、どういうこと? 晴紀の潔白を証明する証拠を手に入れられたのは、清子が自殺を図ったから? では清子が自殺をしなかったらなにも手に入らなかったのか。美湖は困惑する。それは父もだった。
「清子さんが自殺をしなければ、押さえられない証拠だったということですか。良くわからないのですけれど」
すると、慶太郎が不精ヒゲで眼鏡をかけた顔のままそっとうつむいた。なにかを言いあぐねて、迷っているように見えた。
だが致しかたなさそうに彼が告げたのは……。
「この女性は婚約者という足枷をはめられた、亡くなった男に執着された……、奴隷でした。つまり、なにをされても文句はいえない状態、人と女性としての尊厳のなにもかもを奪われていました」
さらに。わけがわからなくなったが、訳を知りたいと思わなくなるほどに、衝撃的な言葉が出てきて美湖は絶句した。
「奴隷……?」
借金の肩代わりとか、奴隷とか、酷くアングラなものが飛び出てきて言葉も続かない。それは父もだった。
そんなものが、晴紀のすぐそばでくすぶって、寄り添っていたのかと美湖はゾッとしてしまう。しかもその闇に食われたのか。
「残念ながら、裏の世界ではまだ良くあることですよ。三等航海士の男性の実家は、地元では名の知れた会社で名士のようなものだったので、彼は周りに気遣われてちやほや育てられたようですね。それでも船が好きだったようで船員を目指したようです。なんでも思い通りになるよう育てられた結果、女性もおもちゃのように扱う。彼女はそんな彼のおもちゃで所有物で、ある意味、愛されていたのかもしれない。それでも彼女にとっては虐待。自分の力でなんとか全うになろう、自分の意志で抜け出そうとしたのは、晴紀に思いを寄せてからだったようです。もちろん、晴紀と愛しあえるなど彼女は望んでいません。ただ、自分の尊厳を晴紀を思う気持ちを糧に、せめて自分をこれ以上汚さないようにと行動に出たのです」
行動? その先の彼女の行動がまた衝撃だった。
「すべての証拠を揃え妹に託し、自殺を図りました。死ぬ前、船に乗ろうとしていた三等航海士の彼に連絡しています。いままでの悪事のすべてを警察に持っていく、私は死ぬ。死んでしまえば、どんなに恥ずかしい証拠でももうなんともない。ただ彼らの悪行が明るみに出る。それでなにもかもが終われる。貴方はお終いだ。航海士も続けられないし、私とも結婚できないといって」
もう喫驚することしかできず、そして美湖の呼吸も荒くなりそうだった。さらなる結末を慶太郎が告げる。
「彼女が自殺したその日、同じくして、この男性が船から不明となり遺体となってあがった。おそらく自殺です。悪事が明るみに出ることを恐れ、彼女と道連れだったのかと思います」
その女性は、亡くなった男の好きなままにされた。
それは性的にも拘束され、酷い扱いで複数人の相手をさせられ記録もされていた――と聞かされる。
真実は――。とてつもなく暗く重たく真っ黒な感情だけで出来たもの。その女性がどれだけ虐げられたかを、平静な様子で語る慶太郎のその内容に、美湖は女性をして吐き気を感じた。
「あの、申し訳……ありません……」
「女性には酷でしたね。外の風にあたってこられた方が……」
美湖は首を振った。それよりも気になることがあったから。
「ハル君……、いえ、晴紀君は知っているのですか。このことを」
知っていたら、晴紀はもっと苦しんでいるはず。自分を慕うがために彼女が命をかけたことを。
「いいえ。晴紀には知られたくないという彼女の意志で、私と父のところで話はとめています。清子叔母も知りません」
