26.おかえりなさいは、かわいくね

 ダイニングでひととき、家族や彼の近況に仕事、彼の家族についていろいろと話した。愛美は『二人きりにしたくない』とむくれていたが、夫が待っているだろうからと美湖から帰宅させた。


 診療所の窓の茜が消えて、薄紫の夜空が見えた頃。和哉が帰り支度を始める。


「綺麗にリフォームされているご自宅で快適そうですね。これならお兄様もお父様も安心でしょう。そう伝えておきます。ですが、お一人で寂しくないのですか」

 眼鏡の男がスーツ姿で、診療所の玄関で革靴を履く。

「はい。色が鮮やかなので飽きません。お向かいの重見さんが大家さんなのですが、よく世話をしてくださいますし、庭の花も海の色も、それから……、少しずつ馴染んでいく島民の方から受け取る気持ちが、思った以上に心地がよいです」


 また彼が眼鏡の奥から、険しい眼差しを見せた。


「心地がよいからこそ、突き落とされますよ。いざというときは。大輔先輩から聞いています。妹は気が強くてクールに振る舞っているが、その実、お父様と同じで熱血なので傷つく時は深く傷つくだろうと……」


 その言葉にも美湖は動揺してしまった。それはずっと忘れていた自分そのものだった。そして島に来て薄々感じ始めていた、思い出して来た『いつかの自分』だった。


 彼に手渡していた靴べら、それを彼が指しだして美湖に返そうとしている。


「僕も、いえ、俺もまだ結婚は――と思っているので。もし、辛くなることがあればいつでも思い出してください。これ、連絡先を。ちょっとおせっかいな先輩が、後輩の女医さんを心配している程度のことだと思って受け取ってくれませんか」


 大人の気遣い。美湖の医師としての心を揺らされてしまい、それを受け取ってしまった。


「今日は、ここまでありがとうございました」

「楽しかったですよ。それでは、また明日」


 最後に顔を見せに来ますと、白いシャツにネクタイ姿の男が暗くなった診療所の玄関を出て行こうとした時だった。

 彼がドアを開ける前に、誰かがそこを開けた。


「先生! 空が、また!」

 小さな空君をおぶさった藤田ママが飛び込んできた。

 彼女の背中でぜえぜえしている空君の顔が青ざめている。


「夕方になって咳が出ていると思ったら、あっという間に!」

 美湖は和哉と顔を見合わせる。

「こちらに連れてきて」

 白衣をひるがえし、美湖は診察室へ急ぐ。


 和哉も履いたばかりの革靴を脱いで、藤田ママから空君を受け取り、男の逞しい腕で抱いて連れてきてくれる。


「小澤先生、こちらに」

「手伝います。喘息ですか」

「そうです」


 和哉もネクタイを緩め、ワイシャツの袖を捲った。二人一緒に聴診器を耳に当てる。和哉がさっと空君のティシャツをめくって素肌にしてくれる。そこにすかさず聴診器を当てる。


 いつも以上の症状だった。

 美湖が聴診器を外すと、和哉も同じように胸の音を確認している。

 美湖は吸入の準備を始める。愛美がいない分、そばで和哉がフォローしてくれる。


「相良先生、ネブライザー吸入準備します」

 彼が吸入機器をそばに持ってきてくれる。美湖は薬品の準備。茶色の薬瓶から注射器で薬品を計る。

「ベネトリン、生食入れます」

 美湖が薬品を機械に投入すると、和哉が電源を入れる。吸入させる管を手に持ち、美湖は空の小さな頭を持ち上げ口元に近づける。


「空君。美湖先生だよ。わかる? しゅわしゅわしようか」

 力ない反応だったが、少しずつ呼吸は出来るようだった。額に玉汗が浮かんでいる、とても苦しそうな子供の顔に美湖の心がつぶされそうになる。


 先生、言ってくれたではないですか。息子は助かるって!

 昨日まで、あんなに元気だったではないですか!

