27.甘く濃い花の色
晴紀が帰ってきた。夜明けなのに、すぐに美湖の部屋に来てくれた。
朝なのに。美湖の頭の中には、夕の酔芙蓉の花びらと色しか浮かばない。甘く濃厚なエロティックに開く妖艶な花びらのように。
白衣の医師として、頭の中にかかる酔芙蓉の色はどこかに消しておく。
消しておきながらも、ちょっと患者が引けて、カルテの整理などしているその時、美湖の頭の中にはまた濃厚な紅色に染まる。
美しいキスなんていらない。もうあられもない、誰にも見せられない生物的な、獣的なみっともないものでいい。
そういう、恥じらいのないセックスはこのうえなく気持ちがいい。美湖はそれを知ってしまった。
きっと。いままで、頭の良い男たちと、かっこつけたセックスしかしてこなかったんだと思った。
晴紀はまっすぐだし、健気だし、年上の美湖をがっかりさせまいといつだって一生懸命に尽くしてくれる。そして美湖はそんな晴紀を愛しく思って、だからこそ、自分も女として素直に恥じらいを捨てて、隅々まで彼を許して奥の奥まで開く。
晴紀が愛してくれた後は、強く吸われたあちこちが、強く擦られたあちこちが、少し痛んでもかえって心地が良い余韻を刻んでくれる。
そしてまた欲しくなる。もう枯れたと思っていたのに、いま美湖は盛りがついた動物みたいだと思ってる。
「もうね。帰ってくるなり、ぐったりして眠っているのよ。久しぶりに制服で帰ってきてびっくりしたけれど、最後のシフトが夜中でそのまま朝、郡中の伊予港から帰ってきたらしくて疲れているみたい」
晴紀が朝方帰ってきたその日の昼食時。キッチンへお世話に来てくれた清子がそう言ったことに、美湖は思わず身体を硬直させた。
「あー、朝方。帰ってきたよーというメッセージがスマホに入っていましたね……。あの後、ご実家で寝ちゃったんですね」
息子がいちばんに女医に会いに来たことには、美湖もとぼけておく。
「あの子ね。いつもスーツで島を出て行くでしょう。あれね……。船乗りの制服姿になると、ご近所さんが腫れ物に触るように敬遠しちゃったり、また船乗りに戻ったのか、事件はどうなったのかと気にしちゃうから。晴紀も周りと留守番をする私に気遣って、兄の会社で着替えて船に乗っていたらしいの。それが、今回は制服で帰ってきたりして……」
どういう心境の変化かしらと清子がいいながら、美湖を見た。清子が作ってくれた海鮮塩焼きそばを食べながら、美湖は目線を逸らす。
「美湖先生に見せたくなったのかしらね。白衣の立派な女医さんですもの。お姉様だし、対等になりたいと思ったのかもしれませんわね」
……そうだったのかな。だから朝一、帰ってきていちばんに美湖のところに来てくれたのかな。初めてそう思った。
晴紀が目覚めたら、清子は留守の間に起きたことをなんと報告するのだろう。泣いたあの日のように『美湖先生のことは諦めなさい』と母親として諭すのだろうか。
それでも美湖も報告済み。『小澤先生とのお見合い話は正式に破談となりました』と伝えている。清子は『そうでしたか。残念でしたね』と答えたが、その顔はただの真顔で本当はどう思っているのか美湖にはわからなかった。
「目が覚めたら、美湖先生のところへ晴紀が行くと思います。よろしくお願いします」
なんだか頭を下げられてしまった。つまりのところ……、いまのところはお付き合いしてもいいのかなと思いたかったが、いろいろと複雑な思いを抱えている母親に『おつきあいしていいですよね』なんて自分勝手なことは聞きたくなかった。
お昼休みが終わり、午後診療が始まる。
その日も穏やかに、島民の診察を終え、夕の色が映えてきた頃には、待合室には誰もいなくなった。
愛美がクローズする前に、待合室の掃除を始める。美湖も本日のまとめ、再確認、夕方の雑務に入る。
残暑も終わり、蝉の声も聞こえなくなってきた。気候もいい時期だからなのか、ここ十日ほど患者数は少なめ。だから今日もこの時間は静かな診療所。
「先生!」
開け放している診察室のドア、開けっ放しぱなしにしているそこに、シャツと短パンというラフな島男の姿に戻ってしまった晴紀が立っていた。息を切らして、眉間に皺を寄せて顔をしかめて。
「あら、目が覚めたの? だいぶ眠っていたんだね」
神経を使う長い航海を終え、島に朝一番に帰ってきて、年上の恋人の部屋をすぐに訪ねて。そこで朝の時間ギリギリまで裸で抱き合った。晴紀の気が済むまで、何度も。気が抜けた男は実家に戻ると、泥のように眠って起きないと母親が言っていた。そしてこの時間。
