29.愛しているといえるよ

 清子と晴紀のおかげで、険悪な再会だった美湖と父はなんとか穏やかにひと晩を過ごすことが出来た。

 美湖はいつもの二階の部屋に。父はリビングで寝起きをしてもらった。


 それでも美湖は翌日も仕事。支度をして白衣を羽織って診療所の診療開始。

 本日も朝一からお年寄りを中心とした島民が診察へと集まってくる。


 今日は岡家の志津と娘の芳子が定期的な検診に来ていた。熱中症以来、体調はきちんと管理されているようで、志津の顔色もよい。


「先生。今日はね、わたし、夏みかんのマーマレードを持ってきたんよ。今年最後の一瓶なんよ、よろしかったら召し上がって」

「もう、お母ちゃん。美湖先生はお仕事しとるんやけん、そういう田舎の感覚でなんでも持っていっちゃ駄目て……。いつも言うのですけれど、美湖先生、ごめんなさいね」


 志津はいつも美湖になにかしら手土産を持ってきてくれる。松山銘菓や果物、そしてわりと洒落た焼き菓子もだった。先日はご高齢なお婆ちゃまなのに『マフィン』を焼いてきてくれて、美湖が泣いて喜んだので、マーマレードを持ってきてくれたようだった。


「いいのですよ、芳子さん。ここが大学病院だったら怒られちゃうんですけれど。……実は、楽しみにしているんです。ごめんなさい。もらっちゃいます。すっごい楽しみ」


 志津からマーマレードの瓶を受け取ると、母娘が嬉しそうに顔を見合わせる。


「先生。昨日、お客様が来られていたみたいですね。ハル君がうちに訪ねてきて、うまい地酒があったら譲って欲しいてきたもんやから」

 芳子からそうきいて、晴紀が親しいご近所へ奔走してくれたことを知る。

「このまえも、若い眼鏡の先生、来とったわいね。美湖先生、まさか……、大学病院のお偉いさんからなにか言われてるの? まだ、ここにおってくれるよね」

 志津が泣きそうな顔で美湖の腕にすがってきた。

「まだ五月に来たばかりですよ。そんなすぐに帰りませんから」

「そやけど……、一年二年して。先生、帰ってしまうんやろ。お医者さんとしてのキャリア積むためにはここじゃいかんのやろ。安心できる女医さんが来てくれて、気兼ねなく見てもらえるようになったのに……」

「お母ちゃん。いまそれ言ってもしかたないやろ。また、その時な、考えよ。きっと町内会でもなんとかしてくれるよ」


 そんなふうに言われると、美湖もわけもなく切なくなったりした。


 島は……、ほんとうに蜜柑の花そのもの。甘い香りで包んでくれて、心地よい。忘れていた感覚を掘り起こし、目覚めさせ、美湖の心を揺り動かす。


 待合室が少しざわめいた気がした。


「美湖、お父さんも手伝おう」

 白衣を羽織った父が診察室に現れたので、美湖は目を丸くする。

 血圧を測っていた志津も驚いて、美湖と父の顔を交互に見つめている。

「美湖先生? お父さんなの?」

 芳子もびっくりして固まっている。

 美湖も苦笑いしか浮かべられない。

「はい。父です」

「相良です。おじゃまいたしますね」

 美湖のデスクのすぐそばにパイプ椅子を置いて、父が白衣姿でどっかり座った。

 うわ、緊張する。実家で少し手伝ったこともあるが、父の目があるととても緊張する。


「あらー、べっぴんさんやと思っていたけれど。お父様も男前、お父様に似たんじゃろか、美湖先生」

 渋めの映画俳優のようだと、志津が持て囃しても、父は少し微笑むだけ。

 もう、やりにくいなー。すっごい眼力で美湖が患者に接する一挙一動、一言一句を監視されているようで気になって仕方がない。


 志津と芳子が帰って、次も地区と地区の端境、密柑山にお住まいの西川おじいちゃんとお嫁さんが診察室に入ってくる。

 こちらも『先生のお父さん?』と驚かれたが、父が静かに黙って一礼をするだけで控えているので、美湖もいつも通りに診察をする。


 こちらのお舅さんは、足が痛いとよくやってくる。ご高齢の方にはよくあることで、美湖もレントゲンなどをこまめに観察しているが、いまのところ薬を渡したりして経過観察中だった。

