30.『恋』と『ずっと一緒』は違う

 どこで聞いてきたのか。自分と同じように、島の人の声を聞いてきたのだろうか。

 息切れをしてまでここに戻って来た父に、デスクから立ち上がり美湖は静かに向かう。


「違うよ。ハル君は、人殺しじゃない」

「やはり、おまえは知っていたのか」

 父がハッとした顔になる。受付に控えていた愛美が診察室に入ってきて青い顔で立っていたからだった。

「愛美さんは、ハル君の幼馴染みだから知っているの。大丈夫」

 愛美も気遣って、またそっと受付カウンターへと身を隠してくれた。


「お父さん、どこで聞いてきたの」

 ハンカチで額の汗を拭いながら、父はなんとか呼吸を整えようとしている。

「いや。以前から道すがらの挨拶に、往診の時に出てくる晴紀君や清子さんについての話題に、多少の違和感はあった」


 父がここに来て既に十日。すっかり『お父さん先生』とか『パパ先生』と言われて、美湖よりドクター離島かと言いたいほどに精力的に活動をしていた。

 特に往診はよくやってくれた。そうしているうちに、美湖もそうだったように、重見家の話題になんとなく触れようとしていく島民の顔が不自然なのを感じてしまったのだろう。


「ある時は、清子さんが足を怪我した時の話も出た。二日も後に救助されたと教えてくれた。お父さんも足のことは気にしていたが、清子さんがこれで大丈夫だからと診察意志をみせなかったので今はまだ強く踏む込めなかった」


 美湖はヒヤリとした。父が清子の足を気にしているのは整形外科医として当たり前のことだったが、美湖はそれとなく聞き流して、深く追及してこないうちに帰ってほしいと思っていたところ。何故なら、清子の足の診療記録を見てしまえば、父は風呂場で転倒した程度の症状ではなかったことを一発で見抜くだろう。やがて清子が自殺をしたのではと思い至る不審な点を見つけてしまうはずだった。だから美湖も清子も避けて……。

 しかし島の噂はそうはいかない。清子の怪我を知った父は、そこからさらに『清子さんが辛かったわけ』も聞いてきてしまったのだ。


「前々から、美湖先生が知らないのはどうなのかと、島民の間で問題視されていると教えてもらった。重見の家の事情も知らずに働いていて、いざとなったら傷ついて横浜に帰ってしまう。それとも知らないほうがいいことなのか。このまま黙って美湖先生にいてもらっていいのか、知らないままここにいてもらい診てもらっているのは申し訳ないと思われている方もいた。お父さん先生が来たのなら、一度、お嬢さんときちんと話されたほうがいいと心配されてな……」


 早苗が訪ねてきてくれた時にも既に島民の間で囁かれていたことだった。島民がそうして父に教えてくれたのは、美湖を思ってのことなのか、それとも重見の家をやっかんでのことなのかはわからない。


「なんとなく……。ここで診察を始めてから、父親の私になにか言いたくて言えないような雰囲気を見せる方が何人もいらして。どこへ行ってもなんとも言えない空気を感じた。だから……、おまえがほんとうはどう思われているのか心配で……」


 往診をかってでたら、ついにその噂に出会ったとのことだった。

 そして父が言った。

「もしかして……。清子さんは、高いところから落ちた……とかないか?」

 美湖はドキリとした。診察記録を見ていないのに。清子の日々の姿を見て気が付いた?


「ご主人が亡くなられたばかりの時に、息子の晴紀君が事件を起こして……。苦にしたということはないか? たとえば、どこかから飛び降りて骨折した、生きる気力がないのでそのまま。しかし……」

 初めて年長の男性医師の、そして父親を恐ろしいと美湖は思った。畏怖の念すら湧いてゾクッとした。

 わかってしまうんだ。こうして見通しがつける人はつけてしまうんだ!

「だったら、清子さんの自殺がなにかを苦にしたものなら、晴紀君の罪は事実ということか!」


 美湖もやっと必死に言い返す!


「違う! 晴紀君は巻き込まれただけ、その立場に追いやられただけ。それほどに、亡くなった後輩の船員に恨まれていたの。晴紀君が立ち直れなくなることを願ってその男は晴紀君のすぐ隣で死ぬことを自ら選んだの。自殺なの、事故なの。事件じゃないの!」

「どういうことだ……? 被害者は自殺、だったのか? お父さんだって信じたくない! 晴紀君はよい青年だ、若いがしっかりした……、男らしく優しい青年が……、どうして、そんな」


 それほどに気に入ってくれたのかと嬉しくなったが、そうではないだろう父の顔を見て美湖は泣きたくなった。

 覚悟は決めていた。もしかすると、もう実家には帰れないかもしれない。父に、言おう、信じている気持ちと美湖の本当の気持ちを。


「お父さん。それなら、俺が話します」


 美湖は顔面蒼白になる。それは父もだった。

 いつものラフな島男の姿をしているハルが診察室のドアが開いているそこにいた。

 西日が差す待合室、薄暗くなるそこに静かに立っている。

 いつからそこにいた? 母親が自殺だったかもしれないこと、聞かれてしまった?


