3.ちゃらけたことすんな


 初日なのに、地元民の男と最悪の睨み合いをしてしまった美湖。


 でも、ま。どうでもいいかと、美湖もすぐに立ち直る。いままでもそう。こういうこといちいち気にしていて医者が務まるかというもの。


 己の小さな自尊心を守るために、いちいち傷ついたことで、仕事の判断を鈍らせるほうが我慢が出来ない質(たち)。まあ、それもこの隣にいる吾妻を見てきて、倣ってきたものだった。


 やっと睨んでいた男の視線が外れた。

「吾妻先生、早苗姉、もうすぐ迎えに来ると連絡がありましたよ」

「あ、そう。いつもありがとね。ハル君」

「頼まれたこと、冷蔵庫もいっぱいにしておきましたから」

「そうだった、そうだった。相良、島に来たばかりで買い物もすぐにままならないだろうと、暫くは食べられるように冷蔵庫を一杯にしておいてもらったから」


 目つきの悪い青年、『ハル君』と言うらしい。


 やがて、診療所の前に軽自動車が停車したのが見えた。

「じゃあな、相良。今週は準備をして来週から開けるようにしておけよ。また見に来るな」

「了解です。お疲れ様でした」

 軽自動車から、パンツスタイルの美人が降りたのが見えた。ひと目見て美湖も思った。『あー、吾妻先生のタイプだ』と……。モデルのようにスタイルがよくて、綺麗な黒髪。大人っぽい顔つき。でも気が強そう。

「彼女、いま俺がいる総合中央病院のナースな。で~、えっとな、」

 仕事仲間だと教えてくれたそのあと、わかりきっているのに吾妻が恥ずかしそうにどもった。

「先生にとって、どストライクだったことでしょうね。もうすぐに飛びついたんでしょう」

「あ、わかるか。そうなんだよー、あははは!」

 もう、鼻の下伸ばしちゃって。ほんとうに好きなんだなと、最後には美湖も微笑んでしまう。


 吾妻は軽く女を誘っても、だからって手当たり次第手を出す遊び人ではない。ただ、男前でモテてしまうので、女がほうっておかなくて群がってくるだけ。吾妻は自分から狙いを定めるし、定めたら一直線、その女を攻め落とす。なのに、恋が成就した後が長続きしない。仕事ではシビアで男気がある吾妻のなにもかもが自分に向かないと女性がそっぽを向けてしまうのだ。それで長続きしない。


 今回も島に来て、一緒に仕事をしていれば、吾妻の医師としての腕前も、男としての色気も、女には強烈に感じ取れたことだろう。吾妻が猛攻撃でアタックすれば、女も悪い気はしないはずだった。

