先生には、ナイショ④-1

 朝の漁につきあい船酔いをしてしまった博父が、ようやく起きあがれるようになった。


「お父さん、大丈夫ですか」

「ああ、だいぶよくなったよ。晴紀君にも迷惑かけたね」

「俺は平気ですから。アサリの味噌汁とか、梅昆布茶とか、トマトジュースとかありますが、いかがですか」

「いいね。トマトジュースをもらおうかな」


 待っていてくださいね――と、晴紀はキッチンへ向かう。

 キッチンには、美湖の昼食を作りに来た母が、既に調理中だった。


「お父さんどう?」

「だいぶ良くなったみたいだ。トマトジュースを持っていくよ」

「おうどんも食べられるかどうか、聞いてみて」


 頷いて、晴紀はリビングへ戻る。うまそうにトマトジュースを飲み干した博父も、すっきりした顔色に戻っている。


「午前中、診療所が騒がしかったね」

「そうなんですよ。美湖先生が成夫にからかわられたのを逆手にとって、成夫を救助者にしてAEDの救命講座みたいなのを始めたら、待合室にいたじいちゃん達が興味津々でずっとその話題だったんですよ」

「AEDか。近頃はどこにでもあるけれど、どのようなものかは講座を受けないとわからないものだろうからなあ」

「いい機会だと美湖さんの咄嗟の機転、素晴らしいものでしたよ」

「あの気の強い娘が? かいかぶりすぎだ。いつもの負けず嫌いで思いついただけだろう」


 本当は美湖を認めている部分もあるのに、父親だからこそ照れくさいのか、そう言って博父は笑い飛ばしているだけだと晴紀は思っている。


「お父さん、具合はどう?」


 午前の診療時間を終えた美湖が戻ってきた。白衣姿のまま、リビングにはいってきて、今度はきちんと娘の案ずる顔になっていたので、晴紀はほっとする。


「だいぶ吐いた。胃液まで全部。美湖、点滴してくれ」

「いいよ。ここに持ってくる」


 脱水症状が気になるからと、美湖がそのまま診療所へ戻っていく。

 リビングに点滴のスタンドを設置して、美湖が自ら父親の腕に点滴針を施した。


 そこで博父がふと笑った。


「なんだ上手いな」

「そりゃね、いちおう医師で外科医だもの」

「最近はオペも出来なくなったんだろ」

「それがね、こちらの大学病院や系列の病院に時々はいるように言われるの。吾妻先生なんかひっぱり凧だよ」

「いや、オペが出来る場があるならいいんだよ」


 その会話を聞いていた晴紀は、やっぱり博父は娘を医師として認めているじゃないかと思えた。


「お父さんの保険証、出しておいてよ」

「おう、そこの財布から取っていってくれ」

「自分で出してよ。いっぱい持ってきたんでしょ。お小遣いもらっちゃうよー。欲しいブーツがあるんだ」

「がめつい娘だな」


 口悪い言い合いをする父娘に晴紀はそばにいて笑ってしまう。ああ、そうか。このお父さんとの言い合いが、口悪い美湖さんを育ててしまったんじゃないのかと思える、父娘の軽快な会話だった。


「おまえがここで、晴紀君と楽しそうに毎日を過ごしていれば、それでいいんだ」


 なのに。口悪い会話の最後はそんな父親の言葉。美湖が点滴が落ちる速さを調整しながらうつむいている。


「お父さんだって。ここ、好きでしょ」

「ああ、気に入ったよ。これからおまえが住む島だから、死ぬまで通えそうだな」

「私がいなくなっても、通えるでしょ。整形外科の診察、頼んだからね」


 博父の表情が少し固まった。訝しそうに白衣姿の娘を見つめている。晴紀もハッとする。いま、ここで言う気なのか?


「おまえ、結婚してもこの診療所にいるつもりなんだろ」

「広瀬教授には、結婚後もこの診療所は任せて欲しいと伝えているし、その約束も取り付けた」


 博父が笑顔になる。


「そうか! 確定したのか! オペもいままで通りにさせてもらえるんだよな」


 美湖が黙った。彼女なりにこの診療所の医師として専念するのか、外科医としてオペも出来るかという迷いがあるのは晴紀も彼女との話し合いでわかっていた。



「お父さん。シアトルに留学することになった」



 言った。ついに美湖が父親に初めてそれを伝えた。

 当然、博お父さんは唖然としている。


「は? シアトル? 留学、だと? いつ、そんな話に」

「昨日、吾妻先生の披露宴が終わって、広瀬教授に論文を渡してから」


 美湖も少し言いにくそうだった。彼女自身もまだ戸惑っていて、うまく説明することが出来ないのが晴紀にも見て取れる。


「どういうことだ! この診療所はどうなる!!」

「だから。広瀬教授が勧めるとおりに留学した後、この診療所を任せてくれるっていう条件」

「だが、美湖。おまえ、これから結婚するんだろ! 晴紀君とこれから一緒に暮らすんだろ。どうするんだ!」

「それは……」


 美湖がとても戸惑っていたから、控えていた晴紀も父娘の間に入らせてもらう。


「お父さん。俺、美湖先生と一緒にシアトルに行きます」


 また博お父さんが仰天した顔で静止した。


「ついていく……と?」

「はい。幸い、いま俺は自由が利く仕事をしているので辞めることには弊害はありません。今治の伯父に報告して、美湖さんについていくつもりです」

「しかし、いや、でも晴紀君は船乗りだし」

「俺も英語は話せるので、美湖さんの手伝いは出来ると思います。それに、俺……、また島の外に出て、外の世界をもう一度見たいと思っています。美湖さんが一緒なら、そこで俺もなにかこれからの人生を見つけられるのではないかと思っているんです」