晴紀がどうしてその顔で慌てるように駆け込んできたのか、美湖にもわかっている。
予想どおりに晴紀が叫んだ。
「センセ、実家からお見合いの話があって、それで、それで、相手も医者だって……。お兄さんの後輩だって……、御殿場のお父さんが勧めて、その男がここまで会いに来たって!」
やはり清子が報告していた。目覚めて、遅い時間の昼食を母親からもらってその時に聞いたのだろうか。
「ハル兄……」
受付で雑務をしていた愛美も、幼馴染みの声が聞こえて診察室に顔を出した。彼女の顔を見て、晴紀があの睨む眼差しになる。
「マナ、おまえ、先生の見合い相手、見たのか」
少しだけ愛美も戸惑っていたが、すぐに彼女も真顔になって応える。
「うん。ここに直接、訪ねてきたもの。診察も手伝ってくれたし、空君が夜間に発作を越して急患できたらしいけれど『小澤先生』と美湖先生だけで処置してくれて収まったよ」
医師と医師の共同作業、そして、この診療所まで会いに来た男と美湖が素直に対面していたことが『真実』だと晴紀もやっと認識したようだった。
「清子さんから聞いたの」
「……目が覚めて、メシ食いながら、留守になにかなかったか聞いたら。そういう話をいっぺんに……、驚いて、俺……」
「ここ診療所、スリッパはどうしたの。裸足だよ」
美湖がそういうと、晴紀も自分の足下を見てやっと気がついたようだった。慌てて診療所に上がり込んできたのがわかる。
「清子さんから聞いたなら、もうわかっているでしょう。結果」
息を切らしている晴紀がそれでも、苦悶の表情でいる。
「聞いた。美湖先生もあっちの男も断ったて。会ってきちんと確認したことだから、これはそういう話で終わったって。母ちゃんから聞いた」
「それから……?」
清子がそれから息子になにを言ったのか。美湖が気にしているのはそこ。
「それから……? いや、それだけ聞いてもう、ここに走ってきていた」
なんてことでしょう。お母様の意向を知ることが美湖にもできなくなってしまった。
留守の間に、年上の恋人に実家からお見合いのお話。お相手は自分より十歳も年上の男で、彼女と同じお医者さん。彼女の父親も認めて、男は彼女の兄の後輩。辛い過去を保つ年下の恋人なんて、頼りなげな自分の男としての経歴に自信がなくて来てしまったんだと美湖は思った。
それでも……。美湖は嬉しい。こんなふうになりふりかまわず、まっすぐに来てくれる彼の気持ちが、いつだって美湖を揺り動かす。
「ハル君。ここ、座って」
診察デスク、自分が座っている椅子のそばにある患者用の椅子を美湖は差す。
晴紀も素直に診察室に入ってきて、白衣姿の美湖の目の前に座ってくれる。
「ハル君。びっくりした?」
晴紀が素直に頷いた。
「でも、信じてくれるよね。私がいま好きな男はハル君だよ」
うつむいていた晴紀が驚いて顔を上げた。後ろに控えて様子を見てくれていた愛美もだった。
「今朝の……、私は……、どこかに行ってしまいそうな女……だった?」
そこに愛美がいたから言い辛いことだったが、それでも、もういいと美湖は思った。愛美にもいつか言わねばいけないと思っていたし、知っておいてほしいと思って。そして、いま、晴紀にはこう言っておかなければならない。
「ハル君、晴紀君。私はどこにもいかない。ここにいる。いまは、あなたと一緒にいるよ」
だから実家からのお見合いなんて、実家の家族の意向なんて、今の私には関係ない。私の気持ちは今朝のまま。薄紅に染まった花のように、いま晴紀のそばで色づいてしまっているから。
「先生……、でも、俺は」
「まだ言うの。晴紀君は人殺しではないし、見合いに来た男性と同じように、立派な職業を全うしている男でしょう。海運は日本の物資を支えているのよ。大事な仕事でしょう。医者だけが立派なんて誰が決めたの。船が動かなくては日本が死ぬ。医師も仕事ができない、たくさんの薬品の素材も輸入に頼っているんだから」
「だけれど、俺はいま……」
「働くスタイルは人ぞれぞれ。今は、気持ちを整えなくてはならなかったお母様を案じながら、実家にいるべき時期だっただけ。そうよね、愛美さん」
美湖のはっきりとした気持ちを聞き届けていた愛美は茫然としていたが、美湖の問いかけにうんと強く頷いてくれる。
「そうだよ。ハル兄。美湖先生がいう通りだよ。仕方がなかったんだから。いまは、そうして暮らしていく時期なんだって。ハル兄のほうが、美湖先生のことよっぽど知っているし理解していると思うよ」
