24.息子のことは諦めて
恋した彼の母親以上に、美湖は清子という女性を信頼している。
実家の父からの見合い話を拒絶するのは、息子『晴紀』のためなのかと詰め寄られ、美湖は観念する。
「はい、そうです」
美湖が正直に答えたせいか、向かい側に座っている清子もかえって驚きの顔を見せた。
そして次にはいつもの柔和な表情に戻った。
「美湖先生。ありがとうございます」
頭を下げられてしまい、今度は美湖が困惑する。
「あの、でも……。仕事でこの診療所へ来たのに……、そこで出会った男性と……とは思っています」
「お仕事をきちんとされていることも、それ以上に駆け回ってくださっていることも、この地区の住民はみな知っておりますよ。そして先生にもプライベートはあります。それは先生の自由です」
彼の母親にそう言ってもらえると、美湖の心の重しが少し軽くなる。
「そして、あのように事情を抱えている息子と真っ正面向きあって、接してくれたことにも感謝しております」
もしかして。許してくれているのかな、これから恋した彼とそのお母さんとして、またいままでどおりに楽しくやっていけるのかと美湖も笑顔を見せたくなった。
「ですけれど。先生、所詮、この島で赴任している間の、一時的な恋だと割り切ってくださいませんか」
また清子の顔が、厳しい母親の顔に戻ってしまった。そして美湖は青ざめ、言葉を失う。なにも言い返せない。
一時的な恋なら黙ってみているつもり――ということらしい。息子の恋をそうして終わらせようとしている母親のその心が美湖にはわからない。
「お聞きになっているのでしょう。晴紀が商船会社を辞めて船を降りたその訳を」
「晴紀君自身から聞きました。私は晴紀君が悪いと思っていません」
「私もですよ。息子はまっすぐ育てたつもりです」
「お母様が信じているならば、私も同じです。どう噂されようとも、私は平気ですし、むしろ晴紀君は潔白なのだから――」
「潔白なのだから――、人ひとりが亡くなってしまうきっかけに関係していた息子はなにも気にせずに生きてゆけるとおっしゃっているのですか」
毅然とした清子の瞳はいつも以上に光を持っていると美湖は感じた。また、なにも言えなくなる。今度は清子が言っている意味がわかるから。
「手をかけてなくとも、容疑が晴れても、起訴はされなくとも。あちらの親御様が民事の訴えを下げてくださっても。晴紀は亡くなられた男性の死に関わっています。これからもずっと、関わって弔っていかねばなりません。母親の私もその所存です。ですから、島を出ず晴紀と二人で終えるつもりです」
母子の決意を初めて知る。その罪の重さを背負っている決意は美湖が思っている以上のものだった。
「診療所を所有している土地にと、広瀬教授と吾妻先生の提案に応じたのも、ある意味罪滅ぼしです。少しでも命にお役に立てることがあればと思ってのことです。美湖先生のような、一生懸命してくださる先生がいらしてくださって本当によかったと思っております」
美湖はまだ清子が話す間に言葉を挟めず、いまになって『人の死』に関わった母子が足枷をつけて生きている重みをまざまざと突きつけられてしまい、血の気がひいている寒さを覚えなにもできない。
「ですけれど。多少、息子が不憫なのも……、本心です。まだ二十代の男の子です。その子が恋をしてしまったのに、止めることができませんでした。また恋をしている女性が私も大好きになってしまった方でした」
そこでやっと美湖は顔を上げる。目があった清子はもう泣いていた。
「あのことがなければ……。私はよろこんで、息子と先生を祝福します。ですが、いまはできません。先生のご家族に申し訳なく思っています。きっといつか先生のご実家には、晴紀のことは知られてしまうでしょう。そうなる前に先生、気乗りでなくともお見合いしてください。先生、島にいるのはきっと一時ですよ。私は晴紀を島から出すつもりはありません。晴紀にももう一度そういいます。晴紀には諦めさせます……」
「いいえ、清子さん。それは……!」
美湖が反論しようとするのを阻止するように、清子は少し不自由な足を一生懸命引きずって、勝手口から出て行こうとする。なのに、彼女も慌てているのか靴がうまく履けずに、転んでしまった。美湖も驚いて勝手口の床に転がった清子へと駆け寄る。
身体が軽い彼女をそっと美湖は腕の中に抱き起こす。もう清子の頬は涙で濡れに濡れて汚れていた。しかも美湖の白衣に抱きついて、おいおいと泣き始めてしまう。
「死のうとしたんです。あの時。亡くなられた男の子に償うために。晴紀にはいまでも黙っていますが、あちらの親御さんが私のところに来て、随分とお怒りになって……。刑事が駄目なら民事で訴えると息巻いて……。その後なんです。私、死のうとしました。お風呂場で」
感情が高ぶっているから、清子が思わず叫んでいるのだと美湖は思ったが、その内容がまた衝撃的すぎる。
風呂場で転んだんじゃない。首をつろうとして失敗して転んだ、骨折をしたがそのまま死のうとした。でも死ねなかった。晴紀は知らない……?