 点滴をしたままの博父が今度は茫然とした様子で黙ってしまった。


「清子さんは、お母さんを一人にして置いていくのだね」

「それは……」


 晴紀が言おうとしたら、昼食の準備を終えた母もリビングに現れた。


「お父様、私も息子たちについていこうと思っています」


 それにはまた博父が唖然とした顔に……。


「は、その、まさか……、清子さんまで……」

「私は運良く命拾いをしました。息子がまた前を向いても良いことがわかりました。私もまた外の世界を見てみたくなりました。息子だけについていくのは、やはり私も不安です。息子と美湖さんが一緒だから『行こう』と思えました。また私も、今のように息子や美湖さんを支えてみたいと思っています。やらせていただきたいんです。お父様」


 ついに博お父さんが黙ってしまう。


「いいな。父さんも行っちゃおうかな」

 はあ!? 晴紀ではない、娘の美湖が今度は仰天している。

「なに言ってるのよ! お父さん、自分の医院はどうするのー! ここの整形外科だってお父さんに任せられるから安心して留学しようと思っていたのに!」


 晴紀もハラハラ。まさかの、自分の母親と彼女の父親がついてくる海外生活?


「わかってる、言ってみただけだ。ま、ちょっと羨ましいな。父さんもシアトル行ってみたいもんな」

「遊びにくればいいじゃない。お母さんとおいでよ。兄ちゃんに任せられるんでしょ、御殿場の医院も」

「そうだな。母さんと行ってみるかな」


 そしてちょっと寂しそうに博父が笑う。


「任せろ。美湖が帰ってくるまで、お父さんがこの診療所を守る。新しく赴任してくるだろう先生にも協力できるようにする」


 美湖がほっとした顔になった。


「ありがとう、お父さん。それだけが心配で……」

「美湖、頑張ったな。御殿場で父親と兄貴と一緒にやっていくより大学病院で頑張ってきた成果だ。父さんも医師として嬉しいよ」


 美湖が驚いた顔をして、次にはもう泣いていた。


「……なに、いってんの、いままで、そんなこと」


 父親はそう簡単に子供を褒めない。ましてや人の命を預かる職を目指した子供達には。晴紀にはそう見えた。

 そして美湖もなんの目標もないと言いながらも、やるべき一日一日を地味にでも小さいことでも積み重ねてきた結果なのだろう。その中には、意にそぐわなかっただろうこの離島への無言での赴任も含まれていたはずだった。


「晴紀君、美湖のこと、頼んだよ」

「はい。俺も頑張ります」


 彼女の父親に託され、晴紀も男としての夫としての決意を胸に刻んだ。


 


・・・◇・◇・◇・・・


 


 吾妻先生の結婚式が終わり、島の仲間も落ち着いて日常を過ごしている中、晴紀は渡米への準備に取りかかった。


 まず今治の伯父と従兄に会い、野間汽船での仕事の休職願いを申し出る。

 伯父も従兄も驚いた。美湖を留学させて、自分の往く道を固めようとしている広瀬教授の用意周到さと、母の清子が一緒についていくと言いだしたことに。

 だが伯父も従兄も賛成してくれた。ただし、晴紀にも条件が出された。『海運の仕事をすること』だった。つまり、晴紀にも渡米する以上、海外の海運を学んで来い、見てこい。おまえも留学だということだった。


 その手続きに住まい探しを伯父と従兄が協力してくれることになった。

 その伯父が少し興奮したように呟いた。『あの清子がね。息子が一緒とはいえ、海外で暮らしてみる気になるとはね』。妹に甘い兄貴として知られていたが、元気な気持ちに戻ってくれたことは喜んだのはもちろん、それでも、あの大人しい清子がそんな大胆な決意をするなんて『美湖さんの影響か?』と首を傾げていた。


 晴紀が漁協に同じように『先生の留学に母とついていく。帰ってくるまで休職か退職で』と申し出た時点で、島中に『美湖先生が留学する!!』と衝撃の伝達が広がった。


 診療所に次から次へと島民が押しかけてきて、『美湖先生、辞めないで』、『行かないで』、『これからどうするんだ』と詰め寄られる毎日となった。

 だけれど美湖もいつもの平坦な顔つきで落ち着いていて。


「条件なの! この留学を終えたら、この診療所を任せてもらえることになったの。それまで代わりの先生と父が来ますから安心してくださいね」


 そういって宥めるものの、やっと美湖先生に慣れてきたと安心しきっていた島民達は納得が出来ないようだった。


「大丈夫。広瀬教授が手配してくれる先生にもすぐ馴染むよ。誰がまだ知らないけど……」


 そこちょっと不安だなと美湖も唸っていた。次の医師が島に馴染むかどうかは来てみないとわからない。でもきっと、相良美湖医師にとってプラスの赴任だったことが次の医師のメリットにもなるはずと、広瀬教授の人選を信じるしかないと晴紀も聞かされていた。


 岡家の志津ばあちゃんも美湖がしばらくいなくなると知って、泣いてすがった一人。老い先短いのに、美湖先生が帰ってくるまで生きていないかもしれないなんて哀しいことを言いだしたので美湖も困り果てていた。

 また島に帰ってくることだけは皆に堅く約束をして……。美湖は志津と再会をしたいから、またマーマレードとマフィンを食べたいから長生きして待っていてと約束をしていた。



 美湖先生が留学するため、島を出て行く。

 そんな島民の衝動も徐々に落ち着きをみせ、美湖と晴紀もまた穏やかな二人の暮らしを取り戻していた。


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