 しかしナースに手を出すのは珍しいなと思ってしまった。だいたいが、外部からやってきた女性や合コンなどで出会った女性ばかりだったのに。

 だからといって、吾妻が『女なし』の毎日を送っているとも思わなかったので、島の女性に手を出していても、後輩である美湖はなんとも思わなかった。


「相良、乗ってきた車、うちの病院のものだけれど、しばらく貸してくれるそうだからな。あとの交通手段はどうするかきめておけよ。出来たら車を買え」

「えー、ついに車持ちですかー」

 いままで車はいらない生活だった。運転は出来るが、ついに買わなくてはならないかと気が重くなってきた。

 じゃあな――と、あっという間に吾妻は彼女が待っている玄関先へと行ってしまった。


 彼女の目の前へ辿り着くと、すぐに彼女の黒髪を撫で、おでこにキスをしていた。それを彼女が恥ずかしがって、ツンとした顔で吾妻を押し返すとすぐに運転席に行ってしまう。

 吾妻もそのまま助手席に乗り込んで、軽自動車は港へと発進してしまった。


「やっぱり早苗さん……。ここまでご挨拶にこなかったね」

 診察室に残された愛美がふと呟いた。

「今日は仕事じゃないからだろ」

 目つきの悪い彼がそう答える。

 それでも愛美がやっと美湖を見た。

「相良先生、ほんっとに吾妻先生とは関係がないんですか。いえ、これまでおつきあいしたこともないんですか」

「やめろ、マナ」

 目つきが悪いまま、彼が愛美を制した。

「だって、ハル……」

 美湖ももやもやしてきた。それにだいたいだいたいわかる。病院内もそうだが、島だって同じだ。


「なに。もしかして、私が島に赴任するにあたって、吾妻先生の恋人だったとか、そういう噂でもある?」

 だから、島で同業者になるナースなのに、ドクターの美湖には挨拶に来なかったとでも言いたげだった。

「そう噂されても驚かないけれど。そもそも吾妻先生はどこにいたって、そういう噂がたつ人だもの」

「指導医だったんですよね。毎日一緒だったわけですよね。なんとも思わなかったんですか。あんなかっこいい腕の良い心臓外科の先生」

「その頃の私なんて子供ぽくて対象外だったんでしょう。もう結婚もされていたし、奥様に夢中だったみたいだけれど」


 別れた最初の妻の話をしただけで、まるで愛美が早苗さんという女性かというほどにショックを受けた顔になる。


「まさか吾妻先生、まだその奥様と関係があるとか言いいませんよね!」

「ないでしょう。奥様から別れたいと家を出て行ったと聞いているもの」

「それだったら! 吾妻先生がまだ愛している可能性もあるってこと!?」

「ないない。離婚してあんなに落ち込んでいたのにあれってなんだったの――と思うくらいに、二度目の結婚の時ももんのすごい惚気ながら奥様を紹介してくれたから」

「えー! じゃあ、その二度目の……!」


 『ないない』と美湖は徐々にげんなりしながら、同じ返答を繰り返した。

「吾妻先生は、その時、目の前にいる女性にまっしぐら一直線だから。むしろ……、先生は俺を捕まえておいてくれ、離さないでくれと思ってる気がする……」

 そう言ったら、急に静かになった。

 愛美の目がうるうるとしていたので、美湖はギョッとする。彼もギョッとしていた。


「ほんとですか、それ。じゃあ、いまは早苗さんに夢中て思ってもいいんですね!」

 美湖はそうだと思っているので、うんと頷いてしまった。本当の吾妻の気持ちなどわからないのに。

「ほんとですかね。俺はまだ安心できない」

 そんな美湖の心を見透かしたようにして、目つきの悪い男が、背が高いのにさらに上から美湖をきつい目線で睨み倒してきた。

「適当なことを言って、その場凌ぎで安心させようと思ってんならやめてくださいよ」


 この男、なんなのその目。だからつい美湖も負けん気で睨み返してしまう。


「あの先生、凄腕の外科医なんだろ。いつまでこの島にいるかわからないもんな。島にいる間だけの女かもしれない」

「それなら、先生が島から出ていく時に彼女もついていけばいいんじゃないの」

「簡単に言ってくれますね」

 島を出るのは島の人間には容易ではないと聞こえた。


「私はいまここに来たばかり。初めて聞いた話について、知っている吾妻先生のことを伝えただけ。話題を振られたから答えただけなんだけど?」

 私は来たばかりでなんの事情も知らない。吾妻サイドの感触だけで言っただけ。勝手に騒いでいるのはそっちでしょう――と仄めかしてしまう。


 若い二人がぐっと黙ってしまった。

 美湖もうっかりしたと我に返り、慌てて言い直す。


「先生と彼女の問題。外野の私たちがこうやって憶測だけで騒ぐのは良くないと思う」

 美湖は時々先ほどのようなきつい物言いをしてしまうことがあり、つきあってきた親しい人々に『真っ当なことだが、受け取る側のことを考えていない。言い方がある』と叱咤されたことが度々ある。そういう態度にならないよう、いつも常に、一呼吸おいてからを大人になってからだいぶ心がけてきたつもりだった。だから吾妻は『おまえはそうしてクールでいろ』言っているのだから。


