28.俺も負けてないんで

 それはもう重見家の母子も驚いて、診療所ハウスにやってきた。


 ダイニングで父を休ませているそこで、清子と緊張した様子のハルが一緒に現れる。

 まだ白衣のままでいる美湖から『この土地と家の大家さん。暮らしやすくなるようお世話をしてくれている』と紹介した。


 スーツ姿の父親がじっと、目の前で並んでいる清子と晴紀を見据えている。

 美湖はドキドキしている。静かな父だけれど威厳オーラはばっちりで兄貴たちでさえ震え上がるのだから。


「娘がお世話になっております。美湖の父、相良 博(ひろし)です。御殿場で息子二人と医院をしております」

 父が厳かに一礼をしたので、重見親子が慌てる。特に清子が。

「お世話なんて、とんでもないことでございます。横浜の大学病院でしっかりお勤めされていらっしゃった美湖先生に、是非にと島まで来てくださるようお願いしたのは私ども島民です。こちらは中央になる東の港側から島の頂を挟んで裏側の地区、そばに診療所が出来て、美湖先生が常に気を配ってくださるので助かっているのです。お嬢様がこのような遠い土地へ赴任されて親御様のご心配、同じ親として当然のことだと思っておりますから、せめてお世話だけでも……」

 清子の上品な話し方のせいか、父の表情が少し和らいだように美湖には思えた。父の目線が、いつものラフな島男スタイルのままの晴紀へと向いた。


 だが、晴紀も緊張はしているようだったが堂々としていた。

「息子の重見晴紀です。この診療所を管理しております」

 父の片眉がぴくりと動いた。

「管理、ですか。ここは町役場などで管理されている場所ではないのですか」

「広瀬教授からの依頼でしたので、あちらの大学病院と役場が提携していますが『当家』が土地家屋を貸している形になっています。名義は自分になっております。相良……、いえ美湖先生には診療に集中していただきたいので、自分と母が家周りと土地のこと、島に住むことで先生が不慣れなことはフォローさせていただいております」

「息子さんの名義……ですか」

 父が綺麗にリフォームされているイマドキ設計のダイニングを眺めた。


「晴紀さん、お仕事は」

 率直に父が尋ねるので、美湖は慌てる。

「お父さん。失礼でしょ」

「どこがだね? 聞かれると失礼だと美湖が思っているようなご職業なのかな」

 さすがの美湖もぐっと黙らされてしまう。しかも父も嫌味な聞き方でもまったく悪びれない様子で、こちらも堂々と晴紀を睨んだではないか。


 それでも晴紀は怯んでいない。もしかするといろいろと気にして、上手く父と接することができないのではと案じたが杞憂だったのか……。

「内航船の貨物にたまに派遣で乗っています。あとは父が亡くなった後、実家の管理と、島にいる間は漁協で漁のアルバイトもしています」

「そうですか」

 父はそれだけ聞いて、特に感情を露わにしなかった。仕事はしているが、フリーターのような働き方をしている晴紀を、頭の堅い父親がどう思うか美湖は不安になる。


 だが、父は重見親子を一時、じっとまた黙って見つめている。あちらの母子もじっと堪えているが、動揺は決してみせない毅然としたものだった。

「大変失礼いたしました。しっかりされている大家さんがお側にいてくださって安心いたしました」

 思わぬ父の反応に、美湖は唖然とした。しかも父が清子を見て、さらに頭を下げた。


「娘は気が強くて生意気で口が悪い、ご迷惑をおかけしておりませんか」

 いつもならここで『お父さん、変なこと言わないで』と怒りたいところだが、美湖はつい顔を背けてしまう。ふと気がつくと、目の前にいる晴紀もそして清子までうつむいて笑いを堪えているではないか。


「やはり、そうでしたか。きっと初対面でも失礼なことを言って正論ぶって、皆様に厭な思いをさせていないか。それが心配で……」

「まあ、お父様ったら。やはりお父様ですわね」

 ついに清子が上品にくすくすと笑い出してしまう。晴紀も口元を手で押さえながら、正面にいる美湖を見てニヤニヤしている余裕がある。


 父は娘がやっぱりいつもの気の強さで島民の皆様を困らせたと思いこんでしまったようだった。


「美湖。おまえ、大学病院もその生意気さで追い出されたんじゃないのか!」

「いくら生意気だからって、他人様に迷惑をかけない要領ぐらい得ているんだけれど! 生意気だから追い出されたんじゃないから、吾妻先生を信じてきたの! 吾妻先生に誘われた話でなければ断ってるし!」