だが、清子はまだ晴紀が円滑な人間関係を築けなかったから息子にも責任はあると思っている。それでも、この話を聞かせるのはやはり酷、美湖も話したくない衝撃的な内容。父もそう思ってくれたのか、額に滲んだ汗をハンカチで押さえる仕草を見せる。
「その証拠の映像というものを、晴紀には決して知らせない知られないことを条件に買い取りました」
「買い取った? ご家族から……ですか」
「そうですね。正しくは彼女とご家族から、ですね」
「正しくは?」
「彼女は一命を取り留め、生きています。ですが後遺症で意志のある……、植物状態で」
さらなる衝撃に、美湖はもう……。
「美湖、大丈夫か」
気が強い娘がめまいを起こしたので、父が慌ててよろめいた美湖を支えた。
「どうして、彼女は今治の伯父様とお兄様に、この真実を託してくれたのですか。清子さんの自殺がなければ、とか、買い取ったとかどういうことですか」
「彼女がこの事実を託してくれるまで、それは時間かかりましたよ。彼女自身も辱められる証拠です、死にきれなかった以上、誰にも知られたくないでしょう。ご家族もこんなこと世間に知られたくないはずでしたから。表向きは『船乗りの婚約者が亡くなったのを苦に、彼女も後を追った』となっていますしね」
彼女の本来の意志が無視されていて、さらに美湖の腸が煮えくりかえりそうになった。だがこの世を去るからこそ、ぶちまけられる最後の盾でもあったのだ。この世にいるならば、決して知られたくないは美湖にもわかる。
「なにせ彼女は、晴紀には自分が酷い扱いをされ汚されていたことを知られたくなかったのですから、特に、託された妹さんが頑としてこちらに知られまいと強固でした。その間に、なにも知らない男の両親が晴紀が殺したと思って憤慨し、刑事事件にならなかったことを不満に思い民事として、財を持っているだろう清子叔母のところに慰謝料請求に来た。晴紀はまだこの時は会社の処分待ちで陸に待機、地上勤務をしている時でした。叔母が隠された真実を知らずに、晴紀がいつもの正当を貫こうとする気強さで後輩を追いつめたと思いこみ自殺をした。それを、彼女の実家に伝えに行った。ご家族も、妹さんも、隠すことで危うくひとりの人間が死にそうになった。それを知って……。またその時、なにも意志を示す方法を失っていた彼女が涙を流したそうです。それを見て、決意してくださいました」
彼女に虐待をしていた男の両親に、その事実を突きつける。証拠も揃い、そちらのご子息こそ刑事事件で告発される立場。こちらも言われなき慰謝料を請求されたため名誉毀損で訴える準備をする。男の両親がそこで青ざめ、一気に撤退したとのことだった。彼女の名誉を傷つけないことを第一に、警察でそれぞれ刑事にしない。裁判も起こさない、訴えを取り下げる。金銭の要求も取り下げる。息子がひとりの女性を傷つけ尊厳を奪い虐待をし、無責任に船の運航に支障をきたしたこと。海運会社から損害賠償があってもおかしくない。そうなりたくなければ、二度と、どちらの一家にも接触しない。それが示談の内容だったと慶太郎が説明する。
証拠の買い取りにも条件があった。女性の尊厳を貶める証拠のため、晴紀を助けるため以外には利用しないことだった。今治の伯父からの買い取りは証拠の買い取り料と、彼女の介護の援助と保護だった。
エヒメオーナーの一族がバックについたことで、三等航海士の男の両親はすっかりなりをひそめ、二度と接触してこなくなったということだった。
