4.あいつ、わかってる

 月曜日、週明けの外来は多い。大学病院ではそうだった。


 新しいこぢんまりとした診察室で、白衣を羽織った美湖は、ナース姿の愛美に呟く。


「ねえ、愛美さん。ドラマとかだと、新任の先生なんて信じられるかとか言って、診療所に閑古鳥が鳴くよね」

「先生、ドラマを信じすぎですよ。なんのためにこの診療所が出来たか、いま体感されているでしょう」


 大学病院並に、待合室に人がいる。診察待ちになっている。

 愛美が、診察室のドアを開け叫んだ。

「高橋卓さーん」

 『はーい、わしじゃあ』なんて、おじいちゃんの声が聞こえてきた。

 そのおじいちゃんがゆったりと診察室に入ってくる。


「ほんまや。噂どおりのべっぴんさんや! 先生、よーきてくださったがね」

 べっぴんとは思っていない。ただこの日、きちんとしたスタイルにはしていた。島に来たばかりではあったが、白衣の下は以前そうだったように、きちんとしたブラウスとスカート。首には聴診器をかけ、前髪はあげて簡単なヘアクリップで留め、ポンパドールにしておく。黒髪は肩まで、パーマはしない染めない。美湖のスタイルだった。


 そのせいもあったかもしれないが、本日何度目かの、苦手なにっこり笑顔を美湖は見せた。

「相良です。よろしくお願いいたします」

 愛美に促され、おじいちゃんが椅子に座る。

「いつもの薬、もらいにきたんよ。いやー、助かるわー。バスに乗って向こうの港病院まで行くの大儀じゃったけん」

 そのおじいちゃんの血圧を測りながら、美湖も本日何度目かの相槌を打つ。


「指導医だった吾妻から向こう港の中央病院まで行くのは大変なことだと聞いております」

「ほうなんよ。どんなにトンネル通ってすぐゆうてもな、車ださないかんし、病院ついたら待ってる時間もあるけんのう。年寄りにはちょっとのことがしんどいんじゃ。また夏の暑い時なんかたまらん。行って帰ってくるだけで疲れてしもうてのう。ここじゃったら、歩いても十分もせんけん。ほんま、良かったわ。そう思って、今日、さっそく来てみてん」

 そしたら、若くて綺麗な女医さんがいて、来て良かった良かった。これも今日、ことごとく言われていること。


 おじいちゃんだけでなく、おばあちゃんも。だけでなく、奥様たちも。中には小さな子供を連れた若いママさんもいた。

 午前中、なんとか人が引け午前の診療中の札を下げることが出来た。


「はあー、終わった。まさかこんなに来てくれるとは予想外だった」

 デスクでぐったりした美湖を見て、カルテを片づけようとしていた愛美が笑う。

「それだけ近距離で気軽に相談できる、行ける医療機関を望んでいたということですよ。私も、この集落に両親と祖父母がいるので安心です」

「そうだ。小さなお子さんも何人かいるね。予防接種がどれくらい進んでいるか聞いておいたほうがいい? ワクチン揃えておいたほうがいいよね」

「いままでは小さなお子さん連れて向こうの港にある病院に来ていたから、ここでしてくれるとなったらママさん達大助かりですよ。今度、アンケートしてみましょうか」

「うん、助かります」

 初対面の時は最悪な出会いだと思ったが、吾妻が人選してくれただけあって、開院準備中に愛美とは打ち解けることが出来た。


 しかも意思疎通が上手く行くことを実感した。かわいらしい女の子の雰囲気に溢れているが、愛美はテキパキしていた。元は広島の大学病院に勤めていたというキャリアも持っていた。


 そのうちに美湖が『仙波さん、仙波さん』と呼んでいたら、彼女が『島ではみんながマナちゃんというから、先生もそうしてください』と言ってくれた。いきなりマナちゃんは抵抗があったので愛美さんと呼ぶことに、逆に愛美は『美湖先生』と呼んでくれるようになった。


