先生には、ナイショ⑤
わからなくもない。美湖のような女がそばにいたら、そりゃ医師同士なら声をかけてみたくなるだろう。
『晴紀、どうするのよ。美湖さんが誘われている』と、母もあたふたしている。
だが美湖は落ち着いていて、いつもの平坦な顔のまま。掴まれた医師の手をそっと優しく自分の腕から外し、その医師に一礼をした。
「鍋島先生、ありがとうございます。あの、私……、一人ではありません」
今度は鍋島医師が『え』という顔になる。
「いえ、ですが……。今年の春に島に来たばかりで、その、横浜の大学病院でも、その、お付き合いされていた男性とは、その……」
「ああ、やっぱり。こちらの大学でも噂になりましたか。そうですね、長くつきあっていた男性は他の女性と結婚することになって、確かに私は独り身になって島に来ました」
だから美湖がすっかり独り身だと思いこんでいたようだった。
「もうすぐ結婚するんです」
さらに鍋島医師がぎょっとした顔になる。
「け、結婚? いつの間に……! お、お見合いをされたとか?」
「ええ、まあ。そうですね。心配した父が確かに見合い写真を送ってきましたが、」
「お見合いの男性でいいんですか!」
美湖がなにかを言おうとしても遮る、鍋島医師の必死さが出ていた。目の前の美湖はシックで女らしいスーツ姿だから、余計に美しく見える。
そんな綺麗な彼女に男が必死になっても仕方がないのは男の晴紀には良くわかる。だが、彼は本当の美湖を知らない。その先生はな、綺麗な顔をしてかわいくないんだよ。口が悪くてさ、気が強くてさ……、手に負えないんだよ。
そんな晴紀の思いを、美湖も口にした。
「鍋島先生、私、すごーく口が悪いんですよ。気が強くて生意気で、父の保証付き。疲れますよ?」
「そんなところも私はまだ知らないからこそ」
「夫になる彼は、私とおなじぐらいに気が強くて口が悪いんです。目つきも悪い」
晴紀のそばで息をひそめていた母が『うふふ』と必死に笑い声を抑え肩を揺らしている。
「そんな彼に遠慮ない自分をぶつけられるのが、すごく楽なんです。それに。お見合いではありません。彼がいるから父からの見合いは断りました。彼とはこちらに赴任してから出会いました。診療所をとても助けてくれる男性なんです」
鍋島医師ががっくり肩を落とした。
「そうでしたか。遅かったんですね。もう少し早く、相良先生とお話をしたかった」
「話していたら、きっと幻滅していましたよ」
「ですが。医師としての話はまた是非してみたいですね」
「それはもちろん。私も鍋島先生のオペのお話は聞いてみたいです。あ、でも、本当に今回は……、その、先ほどは個人的なことなので言えなかったのですが、本当は、彼と彼のお母さんと約束をしているんです」
美湖がごめんなさいとまた鍋島に頭を下げている。
「その男性は島の方ですか」
「はい。島の男性です。大きなコンテナ船で海運を担う船乗りでかっこいいんですよ」
「船乗りでしたか。それはまた私たちとは違う使命を持つ世界の人ですね」
「そうなんです。人の仕事にはそれぞれ使命があります。彼と島の人々がそれを私に教えてくれました。どんな仕事も人々の生活につながっている。尊いものだと」
あの美湖が先輩医師の目の前で、嬉しそうに微笑んだ。
それは母も同じく。晴紀のそばで嬉しそうににっこりしている。
「ちょっと晴紀。かっこいいて言われているわよ。良かったわね」
「うるさいな」
自分よりずっと大人の、しかも同業の医師に、船乗りの自分をあんなふうに誇らしげに言ってくれたこと。晴紀もとても嬉しかった。
だが、そんな年上の仕事ができる男たちに囲まれる美湖を気にしているだなんて、年下男のナイショ。
聞かなかったこと覗かなかったことにして、母と一緒に急いで夜間受付の待合いソファーへと戻った。それも先生には絶対にナイショ。
先に鍋島医師が一人で颯爽と出て行った。その後に美湖がゆっくりと出てくる。
「美湖先生!」
晴紀じゃない。母が美湖へと駆けていく。