清子も動転していたのかハッと我に返ると、美湖の白衣の衿をひっぱって訴えた。
「せ、先生……、いまのこと、晴紀には……」
「言いません。言える訳がありません」
「言わないで、先生。お願い、お願い」
美湖はそのまま清子をそっと抱きしめた。
「清子さん。私も、清子さんのこと大好きですよ。お願いだから、責めないで」
美湖が抱きしめると、清子は白衣の胸元で堰を切ったように呟き始める。今治の兄があちらのご家族と話をつけてくれて大事にはならなかった――と。警察の取り調べもあったが、晴紀は容疑者ではなくて重要参考人、商船会社でも事故で処理された。晴紀の同僚も上司も『重見のせいではない』と誰もがかばってくれた。それでも晴紀は自分を許さなかった。まっすぐな子だから。そして母親の自分も、親御さんの責めを聞いてしまっては、どんなに晴紀が殺したわけではなくとも、追いつめた罪があると思った。人間関係を円滑に運べなかった先輩としての責任がある。晴紀はそう思い島に帰ってきた――と美湖は聞かされる。
「だから。先生。いまなら間に合います。晴紀のことは忘れてください。お見合いを断るにしても、これをきっかけにご心配されているご実家に戻られてはどうですか」
泣きさざめく清子が美湖の胸元から泣きはらした目で見上げている。今度は美湖が毅然と答える。
「嫌です。晴紀君云々のまえに、私は仕事でここに来ています。辞めてしまえば、吾妻とも広瀬教授とも離れてしまいます。私にも多少の打算があってこちらに来ています。ここに来るまでも来てからも私は自分ひとりでここまでの経歴を作ってきたんです。それを、放り投げろとおっしゃるのですか」
大学病院での経歴を、教授とのツテを切れというのかと美湖はワザと怒った顔を見せてしまう。さすがに清子が怯んだ。
「いえ、そういうわけでは……」
「とにかく。見合いのことは私と実家の問題です。父にはもう一度連絡しますし、会うにしてもそれから考えます」
そうしてひとまず清子を安心させようとした。
「それから……。清子さん……。医者だって、『人殺し』ですよ」
思わぬ言葉だったのか、清子が目を見開いて美湖を見上げ凝視している。
「私にも……、助けられるはずだったのに、そうできなかった『命』がいくつかあります。どうしても忘れられない患者さんも……。その時、医師も遺族に言われることがありますから……」
「お医者様は人命を助けるお仕事、致し方ないこともありますでしょう」
「致し方ないという言葉が通用するのならば、晴紀君も同じではないですか。私も同じですよ。助けられなかった命を背負っている……」
遠い昔。涙を捨ててやると誓った日がある。その時、美湖はまだ若く呼吸器外科に来たばかりの頃に。どうにもならなかったことで感情的になったのはあれが最後。吾妻に『よく耐えた、乗り越えた。おまえはいい医者になるよ』と言われたあの日から、美湖はなにに置いても適度に感情を処理することに努めた。泣かない、怒らない、笑わない、楽しまない。ひとりの医者になるために。
それがどうしたことか、この島で崩れてしまった、と思っている。
「清子さん。お願い。晴紀君のことはともかく、私はこの診療所での仕事を勤め上げたいの。そこは清子さんもお仕事として割り切っていただけませんか」
清子が涙を拭いた。
「わかりました。先生。取り乱して申し訳ありませんでした」
清子が美湖の胸から立ち上がる。そしてまたキッチンへと上がった。いつもの昼食調理人としての役割に戻ったのだと思った。
だから美湖も椅子に座り直し、本日の昼食を食べる。