「は、晴紀……君」

 さすがの父も本人がそこにいて愕然としていた。

「俺自身が話します。相良先生が聞きたいこと、きちんとお答えしますから」

 あちらで話しましょう。まったく慌てていない晴紀がダイニングへと父を促した。父も黒い前髪をかき上げ、息を吐いて落ち着こうとしている。

「ハル君……」

「お父さんと二人きりにして。大丈夫だから」

 白衣姿のままの父と、島男姿の晴紀が、男同士ふたりきりでダイニングに消えた。


 美湖も脱力するようにして、診察デスクの椅子にぐったり座り込む。

 父娘の言い合いに、見えないところで控えてくれていた愛美も診察室に出てきた。

「美湖先生……、ハルのこと、お父さんに反対されるんじゃ……」

「覚悟している。父に反対されても、私はここにいるし……」

 声にしてはっきり言う。

「晴紀と一緒にいるの、私は。この島で、彼のお母さんと一緒に」

「美湖先生……」

 美湖ではない、愛美が泣き出してしまった。


「先生、そんなになっているって私、知らなくて。一時期でもいい。ハルが少し立ち直るきっかけになればいいねと、兄と夫と話していたんです。それでもいつか先生は、島を出て行くだろう……。その時はまたハルのことどうするかと話していたのに。そんな、先生……、ずっと島にいると言ってくれるだなんて思ってなくて……」


 そう泣いてくれる彼女に美湖は微笑む。

「きっと。蜜柑の花だね」

 え? 愛美の涙が少し止まる。

「いま思えば、港に降りてその時すぐ。あの香り。その後の島の色。なにもかも、一発で惚れ込んじゃったのよ。そこで出会った男の子がね、また、心地いいの」


 心を持っていかれた。たったそれだけの短い間に。島にも彼にも恋をした。いまはもうすぐには手放せないもの。


 父と晴紀はどんな話をしているのだろう。美湖が間に入れないそこで。

 美湖の頬にも涙が伝う。目の前には、オレンジ色に染まる水平線と、真っ青な秋の海に船の影が濃く映っている。


 


・・・◇・◇・◇・・・


 


 思った以上に話が長い。その間に、愛美と一緒に診療所をクローズした。

 心配する愛美を宥めて帰宅させ、美湖はひとり診察室で待っていた。

 海のなにもかもが黄金色に染まった日暮れ。


「センセ、お父さんが呼んでいるよ」

 やっと晴紀が現れた。当然だが、疲れた顔をしている。

「ハル君、大丈夫だった?」

「俺が話せることはきちんと話した。でも、きっと、お父さんは納得していないと思う」

 それで? 父はどうしたの? 聞くのが怖くて美湖はハルを見つめることしかできない。

「後は娘と話すと言っている。美湖サン、行ってあげて」

「ハル君、私……」

 離れたくない。父と引き離されても。そう言おうとしたのに。いつものかわいくない性分が照れを感じさせてすぐに言えなかった。


「センセ、俺は大丈夫だよ。先生がこの島を出て行っても……」

 愕然とした。

「ハル君は、それでも……いいの?」

「嫌に決まってんだろ。先生を離したくない。でも、母と話していた。ご家族と美湖先生が絶縁することになるぐらいなら、諦めようとね……」

 清子とちゃんと話し合っていた。それがわかり美湖はさらに驚く。

 なにもなかったふりをして、重見親子はきちんと話し合っていた。清子は息子の恋を受け入れ、息子は母の苦悩を思い、そして恋した女性の生きる道を思う。自分だけが良ければいいのではない。恋はそこだけで熱く甘くほおばれるけれど、『これからずっと一緒』というのは自分ひとりだけの甘さでは駄目なのだ。そういう話し合いをしている。


 それならば。次は美湖と父の番ではないのか。

 ここで絶対離れたくないと二人で確かめ合うものではなかった。

 美湖は力なく診察室を出て行こうとする。それを晴紀が見送ってくれる。


 ダイニングへ向かう美湖の背に、晴紀の声が届く。

「センセ、美湖先生。俺は、いつだって愛しく思ってるよ」

 俺のいちばんの最高の恋だった。かわいくない先生の顔ばかりが浮かぶんだ。

 そう聞こえて、振り向くと、晴紀が泣いている顔がそこにあった。

「ハル君……、」

 もう駆けていって抱きついて、誰がなんと言ってもここにいると叫びたかった。いままで晴紀が私を抱きしめてくれたから、今度は私が抱きしめて離さない。

 でもその前に晴紀が言う。

「俺と話すのはお父さんと話してからだ、センセ」

 そういって晴紀がそのまま診療所の玄関へ向かい出て行ったしまった。


「やだ、ハル君……。なんで……」

 まるで別れるかのような言葉だった。これが最後、俺には精一杯、伝えられること。そう聞こえた。

『美湖、来たのか』

 父の声が聞こえた。涙を拭いて、美湖はダイニングへ入る。

 テーブルに、やはりこちらも疲れた様子の父がうなだれていた。


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