33.お父さんといっしょ

 島に赴任してから、初めて市外へと旅をする。まさかの父と一緒に。

 島のフェリーから松山市内、JRから特急しおかぜに乗り今治を目指す。


「従兄の慶太郎君とコンタクトができて、アポイントが取れた。伯父さんは忙しい方のようで今日は会えるかどうからしい」

 並んで席に座っている父からの報告に、美湖はほっとしたような会いたいような複雑な気持ちになった。

 今日は美湖もきちんと白いブラウスに黒の女らしいスーツの装いにした。父も少しかしこまったふうのネクタイを選んでいる。


 松山市を抜けてしばらくすると北条の海沿いが続く。

 窓際に座らせた父が『ほう、瀬戸内海というかんじだな』と感嘆の溜め息をこぼしながら見とれていた。


 まさか、こんなふうに父とおでかけの旅をするとは思わなかった。こうして一緒に長くいるのも、医大進学で家を出て以来。

 美湖は父にそっと告げる。

「お父さん。いろいろ、ありがとうね」

 素直になれそうなうちに言っておこう。そう思った。

「父さんだって、まさかこんなふうになるとは予想外だった」

 窓辺に頬杖をついて海を見つめている父も呟く。今日は父のほうが目を合わせてくれない。でもその表情はしっかりと窓に写っている。


「ちょっとおまえに会って様子を見て、なんでもなければ『将来のことを考えて、ほどほどにして無理をしないで辛かったら大学病院を辞めてもいい。帰ってこい』と言うだけのための島訪問だったんだけれどな」

「ほどほどって。お父さんのほうが全力で活動していたじゃないの。車がなくて困るぐらいだったわよ」

 父が黙った。きっと父も『ほどほどでいいんだ。自分たちでなくても誰かがやってくれる。そういう世の中』だと思っていたに違いない。

 なのに。やり出すと自分がやりたくなってしまう。そして美湖は父を見て『私はこの医師の娘だ』と初めて強く感じることができた。


 そんな意味でも『ありがとう』だった。


「ハル君のことも、あんなに心配してくれると思っていなくて。絶対にそんな曰く付きの男のそばにいるのはやめて帰ってこいと言われると思っていた」

「まあ、いまもそのつもりだけれどな」

「そうなの!」

「今日の今治での話次第だな。晴紀君そのものは父さんもいい青年だと……、感動しているよ」


 感動? どうしてそんな言葉が出てくるのかと、美湖は逆に驚く。


「やっぱりあの海釣りだなあ。おまえ、ただの釣りをやりたいおっさんが船に乗って釣りにでかけるのがどんなに大変か知っているか」

 知らない――と美湖は首を振った。

「まず船釣りをやらせてくれる予約をしてだな、装備をあれこれ準備してだな、海まで出て行くんだよ。知らない釣り人と乗り合わせてだな……。まあ支度に時間もかかるし、気力がいるわけだ。もうこの歳になると喜んで一緒に行く仲間も少なくなり、体力もな。息子たちはもうついてこないし、やりたいと思ってももうやれない。それを、晴紀君がひょいっと、ほんとうにひょいっと『そこまで散歩気分』で連れ出してくれて、最後には目的通りに魚も釣り上げてくれてな」


「えっと、あの……、釣りひとつで認めてくれたの」

 晴紀を認めてくれたのは嬉しいが、わけわかんない――と美湖は唸ってしまう。

「だから、手間がかかるレジャーを、ひょいとさせてくれたってことだ。晴紀君ひとりがだぞ? 釣りの装備から船の操縦、釣りポイント、それから客人をもてなすその気遣い!」

 あれかな。美湖がシュノーケリングをして晴紀を男らしく感じたのと一緒かなと、少しだけわかってきた。だからって美湖の場合、あのレジャーが接近するきっかけにはなったけれど、それまでの日々の積み重ねがあってこそ。父なんて会って次の日に晴紀と触れあっただけなのにと不思議に思う。


 でも父が徐々に興奮しているのが伝わってくる。


「軽々と船を沖まで操縦して、魚群レーダーを見て、あの大きな竿を父さんが投げられるようにわかりやすくやりやすいよう的確にアドバイスしてくれて。こうなってこうすれば、こんなふうになるとかかると思う……と彼が言ったとおりに竿が動き始めたんだ!」

 わ、また始まったと美湖は耳を塞ぎたくなってきた。それ、釣り上げてきた日の夜も散々聞かされたと思いながら!