清子が命をかけたことで、晴紀を助ける証拠があがった。そんな皮肉なことあっていいの? 美湖はもう息もできない。酷すぎて、それが、晴紀と繋がっていて。
「ハル君は、彼女のこと……」
「奴隷だったことすら知らないのですから、男ともども自殺したことも知りません。彼女は解放され、幸せに結婚したと伝えています」
だから。晴紀は女性のことにはそれほど心に残していなかったのだとやっとわかった。
「ですが。もう無理でしょうね。晴紀はいま……。彼女の実家に向かっているのですから」
驚いて、美湖はソファーから立ち上がる。
「どういうことですか! そこまで隠したならどうして隠し通されなかったのですか! 彼女の実家に行ってしまったら、これ、全部、全部、知られてしまうではないですか!」
慶太郎の唖然とした不精ヒゲの、大人の顔がそこに。父も目を丸くしていた。
「えっと……、聞いていたとおりでちょっとびっくりかな。いえ、私も不甲斐ないのですが。晴紀が島で母と喧嘩をしてどうしても一緒にいたくないから島を出てきた。船の仕事の日までには戻ってくる。久しぶりに東京の友人に会って気晴らしをしてくるというのを、鵜呑みにしてしまいましてね」
「で、では。お兄様はいつ晴紀君が彼女に会いに行ったことを知られたのですか」
慶太郎がまた申し訳なさそうにうつむいた。
「今朝です。相良さんが会いたいと連絡をくださって胸騒ぎがして、私から晴紀に連絡をしました。そうしましたら、彼女の住所がわかったから、今日は会いに行く――と。彼女は幸せに暮らしているのだからやめなさいと止めましたが、実家なら構わないだろうとそのまま。彼女の実家は武蔵野です、彼女の介護もいまはご家族が。ですので、もう遅いですよ」
今朝! 東京の友人を当たって、彼女の実家をなんとか調べて会いに行く準備をしていたらしい。武蔵野ならもう辿り着いているのでは!?
「清子叔母と喧嘩したなんて、まあよくあることだと思いましたので。こちらからわざわざ連絡もしませんでした。ほんとうに迂闊でした。昨日、お父様から三年前の事件のことを聞きたいとお申し出があった時に胸騒ぎがして、晴紀に連絡をしてわかったことです」
そういうことかーと、美湖もがっくりしてうなだれた。
「……も、申し訳ないです。その、頭に血が上ってしまって」
「こんな娘で申し訳ないです。ほんと、おまえはもう」
父の窘められても、もう美湖も言い返せない。ほんとうに彼の従兄様にこんないつものかわいげのなさを見せてしまって恥ずかしい。
でも慶太郎が笑った。
「いえ……、晴紀が『診療所の女医さんが、気が強くてぜんっぜんかわいくない。けど、面白い』と、久しぶりに楽しそうに話してくれたのですが、あはは、なるほどと思っています」
やっと慶太郎が声を立てて笑った。
そしてひととき笑うと、大人の男の眼差しがそっと伏せられる。
「父と一緒に腹をくくりました。真実を知って帰ってくるだろう晴紀を待って迎え入れます」
その気持ちは美湖もおなじだった。だが、美湖はもうすぐに飛行機に乗ってでも、新幹線に乗ってでも、晴紀を迎えに行きたい。
「どうして晴紀が三年も、陥れられたまま甘んじていたのに、急に真実を知りたいと彼女なら知っているはずと島を出て行ったのか、よくわかりました」
美湖先生。貴女が晴紀と清子叔母をやっと外に出してくれたのだとね――。
「どうぞ、晴紀と清子叔母をよろしくお願い致します」
彼の従兄に託してもらえた。もうその時点で美湖は涙をこぼしていた。
いま晴紀がどうしているのか。なにを思っているのか。それだけは心配で仕方がない。
でも。晴紀は人殺しではなかった!