「清子さん! 待たせてごめんなさい。今日はハル君とおでかけ? 市街に出てくるの珍しいですね」
「英会話教室の体験をしてきたの。そのついでに、一緒にご飯にしようって晴紀とお迎えに来たの」
「ほんとうに。嬉しい! て、清子さん、英会話の教室に行っていたんですか!?」
美湖も母の行動に目を瞠っていた。
「美湖センセ、おかえり。待っていたよ」
「うん、ただいま。ありがとう、ハル君、迎えに来てくれて」
大人の医師に誘われても困った顔をしていた美湖が、晴紀の迎えにはかわいらしく微笑んでくれる。
「さあ、行きましょう。お母さんね、ふぐ鍋の予約しておいたの」
ふぐ鍋……。さすがに美湖が少し当惑した顔をみせていた。先ほど誘われたばかりのふぐ鍋。晴紀も顔をしかめる。『母ちゃん、本当に予約していたのかよ? あの大人の医者と張り合ってんじゃないのかよ』なんて。
「えーと。なに。瀬戸内に住む人たちにとっては、ふぐ鍋て冬はスタンダードなの? 関東に住んでいるとめちゃくちゃ贅沢品てイメージだけれど」
誘ってきた男もふぐ鍋といい、婚約者の母親も食べにいくならふぐ鍋と言ったせいか、なにも知らない美湖はそう思ったようだった。
「まあ、東に住んでいるよりかは身近だよな。忘年会で出てくることもあるけど、俺は母ちゃんがお財布じゃないと食おうとは思わないかな」
「ふぐ刺しに、唐揚げ、ちり鍋に、雑炊。ひれ酒なども出てくるフルコースなのよ。美湖さん初めてでしょう。さあ、行きましょう、行きましょう。今日はお城山のホテルも取ったからね。ぜーんぶお母さんのおごり。ゆっくり楽しみましょう」
えー、すごい!! と美湖がまた驚いている。
駐車場に一緒に向かう時、晴紀と並んだ美湖が先に歩く母と少し離れた時にふっと呟いた。
「えーっと、清子さんてもしかして、すっごく、すごく……、船主のお嬢様で奥様なんだよね? そういう感覚なのかな。甘えちゃっていいのかな」
贅沢なふぐ鍋フルコースも、ここらでは上級ホテル宿泊も出費してくれると知って、美湖が戸惑っている。
「美湖さんだって、博お父さんの財布を見て、結局、娘としてブーツ代お小遣いでもらっちゃったんだろ。そういう感覚でいいんだって。気にするなよ」
「あれは、冗談だったのにお父さんが本当にくれちゃったから……。断ったのに……」
「いいんだよ。博お父さんは、結婚祝いを口実にして娘にプレゼントしたんだろ。それだけで嬉しそうだったじゃないか。うちの母も同じだよ。楽しそうで嬉しそうだろ。せっかく外に出られるようになったし、積極的になったし。息子とさ、お気に入りのお嫁さんと食事が出来るだけでめちゃくちゃ嬉しいんだよ」
「そうなの? でも、ハル君のおうちはたまにとんでもなくお金持ち感覚だからねー」
「いや、そこは、まあ慣れてくれよ。住んでいる家だって古いし、俺も母もだからって贅沢品を揃えているわけじゃないだろ」
「そうじゃなくて。クルーザーとかHUMMER(ハマー)とか、漁船も持っているし、実家のハル君のお部屋だって診療所みたいにいまふうのフローリングにオシャレにリフォームされていたじゃない」
「HUMMER(ハマー)は海運会社勤めの時に自分で買ったものだし、クルーザーは親父が新しく買い直したばかりのものだっただけだし、漁船は父ちゃんの日常の生業で生き甲斐だったから残しているだけだよ。家だって古いから直しながら暮らしているだけ」
「でも、出さなくちゃ行けない時、どーんと出せる力、すごいよね。診療所への出資もほとんどが重見のおうちから出してくれたと聞いているもの」
「地域に貢献しているだけだよ。成夫だって今度は薬局の出資してくれるらしいし、AEDも置いてくれる家を決めて、なにかあった時はその家から持ち出せるようにすること話し合い始めているだろ。あれ全部、成夫が仕切って出資してくれるからさ。島民は暮らしに不便なことが多々あるから、代々築いてくれた財産がある者が貢献していくべき。そう父親たちに教わっているから」
「それを受け継いでいくご当主たち、若いのにハル君も成夫君もしっかりしているもんね。そうなんだ。お父さん達にそう教わってきたんだ。納得した」