 これぐらいの子を助けられなかった記憶が奥底から湧いてくる。押し込めていた記憶が、気持ちが、乗り越えたはずのものが。


 吸入開始からしばらく、ガイドラインの時間内に改善がみられなかった。

 藤田ママがいつもより時間がかかっているのでおろおろしはじめた。


「先生、空……、市街の病院に搬送した方がいいですか。間に合いますか! 船で搬送中になにも起きませんか、市街の病院までちゃんと、空の呼吸、保ちますか……!」


 島に住む者の動揺に引きずられるかのように、和哉も僅かに焦燥の目の色を眼鏡の奥から滲ませている。


「相良先生、港病院で処置するか、救急艇を要請するかのほうが……」

 美湖は毅然と答える。

「いいえ。ステロイド点滴で様子を見ます」

 薬品棚からこのようなことがあるかもしれないと準備していたものを取り出す。

「小澤先生、スタンドをお願いします」

「はい」

 和哉もワイシャツ姿のまま懸命に動いてくれた。美湖も点滴を施しながら、藤田ママに真顔で告げる。


「これで様子を見ましょう。季節の変わり目で朝晩の気温差が出てきたからでしょうね。そろそろだと思っていました」

「あの、ほんとうにこれで……」

「港病院にはいざというときのために連絡を入れておきます。点滴が終わるまで少し時間がかかりますから、お母さん、空君と一緒に、うちのリビングでお休みになられてはどうですか」

「でも、あの」

「一階のリビングはほとんど使っていないの。私は独身だから、こぢんまりとした二階の一部屋で充分なの。小澤先生。空君とお母さんが横になれるよう準備しますから、ここをお願いします」

「わかりました。相良先生……」

 その時には、点滴が効いてきたのか空の呼吸が穏やかになり始めていた。あんなに大人の男として頼もしかった彼も、額の汗を拭っていた。


 あまり使っていないリビングのソファーにタオルケットと毛布を準備する。その床にも布団とタオルケットを準備した。

 男の手があって助かった。しかも同じ医師。和哉と一緒に空の小さな身体をリビングのソファーに寝かせて、美湖は点滴の管とスタンドを整えた。ソファーの下で母親が付き添えるようにして。


「テレビを見て良いですからね。空君、好きなもの見て良いよ。先生のおうちのリモコン。使ってね」

 空にリモコンを握らせると、やっとちょっぴり微笑んでくれる。

「そこにいます。点滴が終わりそうになったら呼んでくださいね」

 リビングのガラス戸を閉め、美湖は和哉と共に診察室に戻った。かすかにテレビの音が聞こえてきた。空が見たいと子供らしくママにねだったのだろう、美湖もほっとする。


 診察室で処置をした片づけをしていると、和哉が患者椅子に座ってうなだれた。

「俺、偉そうなこと。ほんとうにほざいていましたね」

 美湖は黙って答えなかった。

「あれぐらいの処置、毎日当たり前のように行われているのに。なんだろう。もの凄く恐ろしかった」

「島の住民は少しのことが命取りになるので、海に阻まれることを考えると、あのようにとても不安に駆られるものなのです。島に勤める医師も同じです。吾妻先生は島から出る仕事を嫌がるほどです。都市部ではすぐそこにあることが、ないものですから」

 和哉が黙り込んでしまった。そして動かなくなった。美湖も暫くはそっとしてみる。診察デスクの椅子に座って、空のカルテを作製していても、和哉はじっと黙っている。


「美湖さん。お疲れ様でした。俺は帰ります」

「小澤先生、ありがとうございました。いろいろ助かりました」

 だが和哉はゆるく笑って言った。

「いや、助けられたのは俺でしょうね。情けない。現実がわかっていないのも自分でした」

 彼も島の洗礼を受けてしまったようだった。

「さよなら、美湖さん」

 眼鏡の男が笑って背を向けた。

「小澤先生?」

 診療所の玄関、今度は自分で靴べらを持って革靴を履いて出て行ってしまった。


 また明日来ます。そう言っていたのに。翌日、彼は来なかった。



 

