先生には、ナイショ③-2
そんな美湖がにっこり微笑んだかと思うと、がっしりと成夫の手首を掴んで引っ張り歩き出した。
「じゃ、成夫君。そこのソファーで横になってくれる?」
「え、はい? 横? ああ、寝ている俺にチューしてくれんの」
美湖がそこに座っていたお年寄りを他の空いている場所へと移動させ、ほんとうに成夫を寝かせた。
お年寄りたちがおろおろしている。『美湖先生、そんな真に受けなさんな』とか『先生、お仕事中でしょう。成夫君もやめなさいよ』と周りを囲み始めた。
「はい! 行きますよ!」
美湖が手をパンと激しく打ち鳴らすと周りがシンとした。
「要救助者、確認!」
美湖が張り上げた声に、成夫も周りの島民たちもびくっと固まった。
「意識なし、呼吸確認できず、心肺停止の可能性あり! 愛美さん、AED! お願いします!」
「はい!」
カウンターにいた愛美がすぐそばの柱に常備しているAEDをさっと手にして美湖のところへと持っていった。
「開けてください」
「はい」
愛美が床に置いたAEDを開けて準備をする。誰もが処置できるようなアナウンスが流れ始める。
「意識なし、気道確保。服を切ります。愛美さん、レスキューセットからハサミ」
「先生、ハサミです」
息があったように愛美がAEDのセットの中からハサミをとりだし美湖に渡した。
ハサミを持った美湖が医師の眼差しで成夫を見下ろした。成夫がひやっとした表情に固まる。しかし美湖はハサミを使用せず、成夫が着ていたジャンパーをばっと開いて、その下のダウンベストも開き、シャツをめくりあげて素肌を晒す。ハサミは格好だけ、使用しない。
「わー、先生! わかった、わかったから!」
成夫が起きあがろうとしたが、美湖がいつものクールな顔で成夫の肩を押さえつけて再度、ソファーに沈めてしまう。しかもがっしりと頭を押さえつけた。
「愛美さん、マウスシート」
「はい」
人工呼吸するための管がついている透明なシートを愛美がひろげた。美湖が頭を固定している間に、愛美はその管を兄貴の口に無理矢理、押し込んだ。
「よかったね、兄ちゃん。これで美湖先生がキスしてくれるよー」
愛美のにんまりとした笑みに『あ、なるほど。そういうことか』と周りにいる誰もがはたとした顔になる。
この時点でもう晴紀は笑いが抑えられない。ほらみろ、先生はそうやって男にやり返すんだ。ただいうことを聞く女なんかじゃないし、困って泣くような女でもない。
マウスシートごしに、医師の人工呼吸。それが美湖が贈る成夫へのキス――ということだった。
だからってそこで美湖はマウスシートごしの人工呼吸はまだ実施しない。
「胸骨圧迫開始!」
心臓マッサージの格好になった美湖が、成夫の胸に組んだ手のひらをあて、体重をかけるように抑え込んだ。そのため、成夫も致し方なく横に寝かされてしまう。
「い、痛てえ! 先生、本気出し過ぎ!」
「肋骨折れても、心肺蘇生が優先! 真上から押すために全体重をかける! リズムはこの感覚!」
「いっ、う、はあっ! せ、先生、わかった、もうっ、マジで折れる!」
容赦ない女医の救命実施にさすがの成夫も為す術なし。
しかしその胸骨圧迫の動作が激しすぎたのか、美湖が愛用しているヘアクリップが頭から落ちる。いつもオフになる時のように、彼女の目元にも、はらりと黒い前髪が落ちる。
大人の顔に見える彼女が女医の顔で蘇生実施をしているその姿に、晴紀は思わずドキリとときめいてしまう。
「先生、電極パッドを患者に貼ります」
愛美もすっかりその気になって、AEDが診断するためのシートを成夫の心臓と腹部に貼る振りをした。
いつのまにか、そこにいた島民達が真剣な顔で成夫が寝そべっているソファーに集まっていく。
「AED開いたところ初めて見たわ」
「そんなんなってるんか」
「マナちゃん、それ貼るだけでええんかいな」
「はい。開くだけで電源が入って、どうすればいいか音声案内が開始、聞こえたでしょ。画面にも指示が出るからそのとおりにやればいいの」
「こんな人工呼吸用のシートがあるんやね。これなら直接、口と口を合わせないでもええもんね。やれといわれても知らない人だと躊躇うもんね」
マウスシートを押し込まれた成夫の顔をみんながじろじろ見下ろすようになっていた。待合室がすっかり救命講座になっている。
「もう、ええわ! 俺が悪かったです!」
講義用のお人形にされてしまった成夫はもう額に汗を滲ませていた。
「成夫君、まだだよ。AEDの解析結果を聞かないと。心肺停止していたらちゃんと電気ショックの指示が出て、その時はここのボタンが光るから。周りにいる人は離れること、安全を確認してから押すこと。そうでなければAEDも除細動は必要ないという診断を下して電気ショックは必要ないというアナウンスをしてくれる。その場合は救急が到着するまでそのままで待機」
