11.ダメなお姉さん

 スーツ姿で帰ってきた晴紀に、彼の母共々作業を差し止められ、三人一緒に診療所のダイニングへ。


 そこで美湖が冷茶を入れて、母子にもそこに落ち着いてもらった。

 蒸し暑いのにきちんとネクタイを締めているハルが、黒いジャケットを脱いだ。

 清子もむすっとしたまま、でも、美湖が愛飲している水出しの『緑茶』をすんなり飲んでくれる。隣に座った晴紀も一緒に。

「あら、いい香り、いいお味」

「ほんとだ。うめえっ」


 蒸し暑い中から帰ってきた二人が、それだけでほぐれてくれたようだった。

 だが、晴紀が母に向かう。

「もう、診療所の草のことは俺も気になっていたから、明日、やるから。二人はなんもしなくていいから」

「なによっ。お母さん、ちょっとお手伝いしようと思っただけなのに」

「えっと……、住んでいる私がいい大人なのに気がつかなかったのが原因かなー」

 なんて、険悪そうな母子の間に、自分が悪いと美湖からとぼけて入ってみた。なのにまたハルに睨まれる。

「センセ。先生は外科医でしょ。慣れないコトして、手を怪我したら困るんだよ。この前みたいに迅速なオペが必要な時に手が不自由とか困るんだよ。また都会から来たばっかりで、田舎の一軒家の住み方も知らないだろ。家周りのことは、俺がするから。慣れていないのに余計なことしなくていいんだって」

「晴紀。またそういう口の利き方して! あなたね、お母さん、いつも言っているでしょう。先生はあなたより『お姉さん』で『先生』なのよ。もうちょっと敬って……」

「あああ、えっと、お母さん。清子さん。私なら大丈夫。私もハル君に遠慮ないから。ね、ハル君!」

 うわー。お母さんの前で『ハル君』なんて馴れ馴れしく呼んでしまった! 美湖は額を抱えて、思わず清子から顔を背けてしまった。


 それに。ハルの気遣いにも気がついてしまう。外科医だから、怪我をしてほしくない。慣れていないことは全部俺に任せてと言ってくれているんだとわかってしまう。

「ごめん、ハル君……。仕事以外なんもできない女で。冷蔵庫も結局、ハル君がいっぱいにしてくれたし」

「なに言ってんだよ。瀬戸内海のど真ん中にある島に突然、来てくれたんだから。それに……。出掛ける前、絶対に俺がいない間に草ぼうぼうになると思っていたのに、雨続きで手入れが出来ないまま出掛けたのは俺なんだから」

 二週間も何処に行っていたのだろう。美湖はふと、また彼が今治の伯父の手伝いに行っただろうとは思いながらも、どんなアルバイトなのかやっぱり気になった。


「そちらの、重見さんの土地なんだから。気にしない医師がほったらかしで平気な顔で住んでいたんだもの。お母様が気になっても仕方がなかったのも私のせいだよ」

 島に来て一ヶ月、この男と睨み合ったり言い合ったりしてきた。いまも言い合うけれど、嫌なものではなくなっている。合う目線が、お互いを柔らかに気遣うものに変わっている。


 そんな息子と女医の様子を、清子がそれぞれの顔を窺って、何故か最後にはあの優しい笑みを浮かべた。

「晴紀。お母さん、先に帰っているわね」

 急に機嫌が直ったかのように、にっこりとしたまま勝手口で靴を履こうとしている。その足を少し引きずっていることに美湖は気がついた。


 母親が出て行くと、ハルが溜め息をつきながらネクタイを緩めた。そうしていると、本当に、都会のオフィス街にいても遜色ない佇まい。着慣れている様子あって、シャツとネクタイの柄の合わせ方も悪くない。


「おかえりなさい。アルバイト、長いのね」

「あ、うん。その時の手伝いによるかな」

 なにかを誤魔化すかのようにハルが冷茶をもう一度すすった。

「センセ。この前のコーヒーもそうだし。これも、美味しいお茶を知っているんだな」

「それ私の、地元のお茶。うちの実家、茶畑に囲まれている田舎だからね。母から新茶が届いたの」

「静岡の御殿場。経歴書で出身地も記載されていたから。そっか茶畑あるんだ、あそこら辺も」

「知っているの。どんなところか」

「東に住んでいたら誰もが知っている高原避暑地だ。俺、三年前にこの島に帰ってくるまで東京の会社に勤めていた」

 だから? だからスーツを着こなしているのかと美湖は思った。


「その間。もしかすると横浜にいた美湖センセとすれ違っていたかもな」

「島には……どうして」

 水滴がついている冷茶のグラスをハルがそっと置いて、黙り込んでしまった。時々、こうして晴紀に影を感じるようになったのは気のせいだろうか。


「親父が他界したから。姉がいるけれど、姉ちゃんも大学の時に島を出て神戸で結婚した。それに俺は長男だから、もしかすると、やっぱり島に戻らなくちゃいけないかもなとは思っていたんだ」