「こう! ひきが強くてお父さんの腕が右へ左へと振れまくっても、晴紀君は決してすぐには手を出さない。父さんに釣り上げて欲しいからだ。もう駄目だ、竿を離してしまう――そう思ったタイミングで、晴紀君が父さんの背中から逞しい腕でぐっと竿を一緒に持ち上げてくれてだな。お父さん、リールを巻いて! と言ってくれて、そこからは俺と晴紀君の共同作業だ!」

 そうして釣れたマナガツオ。もうその興奮が冷めやらないし、そうして楽しませてくれた晴紀の気遣いがいまでも心地よく残っていると父が言う。


「それにな。おまえの診療所の家で過ごして眺めていると、晴紀君はいつもお母さんに気を配っている。足が大丈夫か、助けはいらないか、意地を張っていないか。美湖に対してもだ。美湖が疲れた顔をしていないか、していても、父親の私の目の前でも『軽口』叩いて、美湖をわざと怒らせて逆に元気づけているように見えた。その、娘の扱い加減を見てしまったらな。突然きた父さんに対してもだ。島に来てから嫌な思いなど一度もなかった。むしろ居心地がいい。うっかり十日も居座ってしまった」


 ここ十日ほど、あの診療所ハウスで過ごし、重見親子に面倒を見てもらって、父はそれだけで晴紀のことを知ってくれたようだった。


「船だって、ものすごく勉強して訓練をして船乗りになるだろう。立派なもんだ。外航船に乗っていたなら英語もできるだろうしな。親戚筋もしっかりしているし、清子さんもあの人当たりのよい柔らかさから人格が滲み出ている。無碍に人を傷つけるようなお人ではない。娘のことも大事にしてくれるのも信頼できる」


 美湖が島に来てから重見親子に感じていたすべてを、父もおなじように感じてくれていた。もうそれだけで涙が滲む。


「だから……、私……、帰らないっていったの」

 また父が溜め息をついて、古い町並みの向こうに見え隠れするようになってしまった遠い海へと視線を逸らしてしまった。

「遅かったか。おまえに見合いをさせるの……。まさか直人君と別れるとは思っていなかったからな」

「直人のことは……、私が無頓着すぎて悪かったの」

「父親として否定できないな。直人君もおまえのことはよくつきあってくれた男だと、大事にしてくれていると思っていたから、別れたならおまえが原因だとすぐにわかった。わからんでもないよ、男として。おまえは女として安心しすぎていたんだ」

 その通りだった。こんな気が強くて生意気で口悪くて、医師として仕事はできても、私生活は最低限の生活。女を捨てていたのに、女として一緒にいてくれは都合が良すぎたかもしれない。


 しかし。美湖にも言い分はある。それならそれで男として必要としていることもはっきりと言って欲しかった。言ってくれたら美湖も気がつかないまま疎かにしなかった、反省はしたと思う。晴紀はまっすぐに来てくれる、先生はめんどくさがりやだから、こっちがしつこいくらいに構ってやらないとこっちが忘れられるとか言って、こまめに触れてくれる。美湖に対して諦めない、やめない。まだ付き合い始めたばかりでお互いに熱くなっているのもあるが、すべて枯れたもう要らない、そうはなれそうもないと思っていた美湖の女の匂いを蘇らせたのは、自分より若い真っ直ぐな青年だった。


「直人のことはもうなんとも思っていないの。島に来たのも辛くて来たんじゃない。横浜から離れて地方に赴任してくれと言われてもなんとも思わなかった自分を不思議に感じたほどよ。でもいま思えば、横浜の院内の空気にはうんざりしていたところはあったのかもしれない。でも、そんなものじゃない、働くってことは。ただ『ちょっと違う場所を見てみたい』と思ったんだろうね、私」