「ほら。その口のきき方。いつもその調子で重見さんにご迷惑かけていないだろうなっ」


「あらやだ。もう、ごめんなさい。おかしくて我慢ができないわ。うふふ!」

 清子がおほほと笑い出してしまった。今度は父が唖然としている。


「お父様、相良先生。実はですね、私も、初めて美湖先生にお会いした時に『うちの息子は気が強くて口が悪くて生意気でしょう』と心配してお聞きしているのです」

「え……」

 清子の話を聞いて、父が晴紀を見た。

「自分も、負けてないんで……。美湖先生とはいつもやりあってます」

 晴紀もぺこっと頭を下げて、父の手前なのでまだ笑みは押さえているが、美湖と目が合うとやっぱりニヤニヤ。

「あ、なるほど……。さようでしたか……。いや、その……美湖と対等にはなかなか」

「もう、失礼だな。お父さんは。大学病院なんか、私みたいなのごろごろいるのに」


 ついに晴紀と清子が揃って笑い出した。


「もう、お父様。お聞きくださいよ。うちの気の強い息子が、美湖先生にガツンとやられて退散して家に帰ってきた時の顔、見せたかったわ」

「母ちゃん!」


 今度は息子の晴紀が、美湖とおなじように子供としてむくれた。


「なんと。息子さんがそんな思いをするようなことを、うちの娘が。まったく本当に女らしさというか、奥ゆかしさがなく、晴紀君の男のプライドを傷つけてしまったりしているのでは」

「奥ゆかしさがなく……、男のプライド傷つけて、ですか。日常茶飯事です」

 晴紀がにやっとしながら、臆することなく父にそう返したので、美湖は驚く。

「ちょっとハル君!」

 ついいつもの調子で、父のそばで彼を呼んでしまい、美湖はまたはっと我に返る。


「やはり思った通りだった。瀬戸内に赴任するにあたり、実家に顔を見せに来ていたとしても、そこのところはしっかり釘を刺した上でと思っておりました。今回も、せめてそこのところはと思いまして……」

 そう案じる父に向かって、晴紀から静かな眼差しで伝えてくれる。

「美湖先生は思いやりもあって、その人にあわせて考えてくれるドクターです。さっぱりとしている気質はつきあいやすいと既にここの住民に慕われていますから、大丈夫ですよ。相良先生」


 お父さんではなく、父のことは『先生』と晴紀が呼んだ。そこで父がやっとほっとしたようにネクタイを緩めた。


「安心いたしました」

 だが清子は晴紀のような穏やかな表情ではなかった。

「ですけれど、年頃のお嬢様がこのような田舎の島にお仕事で行くことになって、お父様はこれからのことも含めてご心配ですよね」

「はあ……。出来ましたら、女性らしく結婚をして出産をと父親として思っております」


 それを聞いただけで、美湖はくさくさしてきた。もう父の隣で大人しく座っているのが嫌になってくる。


「なんで女だけ結婚して出産してを強いられるのよ。女は医者を続けたらいけないってこと。すっごく古くさくてイヤ」

 足を組んで腕を組んで父の隣でふんぞりかえってしまう。それだけで、晴紀と清子が『美湖先生、なんてこというの』と狼狽えたのが見えたが、もうおかまいなし。


 そして父も当然、またいつもの険しさで憤慨。


「古くさくて結構! しかし子供を産むには年齢制限がある。おまえも医師ならわかるだろう!」

「女だから一度は産んでおけってこと? 女性はそれだけのために生きているっていうの。すごい性差別なんだけれど!」

「性差別ではない! 年頃である女性が出来る選択肢について軽く考えず、もっと真剣に向き合えと言っているのだ。とくに美湖、おまえの場合はだ。そうやってかわいげのない口ぶりばかり振りまいて、男性に倦厭され、おまえからチャンスを潰しているのではないのか」

「はあ? チャンスってなに。別にこっちからチャンス作る必要ないし、私の口ぐらいで尻尾巻いて逃げる男はこっちからお断り!」

「そうやって、小澤君のプライドを傷つけて、あんなふうに帰らせたのかおまえは!!」

「違う! 小澤先生は島の医療の厳しさを目の当たりにして、冷静になれなかったご自分を責めて、今回は遠慮してくれたの!!」

「だったら。おまえからもう一度歩み寄ってやれ! 小澤君はおまえを気に入っているし、たったそれだけのことではないか。男だって女から歩み寄ってほしいときがあるのだからな。そういう女らしさに気がつけと言っている」

「もう、やだ! 心配するふりして、結局、お見合い話にまだ未練があってわざわざ島に来たのが本心なんだ!? 小澤先生が自分で決めて帰っていったのに。ここで小澤先生が味わった気持ちを、お父さんの堅いかったーーいジジイ思考で蒸し返さないであげてよ!! 小澤先生もいい迷惑だよ、きっと」