「お母様が一人になっちゃうから?」

「母は……。俺には好きに生きて欲しい。島には帰ってこなくていいと言ってくれていたよ。だから父が他界してからも暫くは東京で働いていた」


 それなら、どうして……。そう聞きたくなって、美湖も飲み込む。だが晴紀はキッチンの夕暮れる茜の窓を見つめながら教えてくれる。


「うちの母親。お嬢様なんだ。わかるだろ。ほわんとしていて」

「うん。さっき初めて会ったけれど、とっても品がよいお母様だと思ったよ」


「なんでも父ちゃんと一緒だったんだ。もちろん、妻として母として嫁として立派に務めてきたよ。それがさ、いっぺんになくなったことになるんだよな。親父の他界と姉ちゃんの結婚が重なっていた。俺も東京での仕事が上手く行かなくなったことがあって、すごく心配かけていた。ちょっと鬱ぽくなっていたみたいなんだよな。風呂で滑って骨折して、誰にも気がつかれないまま二日そのまんまだったらしい。その時は愛美もまだこっちに戻っていない時で……」


 さすがに美湖も驚き、茫然とした。


「二日って……。清子さん、助けを呼べなかったってこと?」

 ハルがそっと静かに首を振る。

「呼ぶ気力がなかったてこと。死のうとしていたんだよ。親父の後を追って……」

 さらに驚き、美湖は言葉を失う。先ほど会ったばかりの清子からは想像が出来なかったから。それでも伴侶を失い、島で、しかもあの大きな古民家で急に一人きりになったらそんな気持ちになってもおかしくないことは、人の死を見守ってきた美湖には容易に想像できた。鬱状態になっていれば、それはもうその心境を心に刻んでも不思議ではない。


「近所のばあちゃんたちが見つけてくれたんだ。ばあちゃんたちが、おかしいことに気がついてくれなかったらと思うと、俺……」

 ハルが項垂れた。ネクタイをたらし、頭をたれて。その時の苦痛を思い出している。

「裸で、酷い脱水症状で。あと一日遅かったら足の炎症、危なかったって言われた」

 まさに死の瀬戸際を彷徨った過去があった。


「それを聞いて。もうなにもかもかなぐり捨てて、島に戻ってきた。もともと、重見の財産管理も母一人では限界が出てくると思って」

「それで。それからは伯父様の会社の手伝いと、島にいる時はお父様が残した船をつかって漁協のアルバイトしているってわけ」


 ハルはこっくりと頷く。


「伯父は、母の兄なんだ。会社の社長で、従兄が跡を継ぐために補佐をしている。俺はその手伝い。母を放っておけなかったんで、ここ三年は不定期の出勤にしてもらっている」

「お兄様なら、それは妹さんが心配でしょうね。かえってハル君が面倒みてくれて安心なんじゃないの」

「うん。伯父は母をめちゃくちゃかわいい妹だと思ってるみたいだから。いまでもそうだもんな。その点はすごく融通きかせてもらっている。母ちゃん、やっと親父の跡を追うことばかり考えないで、まずは俺と暮らす気力を取り戻してくれた」


 いまの様子だと、もう死のうとは思っていないのは美湖にもわかる。息子がそばにいて、少しでもお世話をすることで生き甲斐になっているのかもしれない。


「さっき、清子さん。また引きこもっちゃうからね……と言っていたけれど……」

「気力が戻るまで、まったく外に出なかった。いまも海辺の散歩程度。足も時々痛むみたいだ。旅行とか連れ出そうと思ったけれど駄目だった。家にばかりいる。なのに……今日、外に出て……びっくりした」