「吾妻君も言っていたよ。美湖が気持ちを切り替えてなんとかひとりで頑張ろうとしても、あのような大きな病院では周りがそうさせない。気疲れしていたと思うとね」

 吾妻が平気なふりをすることにエネルギーを使っていたんだと思っていたことを、父にも話していた。


「瀬戸内に赴任するとおまえが実家まで会いに来ていたら、その時に小澤君を紹介していたと思う。大学病院はもうやめてもいい。夫となる男とおまえたちの医院で働けばいいとそう考えていたのに。おまえはさっさとひとりで瀬戸内に行って、盆も帰ってこなかった」

 瀬戸内に行く前からそんなこと考えていたのかと初めて知る。そうか、横浜の彼と別れてから心配した父がそう準備してくれていたんだとやっと理解した。


「そうしていたら……。おまえは、晴紀君と出会わなかったかもな」

 遠い水平線を見つめたまま、父がしばらく黙った。でもまた父が言う。

「しかし、島に来たから。おまえもお父さんも、知らない世界を見られたんだもんな」

 知らない世界。自分たちとは違う生き方をしている島のなにもかもを知ってしまった。いままで自分のまわりにあるものだけに必死だった自分たちが知らなかった世界が確かにあった。


「お父さん。まだ少ししか島にいないのに」

「父さんだって驚いているよ。三日ぐらいで帰る予定だったのにな」

「兄ちゃんとお母さん、心配しているでしょう」

「大輔はそろそろ帰ってきてほしそうだったな。お母さんはおまえが心配だから、美湖が安心して暮らせるようになるまでしっかり面倒を見てきてとどやされてる」


 夫より娘だと母の様子まで聞かされ、また美湖は泣きなくなってきた。母に申し訳なく思って。


「ごめん、ほんとうに。今度……ちゃんと帰るから」

「そうだな。できれば……、晴紀君も連れてこい」

 驚いて、美湖は硬直する。こぼれそうだった涙がこぼれなくなるほどに。


 そして父はまた目の前に迫ってきた瀬戸内の海を眺めている。そのうちに大きな造船所が見えてきた。


「お、造船所があるぞ! さすが来島海峡」

「あ、船、おっきい! ハル君もあんなのに乗っているのかな」

「きっとそうだな。うん、やっぱり婿に欲しい」

 また美湖はびっくりして父を見てしまう。父もうっかりだったと、また顔を背けて決して娘と目を合わせてくれなかった。


 父と一緒の思わぬ旅、そして触れあいになってしまった。今日の瀬戸内も青くて綺麗。



・・・◇・◇・◇・・・


 


  今治駅に到着。そのまま吾妻から教えてもらっていた晴紀の伯父が経営する『汽船会社』へ、父と向かう。

 タクシーで会社前に辿り着いて、父と唖然とした。

 古い鉄筋の小さなビルに『野間汽船』とあり、とても目立たない佇まいだったからだ。


「もっと大きな会社を想像していたなあ」

「でも、ハル君は五十人程度ですべてを回してるて言っていたもの」


 ビルの入口の壁に掲げている石看板には『野間汽船』のほかに『ノマ船員派遣』ともある。従兄が経営している会社もここにあるようだった。

 受付などあるはずもなく、ただ父と一緒に階段を上がって二階の事務室まで。開け放してある事務室のドアから、忙しそうに働いている事務員が見える。


「ごめんください」

 父が声をかけると、男性事務員が振り返る。

「相良と申します。慶太郎さんいらっしゃいますか」

「あー、副社長ですか。お待ちくださいね」


 従兄さん、副社長なんだと美湖はさらに緊張した。

 事務所の入口で待っていると、三階へ行く階段から人が降りてきた。


「相良さんですね。お待ちしておりました、いらっしゃいませ」

 眼鏡をかけているスーツ姿の男性だった。

 父と一緒に一礼をすると、彼から挨拶をしてくれる。

「晴紀の従兄、野間慶太郎です」

 不精ヒゲでワイルドな顔立ちだけれど、きちんと品格あるスーツ姿の男性だった。年齢はおそらく相良家長兄の大輔ほどか。

 既に威厳に満ちていたため、美湖だけでなく父も気圧されていた。


「相良です。美湖の父でございます。本日はお忙しいところ、突然の訪問を受け入れてくださってありがとうございます」

「娘の美湖です。島の診療所では、叔母様の清子さんと、従弟の晴紀君に大変お世話になっております」

 美湖も今日は厳かに楚々と挨拶をした。しかし、今日はこのきちんとおとなしめ黒スーツで正解だったと思うほど、従兄さんは見るからに意欲に満ちたビジネスマンと言ったところだった。東京にいても遜色ない男ぶり。