 本当ならば、島外、市街の専門医にまめに通ってほしいが、ご高齢で足が痛いとなれば外出も億劫になりがちだし、お舅さんのご機嫌を見ながら付きそうお嫁さんやご家族が大変だろうと、ひとまず診療所と港病院でなんとかしている状況。

 今日も薬を出す以外、なにもしてあげられることがなかった。たまに膝に水がたまるようなので処置をするものの、そう頻繁ではないので重度ではないと思いたい。


「美湖、カルテをみせてもらっていいか」

 父に言われ、美湖も手書きのカルテのほうを素直に渡した。何故なら、父の専門は整形外科だから。

「レントゲンもあるか。できれば間近のもの、なければいま撮影してくれないか」


 おじいちゃんとお嫁さんが急に動き出した父を見て戸惑っていた。


「父は整形外科医なんです」

「ほうかいな。ええんかいな。診てもらっちゃって」

 こんな時に父がやっとにっこりと笑顔を見せる。

「せっかくここまで来ましたからね。仕事ではないとはいえ、診ないなんて医師が廃るというものです」

「あら、助かるわ。ずっと美湖先生に市街の専門医に一度行くようにと言われていたけれど、なかなかそれが出来なくて……」

 お薬でずっと抑えてきた生活と行動に移したいジレンマがご家族にもあったようだった。


「美湖、レントゲンを撮ってくれ。ここと、このあたりだ」

「はい。相良先生」

「愛美さんもお願いします」

「はい。相良先生!」

 そばに控えていた愛美も、動き出した父の指示に素直に従ってくれる。

 レントゲン写真の結果が出るまで、西川おじいちゃんとお嫁さんには待合室で待機してもらう。


 出来上がったレントゲン写真を、ライト発光板のシャウカステンに貼り付け、父と眺めた。


「五月に初めて診察した時も、それから一ヶ月に一度撮影していたけれど、特になにも私には見つけられなかったの。お父さんから見てどう」

 正直、助かると美湖も思ってしまった。診療所は初期診察を行い、専門病院へ案内する役割があるが、島ではそうはいかないことが多々あるため、専門以外の知識があれば……と美湖も頭を悩ますことがある。専門医の父が、しかもベテランの医師が診てくれるのは心強いことだった。


「症状はいつから起きているか聴いているか」

「一年ぐらい前からだって。その前からも違和感があったけれど、外出が億劫になったり、大好きだった磯釣りにでかけなくなったのも今年に入ってからだって。おじいちゃんもストレス溜まっているみたい。不機嫌になると怖いとお嫁さんがちらっと言っていたから……。本当は専門医にかかってほしかったんだけれど」

「なるほどな……。まあ典型的な関節リュウマチだと思うが。処方した薬は飲み始めてどれぐらいだ」

「港病院で処方されていたものを、いまはそのまま……。でも、あまり効果がないように思えて、次に効果がある薬を処方するのにやはり専門医に診てもらいたいと、島外診察の説得をしようか迷っていたところ」