「愛美さん、お昼休憩は自宅だったよね」

「はい。夫もそろそろ帰ってくると思うので、一緒にお昼を食べてきます」

 愛美は結婚していた。その結婚でこの島に戻ってきたという。つまり夫は島の人間。彼女はUターン看護師だった。


「ご主人、幼馴染みなんですってね」

「はい。兄とハルと夫が同級生で仲がいいんです」

 そういえば、あれからあの男、一切見かけなくなった――と美湖も気がついた。

「それでハル君がお兄さんみたいにそばにいたんだ」

「このあたりの集落で、小学校も中学校も同じ、高校も分校になりますがそれまではみんな、ほぼ一緒なんです」

「だから、兄弟姉妹みたいになるのかな」

「そうですね。だから、ちょっと感情的になっちゃうんです……。早苗さんも子供の頃はこの集落のお姉さんだったから」


 ああ、だから。ハル君もあんなにムキになっていたのかと腑に落ちる。


「そうか。でも、ほんと。吾妻先生は遊び人じゃないよ。女の人から来てくれるから受け入れているだけで、その後上手く行かなくなっちゃうのがほとんど。つきあっている時は目の前の女性一筋だと思ってきたけど……。今度も幸せそうな顔をしていてびっくりしたぐらい」

「そうなんですか……」

「うん。横浜にいる時と少し雰囲気変わった気がした。お子様とも上手くいっているみたいだし、もともと子煩悩そうな様子も見せていたから、もしかすると先生が癒されてるんじゃないかな」


 あ、また。こういう余計な憶測をいっちゃうと、あの男に睨まれるんだっけと思い出してしまった。


 でも愛美ももう落ち着いて聞いてくれている。

「私にも吾妻先生はそう見えて、信じているんです。でも……、やっぱり島の外から来た人はいつか島を出て行くものと思っているんです。だから」

「吾妻先生、来て三年目だもんね。一般的には異動時期だもんね」

「相良先生が来ると聞いて、吾妻先生の後継なんじゃないか。あと少しで吾妻先生は横浜の病院に戻るよう言われるんじゃないかと島の人たちも案じているんです」

 それで……と、愛美がちょっと口ごもった。

「それで……?」

「どんな先生か……、その、だから、今日……」

 美湖もピンと来た。

「あー、そういうことだったのか。つまり、私の品定め日だったんだ」

「悪く思わないでくださいね。この地区に初めて診療所が出来たのと、吾妻先生が選んだ女医さんがどのような先生かみんな気にしていただけなんです」

「うん、大丈夫。えっと、この際、聞いておこう。ほかになんて噂されていたの?」


 また愛美が口ごもった。美湖が再度『今後のために教えて』と言うと、申し訳なさそうに教えてくれる。


「吾妻先生の、元恋人だったとか……」

「愛美さんが初対面に気にしていたことね」

「はい。あちらの病院で職員がみんなそれで、心配していて。申し訳なかったです」

 そりゃ、早苗さんに警戒されるはず。しかもあの姉さん贔屓のハル君が睨むはずだと納得。

「他にも?」

「広瀬教授の愛人だったけれど、愛人じゃなくなったから左遷とか」

「うわー、ベタだね……」

「あとは……、恋人が敵方の教授のお嬢様と……」

「それは知ってる」

「医療ミスをして――」

「言われそうなこと、もしかしてコンプリートしちゃってる?」

「してますね、たぶん」


 もうわかった――と、美湖も聞くのをやめた。


「ですけれど、面白半分に言っていて誰もどれも真実なんて思っていないですよ。特に医療ミスと広瀬教授の愛人は。広瀬教授の尽力に島民は感謝しているから悪くは思っていないんです。そんな人の愛人だなんて噂は面白半分、または教授が島を利用していると警戒している男性陣のやっかみなだけ」


 広瀬教授が利用していると感じている島民もいるというのは、美湖も初めて知った。だがそこはいまは触れないでおく。


「吾妻先生が来てから、ドクターヘリや救急艇に来てもらわなくちゃいけないオペも何度かこの島で事足りて、すごい先生が来てくれたってみんな喜んでいたんです。その先生の教え子が来る、しかも吾妻先生が『こいつに限る』と推薦してくださって、しかも女医さん。だから皆、信じていますよ。噂なんて、田舎では良くあること。気にしないでください。そのうちに先生を知ってなくなっていきますよ」