 なのに、初日なのに、出てしまった。


 だけれど、その目つきの悪い男が溜め息をひとつ。

「正論だな。確かにそうだ」

 彼からすっと引いてくれた。


「マナ、おまえも早苗姉ちゃんが自分でなんとかすることなんだから、そっとしておけ。わかったな」

「でも、ハル……」

「この先生にも関係ないことなんだから、ひっかきまわすな」

「わ、わかったよ」

 きっと美湖より若い二十代の青年だろうに。妙に兄貴風で威厳があると思ってしまった。


「相良先生、あの、今日、お手伝いできることありますか。早く準備が出来るようにと思って、待っていたんです」

「ああ、うん。ありがとう。受付できるように準備してくれるかな。それから薬のチェックを明日からしてみましょう」

「はい、先生。あの……、初対面なのに……、申し訳ありませんでした」

 彼女から頭を下げてくれた。あげた顔は彼女の名前らしく、愛らしいものだったから、美湖も微笑み返す。


「気にしない。吾妻先生のことだから、きっとそうなっているだろうと予測していたし、研修医の時もそばにいるだけで、たくさんの女性に睨まれたしね」

「わー、やっぱり吾妻先生、モテるんですね」

「絶対に恋人がいると思っていたら、やっぱりね。先生の好み、どストライクだったもの」

 彼女が気に入っているだろうその早苗さんは、吾妻にとっては手放したくない女性のはずとまた気持ちのまま言ってしまう。その時、診察室の入口にまだ佇んでいた『ハル』がまた美湖を睨んでいた。ああ、こういう期待させることをいうなって意味ね……と感じ取り、美湖も口をつぐんだ。


「センセ、ちょっといいですか」

 ものすごい眼力で呼ばれた。美湖も素直に彼と診察室を出て後をついていく。

 愛美は受付カウンターのまわりにある棚やパソコンの中にあるソフトを確認しようとしていた。

 ハルは待合室を横切っていく。美湖もついていった。


 そこにドアがあり、彼から開けた。

「ここからが先生のプライベート住居部分」

 ドアを開けてくれたそのまま、彼の背へとついていくと、もうそこはダイニングキッチンだった。


 窓に面したキッチンと、大きな冷蔵庫、ゆったりとしたフローリングのダイニングにはもう綺麗なテーブルセットが置かれていた。独り暮らしのはずなのに、六人がけの大きなテーブル!

「うわ……、広いわね。私、独り暮らしなのに」

「センセはね、またいつか家族連れで赴任してくれるお医者さんもいるかもしれないだろうとこうなった」

「ああ、なるほど。でも……。こんな綺麗にしてくれて、冷蔵庫まで……」

 この診療所を開設するための島民の期待に尽力を思わずにいられなかった。

 それでも、ハルは淡々としていて、そのまま冷蔵庫のドアを開け美湖に見せた。


「とりあえず、生もんは最小限しか買ってないから」

 そう言いながら、次に彼は冷凍庫を開けた。

 そこには冷凍食品がびっしり。

「吾妻先生が簡単に食べられる冷凍食品をこれでもかってくらい揃えておけと言っていたから……」

 それは助かるとあまり料理をしない美湖は心の中で吾妻に感謝してしまう。また彼がじっと美湖を射ぬいている。いちいち威力がある睨みで美湖もつい見つめ返してしまう。


「あんまり料理をしない人が来るんだなって思ったから、ほんとうに簡単に食べられるもの選んでおいた」

「ありがとう。助かる」

 なんか言うこといちいち癪に触りそうだったが、美湖も大人、きっと自分より若い男。素っ気なく流しておく。

「酒はいるかどうか吾妻先生に聞いたんだけれど、あんまり飲まないと聞いてる。ほんと?」

「飲む暇がないが正しい」

 美湖もきっぱりいうと、目つきの悪い彼もはたとした表情に固まった。

「あ、そういうことか。でも、島では……」

「いいの、横浜でもそうしてきたから」

 目つきは悪いけれど、この男はひとことですぐに見通しをつけて、人が言いたいことを汲んでくれる柔軟さがある――と美湖も感じてしまった。


 先ほどの『正論だ』もそう、いまも。

「吾妻先生もそうしているんじゃない。きっと急患のために、お誘い以外で飲むことはないと思う。横浜でもそうしていたから。私も見習っていた」

 ラフな青年が少しだけ、その睨む威力を和らげた。


「吾妻先生は凄いと思うよ。……さっきの、『簡単に島を出て行けと言う』とセンセに言った意味……。早苗姉は『シングルマザー』で中学生になったばかりの息子がいるから、姉ちゃんの気持ちひとつで、男について島を出て行けるかって話だったんですよ」