 父に再度、カルテを渡し処方している薬を確認してもらう。


「いまはもっといい新しい薬が出ている。それを試したらどうだろうか。それで三ヶ月様子を見て、効果がなければ人工関節の手術を検討してもらいたいところだな」

 美湖もそうなりそうだと見通しをつけていた通りの父の診断だったが、専門医でない部分で不安もあったが、これで確信が持てた。

「ありがとう、お父さん……。ううん、相良先生。島には整形外科医がいないので助かりました」

 珍しく、父が戸惑っていた。そして照れくさそうに娘から目線を逸らしてしまった。


 それを愛美がまた微笑ましそうに見守ってくれている。


「親子診断、見れちゃいました。待合室のおじいちゃん、おばあちゃんたちも、美湖先生のパパさんに早く会いたいってお待ちですよ~」

「いや、そんな見せ物みたいになってしまってるだなんて……」

「美湖先生とそっくりだって、もう夕方には島中に知れ渡っているかも!」

「愛美さん、このお薬の手配をお願いしたいのですけれどね」

「はい。お父さん先生! パパ先生!」

 愛美がカルテを受け取る時にそう言うと、父が面食らっていた。

 愛美がいつもの快活さで場を和ませてくれると、父がますます困った顔になってしまうから美湖も父の背中の影でそっと笑ってしまう。


 威厳あるベテラン医師の風貌が効いているのか、父の説明で西川おじいちゃんとお嫁さんも納得してくれたようだった。新薬を試してみて効果がなければ人工関節の手術を検討する心積もりを整えてくれるとのことだった。


「来週、新薬を処方しよう。その時も私が診察しよう」

 え、なんですって? 美湖は眉をひそめた。

 お父さん、一週間後もここにいる気満々なんですけれど!?

 しかし美湖が診察に自信を持てなかった整形外科系の診察を、父が何人かきちんと見てくれてほっとしたのは否めなかった。


「美湖、他にも整形外科の診断がいる患者いるのか。次の診察はいつだ」

「いま、確認しますね。相良先生……」


 だめだ、こりゃ。診療所で受け持っている患者をすべてチェックする気だ。

 しばらく父と生活決定、早々に帰ってくれる願いを美湖は諦めた。


 


・・・◇・◇・◇・・・


 


 お昼ごはんも白衣の父娘が並んでお食事。その姿を清子がにこにこ眺めている。

「いいですわね~。白衣のお医者様がお二人、しかもお父様とお嬢様。いまそこの道を歩いていただけで、診察を終えた皆さんが、美湖先生とパパ先生に診てもらったとどなたも嬉しそうに教えてくれましてね」

 この日は午後休診日だったが、父がいるため清子が昼食を作ってくれた。


 本当ならば、往診がなければ二階の部屋で瀬戸内海と船を眺めながら論文を作製しているか、晴紀とゆっくり話せる時間なのだが、本日は無理。往診も一軒入っているから出掛けなくてはならないし、父がいるのに愛しあうことなどできるはずもない。


「こんにちは。診療終わりましたか」

 晴紀に触れたい、触って欲しいと思いを募らせているそこで、彼が勝手口に現れた。

 しかもいつもと違う出で立ち。どうみても『船釣りにでかける釣り人』スタイル。片手に大きなリールがついている長い竿を持っている。


「ハル君、どうしたの。何処か行くの」

「お父さんを誘いに来た。午後は美湖先生ひとりで大丈夫だろ」

 大丈夫だけれど、誘うって……。美湖はまだ食事中の父を見た。父も晴紀の格好を凝視している。


「美湖先生が子供の時は、お兄さんとお父さんと沼津まで釣りへと出かけていたと言っていたものですから、もしかしてと思いまして」

 晴紀が男らしい微笑みで、父に言う。

「相良先生。俺の船で釣りに行きませんか。今日の獲物は、昨日、ご馳走できなかったカワハギです」

 いやいや、さすがにお父さん。出会ったばかりの青年と二人きりになるのは億劫なのでは、しかも、ハル君もお父さんと二人きり緊張しないのかと美湖はハラハラする。


 だが父は晴紀がいる勝手口まで行ってしまう。しかも目が輝いている!?