 その日の夜になって兄の大輔から電話が来た。


『小澤が会いに行ったんだってな』

「うん。いろいろ助けてくれたよ。帰る日にまたご挨拶に来ますと言っていたのに来なかったの……。前の晩の喘息の処置の後なんだか元気がなくなっていたみたいで」

『そういっていたよ。男としても医師としてもまだまだだったってね。父さんに正式に断りの返事があった。美湖と会ってお互いに気持ちを確認したうえで、自分ももう少し精進したいってさ』


 彼からも断りがあったとのことだった。


『でも。渡した連絡先はそのまま持っていて欲しいと言っていた。それってなんだ? 結局、上手く行きそうなのか?』


 兄は訝しそうだったが、美湖には通じた。医師の先輩として困ったことがあれば、いつでも――という意味なのだろう。


「小澤先生によろしく伝えて。お会いできて良かったと」

『はあ? 訳わからないな。おまえもまんざらでもなかったんだろ、な、だったらお互いに連絡を取って定期的に会えばいいじゃないか』

「わかってないな。兄ちゃんは。男のプライドってものがあるんでしょ。根ほり葉ほり聞かないであげてよ。そっとしておいてあげて」

『父さんが、がっかりしている。小澤がさっと引いてしまったものだから、美湖が嫌がるよりも押し通せなくなって』


 知らないよ。そんなこと。父さんの思惑が外れただけ。

 でも父と兄の人選は間違っていなかった。心より医師だからこそ、今回、彼は退いてしまったのだから。


 


・・・◇・◇・◇・・・


 


 初秋の夜明け、少しずつ太陽が昇る時間が遅くなっている。

 それでも開けている窓から入ってくる風は涼しく、心地よい。海猫の声が穏やかな目覚まし。


 寝る時に傍らに置いているスマートフォンから通知音。明け方は晴紀がシフト交代で仮眠前にとメッセージを送ってくることも良くある。

 今日はどこにいる、どこへ行くのか。そして夜空や夜明け、海峡の美しい画像もよく送信してくれるようになった。


 寝ぼけ眼でメッセージをなんとか確認する。


【ただいま。いま診療所の前。鍵、開けてそっちに入っていいかな。五分経っても気がつかなかったら、実家に帰る】


 びっくりして美湖は飛び起きる。たまたま海猫の声でうっすら目覚めていたから、通知音に気がついたけれど、もしかしたら寝入っていたかもしれない明け方。でも偶然にも気がついたから、美湖は薄着姿のまますぐにメッセージを打ち込んだ。


【いま目が覚めたところ。いいよ。鍵開けても】

 合い鍵を渡す云々しなくても、晴紀は大家だから元々、この家の鍵は持っている。でも、美湖の部屋を訪ねてくる時は突然でも勝手でもなく、きちんと断りを入れてから来てくれる。


 キャミソールとショーツだけで眠っていたので、美湖は慌てて部屋着のカットソーとラフなワイドパンツを手に取る。

 でももう階段から彼が上がってくる足音が聞こえる。ドアからノックの音。


『センセ、ただいま。開けていいかな』

 寝姿のままベッドを降りながら『いいよ』と答えてしまう。ドアが開く。待ちに待っていた彼のおかえり。……と、ひと目、晴紀を見て美湖は絶句する。


 そこには真っ白な制服姿の晴紀がいた。肩には黒い肩章、金色のラインついている。そして白と黒の制帽。『え、自衛隊さん???』と思ってしまった。


「ただいま、美湖先生」

 晴紀も初めて制服姿を見せたせいか、少し躊躇っていて、まだ部屋に入ってこない。


「ハ、ハル君……、その、かこっう??」

「今回の船は制服を着る船だったんだ。内航船だけれど大きなコンテナ船。それでいつもより派遣期間が長くて、しかもそこの郡中港で勤務終了だったから港からそのまま直帰。着替えるのがめんどうくさくて、このまま帰ってきた」