「父も美湖先生にお会いしたいと言っていたのですが、本日はどうしても造船所に出向かなくてはいけないことがありまして残念がっていました」
「私もお会いしたかったですね。娘がこれからも重見さんにご迷惑をかけるかと思うので、ご挨拶を父親としてしておきたかったです」
「お父様はいつお帰りに?」
「明日、松山空港から帰ります」
父と慶太郎が男の大人同士の話を始めていた。慶太郎の経歴とこれまでの仕事に、そして子供の頃はよく島に遊びに行って清子に可愛がってもらったことや、重見の亡くなったお父さんが船に乗せてくれなければ、一族の仕事には興味を持てなかったかもしれないなどなど。
「外航船となると六ヶ月乗船、四ヶ月の休暇と極端です。事情があって内航船にシフトする船乗りもいます。家族との事情も含めて長期間、家を空けるのは大変なことなのです。その負担を軽減するために、船乗りの派遣会社も経営しています」
そこに晴紀を登録して、彼のいまの生活にあわせた派遣をしているとのことだった。
「いまは、船と船員乗員をオールセットでレンタルしたいと企業側から言われることもありましてね。派遣会社で良い船員がいればうちの貨物に乗ってもらう契約も含め、晴紀には船に乗って良さそうな乗組員がいればチェックしておくようにしてもらっています。将来は、私の右腕になって欲しいと思い、いま人事を一緒にさせています」
やっと晴紀の仕事の実体を掴んだ気がした。父も美湖の隣で納得している。
「どのような船があるのですか」
「あ、待ってくださいね。いま、写真付きのファイルお見せします」
慶太郎もまんざらではない様子で、従兄様も海と船を敬愛していそうだなと美湖もほっとしてきた。
父もすっかりこの世界に惚れ込んでしまったようだった。
「あの、お手洗い。お借りします」
「ああ、この廊下の突き当たりにあります」
美湖はまだ闇ながら熱帯びた男と女の執念にあてられのぼせていた。少し違う空気を吸いたく、席を離れた。
それと同時に。外に出て、美湖は副社長室から少し離れ、ハンドバッグからそっとスマートフォンを取り出す。
「ハル君……。どうして。いま、ひとりで大丈夫なの?」
朝、従兄からの連絡に彼女の実家へ行くと伝えたのなら、もう昼過ぎ。絶対に真実を知ったか、追い返されているかのどちらか。
彼が漁船で島を出て行ってから数日。その間、美湖から連絡しても晴紀は決して電話を取ってもくれないし、メッセージも既読もつかず見てくれない。応えてくれない。そこに、すべてが終わるまで、自分が納得できるまで、美湖とは接触しない晴紀の覚悟を感じていた。
それならば、もう、ハル君もわかったでしょう。美湖は晴紀にダイヤルをする。
お願い、出て!
小さな会社のビル、三階の突き当たりの小窓。そこから秋の風が吹いてきて、美湖の身体の熱を優しく撫でてくれても、晴紀は出ない。
一度、切って。美湖はもう一度かける。
『センセ……』
出た。晴紀の声を、美湖は数日ぶりに聞く。
「ハル君、いま東京?」
『どうして知ってるんだよ』
ハルの声を聞いて、もう力が抜けるぐらい。美湖はその窓辺でとめどもなく涙で頬を濡らして泣いた。
「いま、なにしているの。どうしているの。ひとりで大丈夫。ねえ、お願い。私、清子さんと待っているから。すぐ帰ってきて。どんなハル君でもいいの。父もハル君のこと凄く気に入っているの。本当よ。私もちゃんと父と話したよ」
『先生……。俺、なにも知らなくて……』
「わかってる。だから、そのまま帰ってきて。彼女に会ったの? ご家族に会えたの?」
『なんで? 先生が知ってるんだよ。彼女って誰のこと言っているんだよ。俺がその女に会いに行ったってこと……、まさか……、先生。いまどこにいる?』
涙でくぐもった声で『今治の伯父様の会社だよ』と言おうとしたその時。
美湖の真後ろに人が立っているのに気がついた。白髪の紺のスーツ姿の男性。彼が美湖の泣いている顔を覗き込んでいる。
「おや、もしかして。美湖先生……ですか」
「え」
『……! 先生、まさか』
晴紀も気がついた。そして、その男性がにっこり微笑む。
「晴紀の伯父です」
「う、うん。そう……あの、」
『伯父さんのところかよ!』
そこに晴紀はいないけれど、美湖はこっくり頷くだけになってしまっていた。
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