「わかった、先生、ごめんなさい。もう、キス要りません」
「惜しい。マウスシートごしの人工呼吸もみんなに見せたかったなー。すっごいチャンスを成夫君が提供してくれたのに、もったいない。やろうよ、ねえ」
「もう、ええから。先生!」
いつも晴紀がやられているやつで、美湖が成夫にも見事にやり返しているので、そこで晴紀は思わず笑い出してしまった。
「美湖先生、これ本番やったらどう動くん? ちゃんとうちらでもわかる?」
診察に来ていた島民はAEDに興味津々だった。
「えーっと、ごめんなさい。いま診察中で順番待ちでしょう。詳しいことは消防や消防団に問い合わせたら講習してくれると思うよ」
成り行きだったとはいえ、思った以上に島民が興味を持ってくれ美湖は質問攻めにあい戸惑っていた。
「おっし、俺が講習会できるように手配してみる!」
こんな時はしっかり者の青年リーダーである成夫が立ち上がってくれる。
その場が落ち着いてきて、美湖が静かに控えていた晴紀をちらっと見た。
「ハル君、詳しいよね。船乗りには必要なことでしょう」
「まあ、きちんと訓練を受けないと乗れなかったし一通りは」
「正式な講習は必要だけれど、ちょっとだけでも説明してあげてよ」
「わかった」
先生が診察室に戻った後も、晴紀は島民と一緒に、AEDを触りながら説明をした。思った以上にじいちゃん達がうんうん聞いてくれるところを見ると、いつも目につくところにあるのは知っているのに、どのようなものかわかっているのに、本当はどうのようなものか知らなかったという顔ばかりだった。
「心停止の時間が長いほど後の障害のリスクが高くなることは皆知っていると思うけれど、それを救急がやってくるまでに、そばにいる一般人が処置することで何事もなく助かる確率が上がるんだ。AEDはそのために誰でも使えるようになっている。それでも、いざとなったらなかなか手が動かなかったり、知らなかったりで戸惑うことが多い。だからこうして開けてみて訓練で使ってみた経験があるのとないとではまったく異なってくるというわけなんだ。消防の講習ではそれが実戦できる人形をつかって、実際にAED操作を体験することができるよ」
晴紀の説明にじいちゃん達が唸った。
「俺らのように救急が来る来ないにリスクがある地域に住んでると、こういうのが使える使えない、そばにあるないで生死が分かれるちゅうことかいな」
「そういうことだと思う。だから、美湖先生もちょうどいい機会と思って、成夫がふざけたこと逆手にとったのかも」
「うーむ、さすが美湖先生やな」
ほんまや、ほうやほうや――と、皆が診察室に戻った白衣の美湖を見つめていた。
「成夫、ほんまに講習の手続きしてくれるんか。してくれるなら地区長に回覧まわすよう連絡してみるわ」
「ええよ、問い合わせしてみる。AEDも診療所以外に設置できるところ必要かもな」
話し合おう、検討しようという男たちの話し合いに、女性達も頷いていた。
「ほやけど、美湖先生が重見の嫁になるけん。今後もほんま安心やな。先生、若いしな。なごう先生やってくれるはずや」
そんな島民の期待の言葉に、晴紀はドキリと心臓が固まる。
これから美湖がシアトルに留学するなんて知らせたらどうなることやら。
「ハル君、これ先生のよね。落としたまま行っちゃったから」
風邪気味の子供を連れたママさんが晴紀にそれを差し出したが、晴紀はそれを見て目を瞠る。
「これ、センセの……」
ヘアクリップだった。
「先生、成夫君をやり返すつもりのマッサージを見せたんだと思うけれど、やっぱりお医者さんなのかしらね。一生懸命やって落として踏んじゃったのかも」
この島に来た時から頭につけていたヘアクリップが割れていた。
落ちたことも踏んで壊したことも気がつかないほど、医師としてなにかをする時は全力。それを見た気がした。
だが診察を一人終えた時、また美湖が先ほどのように診察室を出てきた。
「ヘアクリップ落ちていませんでしたか」
AEDのことでまだ島民と話していた晴紀は、それを握りしめて美湖に見せた。彼女が少し驚いた顔をして、ちょっと眼差しが翳った気がした。前髪が落ちている大人の雰囲気の顔だったから、よけいに大人の女の目線に見えてしまい晴紀はつい見とれていた。
「そっか。ついに壊しちゃったか、私……」
「センセ、もしかして大事なものだった?」
暫く黙って、彼女がそれを静かに晴紀の手のひらからつまんだ。
「いいの。もう、ハル君と結婚するから。だから壊れたんだね」
ありがとう。僅かな微笑みを見せて、壊れたヘアクリップは彼女の白衣のポケットに消えていった。
晴紀も気がついた。俺と結婚するから壊れた? それってもしかして……。前の男からもらったもの?
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