「すごい! プロ仕様の専門的な電動リールじゃないか。うわ、大きいな!」

「いちおう、漁師もやってるんで。鯛も獲れますが、いまは旬ではないんですよね。ですがチャレンジは出来ますよ。マナガツオもいまならギリギリいけるかも」

 父の鼻息が荒くなったように見えたのは、錯覚? 美湖の胸騒ぎは当たる。

「ようし。行こう!」

 父が白衣をさっと脱いでしまう。


「俺の釣り用の装備と服を持ってきたんで、よろしかったらどうぞ」

 準備がよい晴紀の気遣いに、父はすっかりその気になって着替えるためにリビングへ消えてしまった。


 美湖は唖然。しかし、父が釣りが好きなのは知っていた……が、子供が大きくなってもう辞めたと思っていたのに。


 父を誘いに来てくれた晴紀と目が合う。

「ハル君、ありがとう」

「せっかく瀬戸内に来てくれたんだから。それに、父と娘で顔を付き合わせてばかりだと、また昨夜のようなことも起こりかねないかなと思っただけだよ」

 清子も嬉しそうににこにこしている。

「あらあ、カワハギが釣れたら今夜のお夕食はお刺身ね。でもちょっとお肉も考えておこうかしら」

「あの……、父……、まだしばらくここにいるつもりみたいです。整形外科の患者さんを全部診るとか言いだして……」


 その間、重見親子の負担になるだろうから、どこかで気遣う毎日はやめてもらおうと美湖は思っている。


「よろしいじゃないの。そのほうが島の住人としても助かるわ。食事のことはお任せくださいな、美湖先生。お父様のためですから気兼ねはいらないのよ」

「申し訳ないです……。はあ、すぐ帰ると思っていたのに」

 しかし、清子と晴紀の母子が顔を見合わせ微笑んでいる。

「いや、先生そっくりだよ。島に怖じ気づくようなやわな精神の医者じゃなくて、むしろ熱血してくれるってね」

「お父様を拝見して、なるほど、このようなお嬢様が女医さんが誕生した訳ねと、私も納得しましたよ」

 いやー、父と似ているなんて思いたくなーい! 熱血てなによ、この前から熱血って! 美湖は顔を両手で覆う。


 都会で澄ましてなにごともなくすりぬけてきた私はどこに行ってしまった? ほんとうに最近、そう思っている。



「晴紀君。これでいいかな」

 父も着替えると張りきって出てきた。

「大丈夫ですよ。俺の服がぴったりでよかったです」

 父のほうが年齢的に横幅があるが、背丈は晴紀とそう変わらない。晴紀の釣りレジャーの服を着込んだ父は靴も借りてすっかりでかける準備完了。


「お父さんも、このリールでやってみますか。シンプルなのもあります」

「いや、この電動リール使ってみたいと思っていたんだ」

 では、行ってきます――と、晴紀は臆することなく堂々と父を連れてでかけてしまった。


 診療所が静かになる。清子が片づけを始めた。


「美湖先生。お休みになられたら。お父様がいらして、久しぶりに一緒にいてお疲れでしょう」

 親子だからとて、久しぶりに会うと普段離れて暮らしているため『日常』というわけにはいかなくなり確かに気疲れはする。

「お父様も娘を訪ねてきたとはいえ、知らない土地と知らない住民となると気が張っているまま、それではお疲れになるでしょう。晴紀が気張らしにお父様の相手をしますから、往診時間までお休みください」