テーブルに置いていたスマートフォンには何度か兄からの着信歴が。メッセージアプリには【父さんがめちゃくちゃ怒っている。あとで連絡しておけよ】とだけあった。
その日の夕方、美湖はようやく自分から父親に連絡をした。
「お父さん、感情的になってごめんなさい。いまこの仕事を勤め上げたいの。やらせてほしい。これが終わって帰ったら……、見合いでもなんでも……、お父さんのいうこと考えてみるから。気がないのに会うのはお相手に失礼だと思うの」
父の返答は『わかった。もういい』だった。その声は非常に不機嫌なもので、父は納得していないと美湖は思っている。
・・・◇・◇・◇・・・
夜の潮風が涼しくなった。夏の輝きがおさまって、涼しげな深い青へと移ろう海の色。
朝晩が過ごしやすくなり、よしずの朝顔もひとつふたつしか花を開かなくなる。庭先には秋の始まりを告げる花が咲き始める。
美湖の二階の部屋、その窓辺に見える酔芙蓉の蕾がつきはじめる。ひとつ花が開いて驚いた。朝は白い清楚な花が、夕になると妖艶な紅色に染まる。美しい花だった。
晴紀が帰ってくるまであと三日ほど。美湖は構えている。きっと清子が『美湖先生にお見合い話があった。先生はいつか島を出て行く女性。諦めなさい』と帰ったばかりの晴紀にいうに違いない。晴紀も驚いて、また心を暗くして美湖に遠慮してしまうのではないかと構えている。
帰ってきたらすぐに。自分のいまの気持ちを、まっすぐにまっすぐに、私から伝えなくちゃ。『かわいくない』ことをしている場合じゃない。美湖はそう決めていた。
晴紀の帰りを待っている初秋、暑さも和らいできた午前の診療時間。
今日も順番待ちの島民を診察していると、受付カウンターから元気な声が聞こえてきた。
「ごめんください。おじゃまいたします! 相良先生はいらっしゃいますか!」
定期的にやってくる薬品会社の営業さんとは異なる声だったので、一緒に診察をしていてた愛美が受付へと確認へ向かう。
『診察ですか』
『いいえ。お忙しいところ申し訳ないのですが、相良先生にお会いしたくて』
ん? 誰だろう。近所のおじいさんの胸に聴診器を当てていた美湖も集中力が切れた。おじいちゃんも気にしている。
『どちら様ですか』
愛美の問いに彼が答える。
『小澤和哉と申します』
その名を聞いて、美湖はぎょっとして聴診器を外した。
「先生、どないしたん?」
診察をしていたおじいちゃんに異変を気がつかれてしまう。美湖も我に返り、聴診器をもう一度耳に付けなおした。
「いえ、なんでもありません」
だが愛美が動揺した表情で帰ってきた。
「あの、先生……。小澤様という方が」
「き、聞こえた。奥のダイニングで待っていてくださるように伝えて」
「どなたですか」
愛美とおじいちゃんの視線が、動揺を隠せない美湖へと直撃。
「兄の、医大時代の後輩さん」
「そうですか。わかりました。でも、……」
兄の後輩がわざわざ妹が勤めている島までくるものなのか――と愛美が不思議そうにしている。それは目の前のおじいちゃんも。
「もしかして。先生の、別れた恋人ってやつかいね」
「違いますっ」
この島に来た時に『別れた恋人がいた』噂は既に流れていたからなのだろう。
しかし絶対に『見合い写真の男だ』なんて口が裂けても言えなかった。別れた恋人が会いに来たという噂が流れた方がまだ幾分か良い気がする!
それでも美湖の動揺は収まらない。どうして、何故、断ったのに会いに来た? しかも本当に島まで来た!
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