 それを聞いて、美湖もさすがにぎょっとした。

「え! あの綺麗なナースさん、お子さんがいらっしゃるの!?」

「だいぶ若い時に離婚して島に戻ってきたんだよ。真面目に島のナースを続けてくれてきたそこへ、吾妻先生がさらうように姉さんを簡単に仕留めたときには、島中大騒ぎになった」


 美湖も目を覆って『ああ……』と言いたくなった。ナースどころか、子供がいる女性に手を出していた。


「えー、もう、吾妻先生ったら。先生のタイプだと思っていたけれど……!」

 島が騒然としたのも来たばかりなのに目に浮かぶようだった。

「だから、赴任先の一時しのぎで、早苗姉を弄んで欲しくない――と島のみんなは思っている。俺たちにとって、早苗姉はほんとに島のみんなの姉ちゃんなんだ。島民には身体を守ってくれるナース。傷つけてほしくないという気持ちが強いんで……、」

 だから愛美もあんなに自分のことのように真剣だったわけかと美湖も納得した。

「そういうことだから。センセもいくら親しい指導医と教え子であって気易いからって、あんまりちゃらけたことして欲しくない」


 ちゃらけたこと? 今度は美湖が眉をひそめ、彼をじっと睨み返してしまった。

 彼も気がついた。


「ほんとうにあの男前の先生となんもなかったのかよ。あんなにいちゃついていたくせに」

「ないったらない。でもそういう目で見るのは人の自由よね。どう思われても私は気にしない」

 といいながらも、美湖は久しぶりにお腹の底をむかむかさせていた。

 こいつ、生意気。気に入らない。


 しかしそれを思ったのは美湖だけではないよう。彼も真上から美湖を睨み倒してる。きっとおなじことを思っている。


 ふだんそこそこ冷めた顔でなんでも流してこられたのに、なに、この感情? でもここはきっと大人だろう自分が収めなくてはならない。

 ならないけれど、やっぱアイツもまったく引かない。


「ちゃんとやってくださいよ。俺たちもこの診療所できるまで必死だったんで」

「もちろんよ。無駄にするものですか」

 ていうか必死になってくれたのは、島の有力者なおじさんたちじゃないの? まるで自分が頑張ってここまでにしたみたいに若僧がいうからムカムカしちゃうのだろうか?


「チルドに刺身、はいってるから。よかったら今夜、食べて」

「ありがとう、いただきます」

「じゃ、これで。俺の家、この診療所の向かい。重見です。なんかあったら言って」

 うわ、お向かいさんか。おもわず美湖の頬が引きつってしまった。


 さらっと着ているだけの着古したティシャツ、だぼっと楽そうに穿いている短パン。ぶらっとした様子で気怠そうにキッチンの勝手口から出て行った。


「なんなの、あいつ。気分わるっ」

 一歩間違えたら、オラオラ系のヤンキーにみえなくもない? 島育ちの男と言ったところだった。でも半袖から覗く上腕は少し盛り上がっていて鍛えられているように見えた。そのせいかどうしても『威勢の良い浜男』に見えてしまう。


 よくある『田舎な地元民の部外者へ排他的感情』? 俺たちの島を無碍にするヤツは許せねえ――。そこに彼らが敬愛する島民もいて、まるで家族。つまりそういうこと。『俺たちの家族を傷つけるヤツは許さねえ』、『マジで真剣にやってくれよな』、都会でそうだったようにちゃらけたカジュアルな気分で暮らすなという意味だと美湖は感じた。


「はいはい、真面目にしますて。……いままでだって疎かにしたつもりはない」

 都会から来たてだけで、バカにすんな。と思わず胸の中で悪態をついてしまった。

 いけない。来たばかりなのに、こんな気持ち。


 キッチンの窓を開けてみる。入ってくる風に、あの蜜柑の花の匂い。

 それだけで癒された。魔法の花の匂い。

 

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