「うん、ありがとう。ま、病院でもそうだったしね」

「あ、わかります。私も都市部の病院にいたから」

 同じですよねどこでも。と愛美と笑う。

 そういわれて、美湖は初めて気がつく。


 そうだ。病院だって島と同じかもしれない。壁に囲われた限られた世界。そこで命に向きあう壮絶な日々が繰り広げられていても、島民と同じように毎日決まった人間がいて、その人々の日々の行いにいろいろな噂がつく。

 そもそも、島でも病院でも学校でも、民間の会社でも。そこは『島』なのかもしれないと。初めて思えた。


「いけない。旦那がそろそろ漁協から帰って来ちゃう」

 愛美の夫は漁協の職員だった。そうして愛美と昼休憩で別れようとした時だった。


「おう、マナ。お疲れ。初日だろ、どうだった」

 あの生意気な男、ハルが診察室のドアを勝手に開けて現れた。

 しかも今日はどうしたことか、黒いスーツ姿でまるで別人!


「ハル、今日はアルバイトだったんだ」

「うん。市街に出たからいろいろ買ってきた。成夫なりおにも頼まれていたもん、あとで持っていくと言っておいてくれよ」


 スーツでアルバイト? 美湖は眉をひそめた。いったいなんの仕事かと勘ぐってしまうが、会ったばかりの人を詮索すまいと胸の奥に押し込める。

 今日はスーツのハル君が、またあの目で美湖をじっと見据えている。


「先生、お疲れ様。どうでした」

 少し眼差しが和らいだ。

「え、ええ。思ったよりこの地区の皆さんが利用してくださって、驚いたかな」

 背が高く身体もほどよく鍛えた肉体だったせいか、ビシッと着こなしているスーツ姿は不思議と品があった。だから美湖は上手く言葉が出なくなり気圧されていた。


 その彼が片手に持っていた紙袋を愛美に差し出した。

「これ差し入れ。甘いもん」

 愛美がそれを受け取って中身を確かめる。

「わー、TAKADAの塩シュークリーム!」

「それと塩パンな。それとそろそろ先生、こういうの食べたいんじゃないかと思って、ほかにも見繕ってきた。先生とわけな」

「ありがとう、ハル!」

「じゃ、母ちゃん待ってるからこれで」

 スーツのジャケットの裾をひるがえし、颯爽と彼が去っていった。


「彼……、なんのアルバイトしてるの」

「今治の、えっと、伯父様のお仕事を手伝っている……ですね」

 また愛美が妙に口ごもったような気がした。

 親戚のお仕事のお手伝い。アルバイト。フリーターぽい、そういう暮らし方? それにしては妙にスーツを着こなしていた気がした。


 愛美が自宅へと昼休みとして帰宅。美湖は広いダイニングキッチンでひとり食事を取る。


 ハルがもってきてくれた袋を開けると、焼きたてのパンがいっぱい入っていた。


「おいしそう!」


 そうだ。横浜にいたら思い立ったら素敵ベーカリーに行くことが出来た。いまは……、そこまで考える余裕もなかったけれど、冷蔵庫にあるものしか食べていない。島のどこにベーカリー的なものがあるのかも把握していない。

 それでも、おいしいと言われている冷凍クロワッサンが冷凍庫に入っていたから今日まで食べていたけれど。やっぱり焼きたてのパン屋のパンは格別。


 ブルーベリーとクリームチーズがたっぷり乗っているデニッシュパンやオレンジピールの香りがするマフィン、愛媛発祥と言われている塩パンに、甘い匂いがする食パンまであった。しかも、珈琲店のカップ用ドリップ、デカフェコーヒーまで入っていた。さらにさらに、おやつには『シュークリーム』! 塩シューなんてどんな味、早く食べたい!


 あいつ、わかってる。

 デニッシュをかじり、香り高いコーヒーを入れながら美湖は唸った。


 なのに翌日に見たハルは、またいつものラフなティシャツと短パンの島男姿に戻っていて、軽トラックに乗ってどこかにでかける姿しか見なくなる。

 アルバイトって不定期? 親戚の仕事だから気楽にやっているアルバイト? それがない間は島でなにしているのか。よくわからない暮らしぶりだった。


 

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