遠く光り始めた星を美湖がふと見上げた。
「ハル君のお父さんにも会いたかったな。重見のおうちの仏壇にある写真を見たけれど、かっこいいお父さんだったもんね。清子さんが一筋だったのわかっちゃうな」
「俺も会わせたかったよ」
そして晴紀は最近思っていることを、胸の中だけで呟いてしまう。
父ちゃん。もしかして、父ちゃんが、美湖先生を俺と母ちゃんのところに連れてきてくれた? 父が亡くなった後に起きたどん底の日々。その後に晴紀と母を動かしてくれた女医センセ。そう思いたくなる。
・・・◇・◇・◇・・・
城下町の夜は煌びやかになる。
天守閣がライトアップされている城山にお堀、その周辺をガタンゴトンとゆったりと往く路面電車。そのすぐ横をタクシーが行き交う。
その賑わいの中、城山が見えるホテルで彼女とゆっくりすごす。
「うーん、いいのかな。清子さんがシングルで、私たちがツインで一緒の部屋って……。まだ結婚していないのに」
姑がそばにいるのにおおっぴらに息子と一緒に夜を過ごしていいのかと美湖が困っている。
「母ちゃんがそう部屋を予約していたんだから気にしなくていいだろ。それ言ったら、実家の向かいにある診療所で毎晩一緒に過ごして、ちょいちょいセックスしているじゃないかよ。それとこれとどう違うんだよ」
晴紀があからさまに言うと、珍しく美湖が顔を真っ赤にして仰天している。
「そんなはっきり言わないでよ!」
「センセだって、俺には奥ゆかしさゼロで生理用品とか検尿するからおしっこ取ってこいとか露骨な言い方するくせに。朝とかも俺の尻を見せろってパンツを下げたりするだろ」
「それとそれは違うの!! 清子さんに対して言ってるの!!」
ああ、なるほど? 年下男で扱いやすい俺はどんな言いぐさも構わないが、姑になる母には気遣っているんだと晴紀もやっとわかった。
「バカバカしい。だから、母ちゃんの向かいの家でセックスしているのとかわらないだろ。母ちゃんもわかっていて、一緒に暮らすこと許してくれたんだから」
「日常は見えていそうで見えないけれど、ひと晩だけのホテルは見え見えじゃないの!」
「なんで。セックスしないでホテルでひと晩もあるだろ。てかさ、先生、さっきから今夜は俺と『やる気満々』なの母ちゃんに知られて困ってるふうに見えるんだけれど?」
「やる気満々ってなによ! そんなんじゃないから。ええ、そうよ、そうよ。『やらない前提』で泊まったんだからね! もうオペで立ちっぱなしで、余所の先生に気遣ってつかれたから、お風呂入って寝る!!! それからね、私はハル君の綺麗なお尻が好きなの! 奥ゆかしくない年上の女医が恥ずかしげもなしに『男の子のパンツ』を下げたりして、ごめんね!! て言えばいいんでしょっ」
ぷんとそっぽを向いて、本当にバスルームへと行ってしまった。
ほんっと減らず口だなあと、晴紀は窓際のベッドに寝転がった。まあ、普段はクールにやりすごしている彼女が、必死な顔になっちゃうのもかわいんだけれどなと思いながら。
「余所の先生に気遣って……、だってさ」
大人のあの医師に大人の楚々とした顔で、綺麗ぶって『お断り』していた美湖の姿を思い出していた。
でも。晴紀には、子供っぽい顔で真っ赤になって怒ったり、女の慎みなしでガンガン言い返してくる。つまり『地で行く私』でいてくれるわけだった。
そう思うと、あの減らず口に気が強い彼女でも、晴紀は口元が緩んでしまう。さらに『船乗りでかっこいんですよ』、『遠慮ない自分をぶつけられるのが、すごく楽』。自分がいないところで、彼女がそう自分を語ってくれたことが嬉しかった。
彼女よりまだ経験は少ないかもしれないが、晴紀自身も、『こんな地の俺をがつんと受け止めてくれる女』だってセンセしかいない。
静かな冬の夜、窓辺にはライトアップされている城山の天守閣。シャワーの音が聞こえている。
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