「晴紀からよく聞かされています。気の強い女医さんと」

 従兄さんとどんな話をしているのよ――と美湖は思いながらも、それならとりつくろうこともないかとそのひとことで力が抜ける。

「間違っておりません。父からもそう言われますから」

「いえ、かえって美湖先生のような方がいらしてくださって。清子叔母が元気になったとお聞きして感謝しております。子供の頃から清子叔母には大事にしてもらっていましたので……。一度、先生にお会いしたいとおもっていたところです」


 『三階が私の副社長室になっておりますからどうぞ』と、階段の上へと促される。

 三階は社長室と副社長室になっていた。その一室に入ると、彼の雑然としたデスクと、ちょっとした応接のテーブルとソファーが片隅に。窓からは来島海峡大橋が見えた。

 それだけで、父が微笑んだ。

「いいところですね。いやー、あのような大きな橋をみると、やはり瀬戸内海の風情ですね」

「そうですね。ここ二十年ほど前ですけれどね、橋ができたら、たまたまうちのビルで見えるようになりました」

 大きな海峡大橋よりこの会社のほうが古く歴史があると聞こえ、美湖と父は揃ってその偉大さを感じてしまった。しかし慶太郎はごく自然に微笑んでいる。生まれた時から自然にこの世界を持って育ってきた人間の品が滲み出ていた。


「すみません。事務員にお茶を入れさせたいところなのですが、大事な話をするため、本日のお客様にはお茶出しはしなくていいと伝えています。私が準備していた麦茶で申し訳ないです。そちらのソファーにどうぞ」

 彼の部屋に小さな冷蔵庫があり、そこからレトロなガラス製のクーラーポットで作られている麦茶を、ガラス茶器に注いで準備してくれる。


 小さな会社、気取らない接待。窓からは瀬戸内の風と大橋。ほがらかな雰囲気に、父も美湖も徐々にほぐれてきてしまう。

 それでもこの会社で百隻あまりの大型船を大海原に送り出しているのだなあと不思議な感覚だった。


 お茶を置いてくれたのでひといきつきつつ、遠慮なく頂くと、それまでおおらかな雰囲気だった慶太郎が真顔になって、なにやらいろいろとデスクから茶封筒を持ち出したりして忙しくなった。


 やがて、美湖と父の目の前に、不精ヒゲで眼鏡をかけた彼が座った。

「三年前の事件のことをお聞きしたいとのことでしたね」

 余計な前置きなしに入ってきた。だがこちらもそれが聞きたくてここまできた。父が『さようです』と答えると、神妙は面持ちで笑みを見せなくなった慶太郎が二枚の写真をテーブルに置いて父と美湖に見せた。


 白い制服姿の若い青年数名が写っている写真だった。


「亡くなった男性です。晴紀とおなじ広島の商船系高専の後輩であって、就職した海運会社でもおなじでした。たまにおなじ船に乗り合わせることがあったようですね」


 初めて……。晴紀のそばで命を絶った男の顔を見て、美湖の中からわけのわからない感情が盛り上がるのがわかった。

 ひと目みて、その顔つきと目つきで『底意地悪い』雰囲気を感じたからだった。父はなにを感じているがわからないが、ひと目見ただけだった。


 さらにもう一枚は清楚でかわいらしい黒髪の長い女性。

「この亡くなった男性の婚約者と言われていた女性です」

 慶太郎が美湖を見た。

「晴紀からお聞きですよね。この女性が少なからずとも、晴紀に想いを寄せていたことは」

 美湖は素直に頷く。そして慶太郎は父も見たが、父も晴紀から美湖同様の説明を聞いていたのか同じく頷いた。


 だが、慶太郎の言い方がひっかかった。『婚約者だった』という言い方ではなかった。

 『婚約者と言われていた』。まるで婚約者ではないような言い方ではないか?

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