「ジジイ思考だとぉ!」

「実際、おじいちゃんじゃないの! 特に頭の中、ひと昔の男の思考!!」


 二人一緒に椅子を立ち上がり、真っ向から向きあう。父の手が美湖の白衣の衿を掴んだ。父の大きな手がぐっと美湖の衿を持ち上げる。それはまるで娘ではなく、息子に対するかのような気迫。


「やめてください」

 そんな父娘の間に、そっと割って入ってくれたのは、年若い晴紀だった。

 ハルの手が父の手を押さえ、美湖が男のように扱われないよう抑えてくれた。

「美湖先生も、いつもの調子で歯止めが効かなくなるまで言わない。ちょっと冷静になって、センセ」

 さらに、若い彼が落ち着いた口調でそう言ってくれて、美湖もやっと熱くなっていた気持ちをなんとか抑え込む。それは目の前の父もだった。


「申し訳ない。みっともないところを」

 父もなんとか深呼吸をして、その手を美湖から離してくれる。

「はあ、まったく。ほんとに、美湖センセたら、お父さんにまでそんな容赦ないだなんて……、びっくりだよ、マジで」

 呆れた深い溜め息を晴紀が吐いた。そんな晴紀のいつもの気取らない言葉を聞いて、逆に父のほうが先に気持ちが鎮まったよう。


「まさか、晴紀君もこんなふうに美湖にズケズケ言われたのかね」

「いえ、俺もズケズケ言い返しますから問題ありません」

 真顔で返した晴紀の返答に、父が面食らった。


「それは、まったく……。アハハ」

 父が笑い出したので、逆に美湖はきょとんとしてしまう。

「実はそうなのですよ。お父様。晴紀も先生に遠慮なく物言いをするので、私も怒ったことがありますの。ですが、まあ、すごい親子喧嘩を見てしまいましたわ。もう美湖先生たら本当にお強いわね」

 清子に上品に笑われてしまうと、美湖も弱い。かえって自分の気の強さが気恥ずかしくなってくる。それも父に取っては『おお、これは』と思わぬ娘の弱点を知ることが出来て、にんまりと余裕の顔に戻っていく。


「ですが、お父様。美湖先生ぐらいの気構えをお持ちでないと、ここでのお医者様のお仕事は務まらないと、わたくしども島民は思っております。美湖先生が女性ながらもしっかりとしたお気持ちでここに来てくださったので、私たちは安心しているのです」

 そんな清子が立って、父に頭を下げてくれる。

「大事なお嬢様でしょうが、立派なお医者様としてお育てくださり、私どもの島まで来てくださるようにしてくださって、ご家族にも感謝しております」

 田舎の島に住まうひとりの奥様のはずの清子が、本当に清楚で悠然としているその様は、いいところの奥様そのもの。そのオーラは父にも伝わったようだった。


「いいえ……。医師としてお役に立てているのならば、安心いたしました」

 父もきちんと清子のお辞儀に答え、返礼してくれた。


「あら、お父様。本日はこちらにお泊まりでしょう。まさかお宿を取られました?」

「い、いえ。娘のところで世話になるつもりで参りました」

「晴紀。お父様がお休みになるお部屋をつくってあげて」

「わかった。夕食はどうする。いまならスーパー閉まるまでギリギリだから、俺、なにか見繕ってこようか」

「そうね。カワハギがあったらそうして、太刀魚でもいいかしらね」

 晴紀はさっとでかけてしまった。

「美湖先生、あとでキッチンをお借りしますね」

「あの、そんな父が来ただけのことですし」

「あら。美湖先生、今日も生協が届く前で冷蔵庫が寂しくなっていましたよ。お一人分の気ままなお夕食ならともかく、せっかくお父様が瀬戸内の島まで来てくださったのですから、ここは島の住民である私と晴紀にお任せください」

 それでは――と、清子もにっこり出て行ってしまった。


 言い争っていた父親と二人きりになる。

 二人きりになると不思議と、お互いの勢いも冷めていて今度は向きあって座っていた。

「言い過ぎました。お父さん、ごめんなさい」

 美湖から素直に謝ったので、父が目を瞠っている。

「なんだ、少しは大人になったのか」

 晴紀と清子がなんでもない顔で美湖と父親のどうしようもない言い合いを受け流してくれたせいもあるし、二人がこれまたなんでもない顔で父にご馳走するために動き始めてしまったから。ここで意地を張った喧嘩を続けたら、重見母子をがっかりさせる気がしたからだった。