幼馴染みの後押しもあって、やっと晴紀の表情が落ち着いてきた。
それを見た愛美が言う。
「成夫兄ちゃんも、圭ちゃんも、そう言っていたよ。ハルが美湖先生と出会ってからだいぶ明るくなったし、ハル兄が美湖先生を気に入っていることもわかっていたって。知らないふりして、二人のことはそっとしておこうていうから、私も……気がついていたけれど知らないふりしていた。だから、お見合い相手が来た時は私も慌てて、小澤先生なんてさっさと帰ればいいのにと思っていた……」
晴紀の幼馴染みの青年二人、そして愛美もそっと見守ってくれていたとのことだった。
「先生。あの、本日はもう失礼してもいいですか……。お二人でゆっくりお話ください」
「ありがとう。愛美さん。そうする。お疲れ様でした。……、お兄様とご主人にもよろしく伝えて」
愛美がすっと看護師姿のまま受付奥にあるロッカーに消えていった。彼女の帰り支度が終わるまで、美湖はそこで雑務を続けた。晴紀は患者の椅子に座ったままじっと黙っている。
彼女が診療所を出て行く、ドアが閉まった音を聞いて、美湖はペンを置く。
そして聴診器を首にかけ、耳にあて、そのまま晴紀に向けた。
「はい。シャツをめくって」
「え……」
「めくらなくてもいいか。はい、胸の音を聞きますよ」
構わず、晴紀の綿シャツの上に聴診器を当てた。晴紀がギョッとしたが続ける。
「呼吸、早っ。なにいつまでドキドキしているのよ」
「はあ? 寝起きで食べているところびっくりして、すんげえ勢いで走ってきたし! 先生ばっかり、自分のこと話してさっ。しかも、愛美の前で平気で!!」
「ほらほら。怒ると血圧上がるよ。ついでに調べようか」
「いいよ、そんなことしなくてもっ」
さらに美湖はそばにある紙コップを差し出した。
「はい。やっとこう。健康診断。おしっこ、取ってきて」
「もう、なんなんだよ!!」
なのに、晴紀は怒りながらもほんとうに紙コップを持って立ち上がった。
「あれ、今回はその気になったの」
「全然、平気だからな。先生に調べられても! というか、先生だから全然平気だからなっ」
「今度ー、あれが終わった時の、ハル君の心音を聞かせて」
とうとう晴紀が真っ赤になった。
「そんときは、俺よりセンセのほうがぐったりしているだろっ。もう、ほんと。そいつ、先生と結婚しなくて良かったと思う……」
「そうだねー。絶対に幻滅していたと思うよ。こんな私をかわいがってくれるのハル君だけだからね」
「そう思ってるよ、もう! ゆっくり話すんじゃなかったのかよ! 相変わらずの口でびっくりする、マジで」
こんなかわいげない人、誰も相手にできないから俺だけ――と思ってくれたようだった。美湖もそう思っているけれど、やっぱりかわいくない切り出し方になってしまう。
でも。わかいくない噂が気になって会いに来た小澤先生だったから、彼も大人の顔でどう反応したのかなとちょっとだけ気になってしまった。
「今朝、すごかったから、もう今夜はさすがのハル君も無理だよね」
「診察室では不埒な質問には返答しない」
なんてい言いながら、ほんとうに紙コップ片手にトイレに行ってしまったので、美湖は笑ってしまった。
健康診断をするなら、前の晩の夕食後から食べちゃいけない状態でしたいから調べても無効なんだけれどね……と、心の中でからかったまま。
青くきらめいていた島の夏が終わろうとしている。
爽やかな秋晴れのその日。昼下がり、また診療所へ美湖を訪ねてくる男。
海の色が今日も綺麗だなあと、九月の終わりの色を目の前に、この日も早めに患者が引いて診察室で雑務をしている時だった。
『ごめんください』
愛美の返事がない。そうか。高橋のおじいちゃんに薬を届けにでかけていたんだっけ――と、美湖自ら席を立つ。
「はい。診察ですか」
診察室を出て、待合室と受付の向こう。玄関に立っているスーツ姿の男を見て、美湖は絶句する。
「お、お父さん……!」
「久しぶりだな。本当に遠かった」
お見合いが破談の後も、父さんは機嫌が悪い。でも、もう俺も思い当たる男がいない。父さんも気に入る男がいないみたいだ。あの後、兄からそう聞いていた。
そうしたら、今度は本人が来てしまった。
まさか。また見合い? それとも強制送還!? 久しぶりに父と目が合い、美湖は震え上がった。
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