 やっと、照れている晴紀が美湖の部屋に入ってくる。


 立派で素敵すぎて。美湖は思わず自分のあられもない姿を思い出して、ベッドからタオルケットを引きずって胸元を隠した。

 なのに。ドアを閉めたばかりの晴紀が、そこで緊張がとけたようにくすっと笑った。

「え、なに? なんで笑うの」

「センセらしくて。ひと目見て、あー俺、島に帰ってきたんだとやっと思えて」

「だって! 寝起きに帰ってきたのハル君じゃないの。ズルイよ! 自分はそんな立派な素敵でかっこいい制服姿でビシッと決めて帰って来るだなんて! せめて、白衣を着ている勤務時間中だったら張り合えたのに!」


 いつもの気強さで言い返すと、もうそれだけで晴紀がお腹を抱えて笑い始める。


「あー、ほんっと、俺、いま島に帰ってきたんだ! そうそう、もうセンセのそのかわいげのなさ、たまんねえ! 白衣で張り合うってなんだよ、それ!」

「もう~! こっちだって、待ちに待っていたのにバカバカしい!!」


 ついにタオルケットを放り投げ、キャミソールとショーツ姿のまま美湖はひたすら憤慨。余計にハルが『あはは! やっぱ美湖先生だ』と笑っている。


 こんの生意気な男め。こっちは息子を案じるお母さんと泣きに泣いて、見合い相手も受け入れて、真っ正面から話し合って、なんとか『さよなら』して待っていたのに。許さない!


 許さない、許さない!! そう怒りたくなればなるほど……。美湖は立派な船乗り制服姿のハルを見て、涙が滲んできた。


「センセ?」

 ハルもやっと気がついた。

「待っていたんだから」

 まだ薄い紅紫が差してきた夜空に残る星、明け方の黄金が滲む水平線、朝の空気の中に海猫の声が響く。


 淡い紫色に染まる女医の部屋、晴紀もやっと笑い声を収め、美湖の顔を真顔で見てくれる。


「ごめん、センセ。でも、すぐに会いたくて、俺も、このまま……来たんだ」

 男の切なそうな目を見て、美湖も堪らなくなって薄着姿のまま、部屋に入ってこない白い制服姿の男に歩み寄り抱きついた。

「おかえり、待っていたよ。なんか、今回……、長く感じた」

 それはこの男に恋をしてから、初めての航海で留守だったからかもしれない。


 晴紀の白い制服の胸、そこに彼も美湖の頭をぎゅっと抱きしめてくれる。

「俺もだよ」

 やっと目と目が間近で合う。

「センセ、なんで泣いてんの」

 もうバカ。聞くな。むしろそこんとこ『俺が待ち遠しくて泣いてくれたんだ。センセもかわいい』としてくれないかと美湖も思ったが、そんな恥ずかしいことヤダと至り、無愛想にむくれた顔のままにしかなれない。


「うるさいな。こんな格好で現れるからだ。もう脱がしちゃえ」

 少し開いている夏制服だろうシャツ衿をわざと開いて困らせようとした。

「いいよ。俺も……、こんなセンセ見ちゃったら、もうその気にしかなれない」

 自分が薄着だったことに美湖もうっかり今頃気がついた。やり返すつもりが、やり返されてる。

 晴紀にキスをされて、口元をふさがれてしまったから、美湖ももう抵抗できない。

「センセの匂いだ」

 黒髪、耳元にもキスをされる。昨夜使ったシャンプーの匂いが鼻を掠める。ハルもその匂いを吸い込んでいる。


「かわいくない口ぶりの先生に会えるの、楽しみにしていたんだ。センセはそうでなくっちゃ」


 いつもの熱くて深くて激しいキスで黙らされてしまう。美湖は……、晴紀のこの情熱的なキスに弱い。最近、そう思っている。


 帰ってきたばかりの晴紀の黒髪は潮の匂いがした。初めて抱き合った時、海の中に入った後に抱き合った時と同じ匂いがする。


 本当に彼は海の男なんだと思った。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る