 それは父にも、あの重見母子の『空気』は感じ取れたようだった。

「しっかりされた奥様と、きちんと育てられた長男――といった感じだったな」

 美湖が作っていた冷茶を父がやっとひとくち飲んだ。

「ん? もしかしてうちが送った茶か」

「今年のね。作っておくと、飲んでくれた島の人はすごくおいしいって言ってくれるから」

「そうか」

 茶畑に囲まれて育った父が嬉しそうに微笑んだ。


「晴紀君が名義の大家と言うことだが、あちらのお父さんは他界されているということか」

「うん。長男の晴紀君がだいたい相続して、若いけれどあの家のご当主みたい。お母さんも幾分か所有しているみたいだけれど、息子にほぼ任せたと言っている」

「大きな家だな。しかも立派な造りだ」

「そこのあたりはまだ詳しく聞いていないけれど。たぶん、この島で代々続いてきたご一家だと思う。重見さんだけじゃなくて、この島はそういう受け継がれてきた財を守って暮らしている人が多いよ」


 父だからこそ、見る目が養われているのか意外とすんなりと『そうか』と静かだった。


「小澤君から聞いていたが、確かに綺麗にリフォームされているな。診察室も見せてもらっていいか」

 まず娘が働いている場所を確認したいらしい。美湖もやっと素直になって、リビングと診察室を案内する。

 外観は古いが綺麗にリフォームされた一軒家と、庭の彩り、そして個人医院並に機器が揃っている診察室と、整った待合室を見て父も安心したようだった。


 



 その夜、清子が診療所のキッチンで瀬戸内のお母さんの味をこしらえてくれた。晴紀も母親の隣で調理を手伝って。

 父には地酒を探してきて振る舞ってくれる。そんなてきぱきと働いている重見親子を見た父はとても感心してくれていた。


 美湖が手伝おうとするとキッチンから『美湖先生はお父様のところにいらして』、『センセ、邪魔。どうせ足手まとい』と追い出されてしまう。

 リビングの海が見える縁側に、清子が作ってくれた大根おろしとシラスの和え物を肴に、父に地酒の酌をする。


「なにもできない娘の酌なんて美味くない」

「申し訳ないですねえ」

 でも、二人一緒に日が沈んだ瀬戸内を庭から眺める。九月の月は大きく明るく、いつも以上に瀬戸内の海を金糸雀色カナリアいろに染める。

 今夜も遠く水平線まで、何隻もの貨物船に漁船、フェリーが往き来している。


「船、多いな」

「この海域は、村上水軍が活躍した海域だからね。いまも、海運の要だよ。この島の人たちは、そういう歴史を重んじてこの島で血脈を受け継いできているの。ハル君も、ナースの愛美さんの婚家も、彼女のご実家も彼女のお兄様が若いけれど不動産を引き継いで管理しているんですって」


 都会とは違う血脈の守り方と地域と暮らし方、親と子が繋ぐもの。都会のものさしはここでは意味はない。父もそう感じてくれているのだろうか。

 久しぶりに会った父は、歳は取っていたが、美湖がよく知っている『パパ』の顔。


「こちら、先に焼けたのでどうぞ」

 晴紀が焼き魚を持ってきてくれた。リビングのテーブルに少しずつ料理が増えてくる。

「これは?」

「太刀魚です。このあたりでよく獲れるんですよ。俺も今朝、船でだいぶ獲りました。シンプルに塩焼きです」

「わー、おいしそう。このお魚はまだ食べていないな、私」

「センセも先に食べていて。俺と母ちゃんもあとでおじゃまするから」

「では、お先にいただきまーす」


 遠慮なく若い男の子の世話になっている娘を見て、父が顔をしかめた。


「まったく。おまえ、晴紀君を見習えっ。ちゃんとお母さんのお手伝いをして、料理までできて。おまえはもうただ食べるだけとは情けない」

「でも。ハル君のほうが料理上手なんだもの。船乗りでなんでもできるんだもの」

 また父が呆れている。晴紀はまた父と娘がバトルを開始するのではとハラハラしている目、それを見たら美湖も勢いを宥める。

「お父さん、相良先生。そのぶん、美湖先生は立派なドクターですよ。それは、俺にも母にも誰にもできることではないのですから。医師としてここに来てくださることを望んだのは俺たちです。美湖先生が住みやすいようにさせていただいているだけです。いまは……、美湖先生には医療としての仕事に集中していただきたいです」


 そのためなら、ほかの暮らしについては母と自分がフォローすると晴紀は父に言ってくれた。


「ありがとう、晴紀君。では、せっかくですから温かいうちにいただこうかね」

 父と一緒に旬の魚を頬ばると、ほっこりとした柔らかい白身に銀色の塩みのきいた皮の香ばしさに頬が落ちそうになる。


「うまい。これは酒がすすみますな」

 父が上機嫌になった。美湖も一緒にご馳走になる。

 清子の手料理が揃って、今夜は相良父娘と重見母子で賑やかな団欒になった。


 しかし父がこの家に寝泊まりするということは、ハルともゆっくり二人きりで過ごすこともできなくなるんだ……と、美湖は気がつき、げんなりしてしまう。 

 いつまでいるつもりなのやら。出来れば『人殺し』なんて噂は聞かないで帰ってほしい。

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