 美湖もようやっと会えた大家さんのお母さんだったが、すんなりとお話ししてくれたふんわりとした彼女は、いま聞いたような苦しみを見せてはいなかった。


「もしかすると……。センセに朝飯を作ってからかもしれない……」

 外に自分の存在意義を見出す。もしかすると、それがちょっとしたキッカケ? 美湖もふとそう感じてしまった。

「お母さんに、新茶持っていってあげて。またお茶も飲みにくるよう伝えてみて」

 ハルが少しほっとしたように微笑んだ。

「ありがと、先生。言ってみる。来た時は……」

「うん。お話相手になってみる。あのね、私も久しぶりに母親に会った気持ちになれちゃったから」

「ほんと?」

 うん、と美湖も頷いた。もしかするとハルもそんな母をたった一人で気にする三年間だったのかもしれない。


「ハル君は? 東京の仕事に戻りたいとは思っていないの?」

 晴紀がまた困ったように黙ってしまった。いけない……。仕事がうまくいかなくなったと言っていたことを美湖は思い出してしまう。


 それでも晴紀が口を開いた。

「思わない。戻らない覚悟で島に戻ってきたんだ」


「じゃあ、しばらくはお母さんと一緒にということなんだね」


「未練がないと言ったら嘘になる。でも辞める時、もうこの世界には戻らないだろうと覚悟してきた。それに、俺……。船に乗るのが好きなんだ。島とこの近海のことは島の人間として知っておきたい。歳を取って島に帰ってきてからでもいいかと思ったけれど、いまは愛美の兄貴と一緒に漁に出て、このあたりの潮とか性質を知っていくのも島の男として大事なことだと思っている。それを受け継いでいくのも」

 スーツ姿で海と島のことを語る晴紀、その思いが自分の中ではいちばん麗しいものだと言いたげに、伏せている眼差しのまつげが、美湖にはとても綺麗に見えた。


「やっぱりここが好きなんだね」

 島で育つものはそうなのかと思った。だが晴紀の目が途端に、男っぽく、窓の外の茜を射ぬいている。

「島のなにもかもが、俺たちを今に繋いでくれた。海も、潮の流れも、この島の産物も、緑もなにもかも。この島の『財』は海で生まれたんだ」

 その言葉に……。美湖も初めて感じた。吾妻が言ったあの言葉。村上水軍のDNAを感じると――。美湖も感じた。ここの男たちは、古(いにしえ)の海運で脈々と受け継がれてきたものを守って恩恵を受けて今に至るのだと。だから、海に出る。海を知っている。海に寄りそう。島が不便であっても、そこには先祖の財があり受け継いでいく。その財は後世へ、島がありつづけるために。この海を受け継ぐために。その血潮を感じた。


 そんな晴紀を美湖はどんな目で、顔で見つめていたのだろう。急に晴紀と目が合うと、彼がびっくりした顔を見せたので、美湖も我に返る。

「あ、そうだ。センセに土産……」

 ハルが手に持っていた紙袋からそれをテーブルに置いた。

 黄金色の瓶だった。それを手にとって眺めて、美湖も驚く。

「蜜柑花の蜂蜜!?」

「うん。今治で見つけた。よかったらコーヒーの時に試して。俺も自分の買ってしまった。あれからコーヒー飲む時、蜂蜜を入れるようになった」

「わ、ありがとう! どんな香りかな。あの、香りするのかな。ほんとうに……いい匂いだった。蜜柑の花」

 あの時の素敵なネロリの匂いを思い出すように、美湖はその瓶を鼻先に当てて息を吸い込んだ。


「嬉しいよ。センセにも、島のなにかをひとつでも気に入ってもらえて」

 またあの綺麗なまつげで彼が目を伏せる。自分より若いからかな……、全てが無垢で綺麗に見えてくる。


「ハル君、お礼に健康診断してあげるよ」

 彼がギョッとして顔を上げた。

「は!? なんで健康診断」

「だって。お医者さんだから得意なことでと思って。いますぐできるよ。聴診器もってこようか、心電図もとれるし、採血して、それから、おしっこ……」

「わー、やめろって! 綺麗な顔でお、お、おし……」

「おしっこ。検尿必須だからね」

 真顔で言うと、ハルが顔を真っ赤にして立ち上がった。

「もう、ほんとになんだよっ。やっぱ、センセはかわいくねえ!」

 ほんとうに怒って勝手口をすごい勢いで出て行ってしまった。


 そんなハルをからかって笑うところだろうけれど、美湖はふとうつむいてしまう。


「ごめん……。ダメなお姉さんだね……」


 照れて素直になれなかったのは。五歳も年上の自分のほう。

 つい。あんなふうになってしまう。駄目な女。

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