 そこのところ、晴紀と清子が気遣ってくれたようだった。


 静かな二階のひとり部屋で美湖はしばしほっとする。

 でも、本当は。ハルと二人で過ごしたかった。

「まったく、なにしに来たのよ。いったい、」

 娘に説教しにきたんじゃないのかと、逆に晴紀と楽しそうな父に多少のジェラシー発生。


 瀬戸内の海に、晴紀の漁船が見えるか、窓辺から探してしまった。



・・・◇・◇・◇・・・



 晴紀と父は見事に『カワハギ』と『マナガツオ』を釣り上げてきた。

 その日の夕食も重見母子と一緒の食事。父がもう自分の手柄のように、また晴紀に教わりながら大きなリールを操って釣り上げたことを自慢げに話す食卓になってしまった。


 食事の後、父は疲れたのかリビングに用意された寝床で、すぐに寝入ってしまった。


 美湖は、清子と晴紀と一緒に片づけをする。『おやすみなさい』と、勝手口から母子を見送った時。

「美湖センセ、ちょっといいかな」

 母親を先に行かせた晴紀が美湖のところへ戻ってきた。

 美湖も頷く。そのまま晴紀について、港へと向かう。



 ほどよい潮風、桟橋で揺れるいくつもの漁船。その波打ち際を晴紀と歩いた。

「ハル君。ありがとうね、父のこと。お父さんたら、ほんっと、すごいはしゃいでたね」

 晴紀がふっと笑う。

「美湖先生のお父さんだから……、それにセンセ、会うなりすごい戦闘態勢だったから、なんとか雰囲気良くしたくて」

 美湖は再度、ありがとうと微笑む。それは本当に助かったことだったから。


「船の操縦も、釣りをする手際もテキパキして仕事ができるし、気遣いもできる良い息子さんだって。ハル君のほうが私より大人だって、父が褒めていたよ。外航船に乗っていた時の話もしたんだってね。日本でも有数の大手海運会社にいたのにもったいないって……」

「島の家を継ぐために、仕事を辞めて帰ってきたんだと……、美湖先生がそうお父さんに話してくれていたんだってな。辞めた理由はすんなりとそれで受け止められていたようだったよ……」


 美湖は戸惑う。正直に父に言えないこと。そして、晴紀から喋らないことを美湖から勝手に言えなかっただけ。


「ごめん、その、正直には言えなくて。勝手に……言えることじゃなくて……」

「大丈夫だよ。そんなこと美湖サンに言わせるつもりないから。俺、知られても覚悟できている」


 一緒に夜風の中あるく港道、そこで晴紀が美湖の手を握ってくれた。

 覚悟ってなに。美湖は聞き返せなかった。彼女の父親に過去を知られて、晴紀はそこで身をひくのか、それとも許されなくても美湖と一緒にいたいと『娘の男として認めない』と罵られるかもしれない苦しい道を選ぶのか。


 それは美湖も同じ。父にハルの過去を知られたら、美湖も覚悟をするべきなのだ、きっと。


「やっとハル君に触れた」

 明るい月の海辺で、美湖はハルに向かって微笑む。

「俺も、センセの匂いかぎたかった。でも、いまは我慢できるよ。というかさ、センセ、男が触れてくれなくても、あってもなくても全然平気なんだろ」


 いつもの生意気な顔で晴紀がにやりと意地悪そうに笑った。もう、そんなカラダじゃなくなっている。晴紀に痛くなるほど愛撫してもらいたいと欲するカラダになってしまっている。でも、かわいくない女医はいつもどおりに切り返す。


「そうよ。あってもなくても平気……なんだから! そんなもんなくても、ハル君のこと……」

 大好きだし、愛していけるよ。

 そう言おうとしていた自分に、美湖はとてつもなく驚いて口をつぐむ。

 愛しているって。感じたことなんてなかったんじゃないの。愛しているなんて感じることが、いま、私、できている!?


 そうして驚いていると、晴紀が立ち止まった。

「ハル……、俺のこと、なに?」

 真上から美湖を切なそうに見下ろしている。その言葉の先を、きっと晴紀も聞きたいのだろう。


 ハル君のこと……。今度こそ言うと思ったら、初めて好きになった男に言おうと思ったのに。


「いい、やっぱりいい。先生が、そんなの……、俺、怖くなる」

 そういった晴紀に囁こうとした唇をふさがれてしまう。


 なにも言わなくていい、先生は。俺が言う。先生、好きだ。大好きだ。センセ、かわいくない先生がいちばんだ。

 先生がわかいいことをしたら、先生がいなくなる気がする。そう言い続ける晴紀にずっと、ずっと、息さえも吸われて。美湖はなにも言わせてもらえなかった。


 美湖も。言ってしまったら、なにかが変わってしまいそうで怖い。


 そして、その日はすぐに来た。

 美湖の代わりに往診に出向いていた父が、診察室で雑務をしている美湖のところに駆け込んできて、恐ろしい顔で言った。

「美湖。晴紀君が人殺し――というのは、本当か!」

 覚悟は決めている。美湖は父に向かう。


 

 

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