39.福神様のお告げ
しかし、この教授に逆らうとなにが起きるのだろう。
それでも美湖はいまの気持ちを伝えておかねばならない。
それを恐る恐る口にしてみる。
「もう……、私は診療所には必要がないということですか」
「そうとは言っていない。ひとまずシアトルに行って欲しいんだ」
「シアトルに……」
行かなかった場合は、どうなるのですか? そう聞きたくて美湖は慌てて口をつぐんだ。
思い出したのだ。吾妻に『広瀬教授の考えを、頭の中で先読みするのは構わないが、口にはするな。黙って判断するんだ』。下手すると駒としても使ってもらえなくなると釘を刺されたことがある。だから美湖は瀬戸内に赴任を言い渡された時もなにも言わずに考え返事をした。
逆のことを聞けばいい、そう判断した。
「シアトルに行く期間はどれぐらいですか」
「君次第かな。どちらにしても、勉強はしてみたかっただろう」
それは……、この離島に来る前に自分が望んでいたこと。いまはもう……。それに疑わしいこともある。美湖が一生懸命仕上げたのに読みもしないで、シアトル行きを告げるその教授の思惑が納得できない。
「論文は、仕上げても仕上げなくても良かったようですね」
福神様がこんな時ににっこりと笑みを見せたから、美湖は逆にゾクッとしてしまった。吾妻に注意されたことを無視したから、今からその報復がとさすがに怯える。
「読まなくてもわかるよ。君は優秀で、志も高い。テーマも前もって聞いていた。間違いないと思っている」
「そんなこと、わからないではないですか」
「医学部の同期生の中で、君は常に首席争いの中にいたことも知っているし、呼吸器外科に来た頃、担当した小学生の男の子を亡くした時の君のことも知っている」
奥の奥に押し込めた一番苦い出来事を掘り起こされ、美湖は硬直した。
「誰が見てもどうしようもないことだった。だが君は自分を責め、医局の体勢とシステムを責め、先輩ドクターやナースとの雰囲気を悪くしたことがあるだろう」
「はい……」
若気の至りと言いたいが、生意気で気が強くて口が悪い美湖がそうなったのだから、そのまき散らされた強気パワーの破壊力はとんでもないものだった。
しかも若い自分が言い放ったことで、たくさんの人に迷惑をかけたという美湖の最大の汚点でもあった。
「あの頃、一緒だったドクターや今もいるドクター、そしてナースに聞くとね。相良先生が言ったことは誰もがわかっている『ど正論』だったと口を揃える。ただどうにもならないこと、でも誰かがいつもそう思っていること。それを君は心に押し込めず、めいっぱい外にまき散らした。それはもう大人の顔をして仕事をしている者には強烈なことで唖然としたとね……。だけれど、偉かったね。その後、君は一人一人に、誰に言われたわけでもなく謝罪したそうだね」
「……え、っと。はい、自分でも酷かったと……、反省しました。ただ、どうしても、どうしても、助けられたと思う気持ちが抑えられなかったんです」
「わかるよ。医師なら誰もが一度は通る道だ。それを外に出して露わにするのも、内に秘めてじくじくした傷を持ち歩くのも、医師の性格次第。そして君が謝罪した後、少しずつ医局の雰囲気も戻り、それどころか少しずつ体勢が変わった。誰だって年端もいかない少年の死を見送るのは辛いこと。わかっていたと思うよ」
それは三十過ぎたいまの美湖には良くわかると頷いた。
「それから君はとてつもなくクールになった。泣かない、怒らない、必要以上に喜ばない。優しくなりすぎない。ある意味、優秀なロボットのようにね。吾妻君も似たような性格だったんだろうね。君にとても共感していたようだった。その吾妻君が『クールを身につけてしまったガッツで熱血な女』と言って、さらに僻地医療を前進させるための医師として君を薦めてくれた。私も君のことは覚えていたので、すぐに納得して人選させてもらった」
そして期待通りに、診療所を定着させてくれたと広瀬教授が満足そうに微笑んだ。
「それならまだ診療所を任せて頂きたいです」
「いや、これからの僻地医療のために、シアトルに行ってくれ」
選択の余地がないかのようにはっきり言われ……、美湖は逃げ道を失い茫然とした。
「最初から、そのおつもりだったのですか……」
「君も吾妻君同様にやってくれると思っていたからね。ある程度時期が来たら、報酬として君が以前望んでいた留学をと思っていた」
「いま私が望んでいることは、報酬にならないのですか」
「君が重見家の晴紀君とどうなるかなど、私はまったく予測はしてないなかったし、あり得ないと思っていた。君がいま望む報酬は、それならば、晴紀君が管理する診療所にいて、結婚生活をしていきたい……と言うことかな?」
そうです――と頷こうとした。いま、そこから離れたくない、いまの環境を変えたくない。これから晴紀と清子とやっと楽しい日々を過ごしていくのだからと『はい、そうです』と口を開こうとしたその時。
「センセ、それ、行かなきゃダメだ」
海が見える窓辺にあるソファーで教授とひっそりと語らっていたそこに、黒いスーツ姿の晴紀がいた。
「ハル君……」
晴紀が広瀬教授の目の前に来た。
「教授、いまのシアトルに行くという話、本当なのですか。相良先生が行けるようにもう準備ができているということなのですか」
「そうだよ。彼女が診療所を定着させてくれたら、報酬として、論文に適う経験ができる医大で学びたいと希望していた通りにしてやろうとね」
晴紀が、久しぶりに美湖をあの怖い顔で睨んだ。
「美湖先生、島に来る前、そう望んでいたんだ」
美湖はなにも答えなかった。別にそこまで望んでいたことではない。ただ医師を続けて行くには、違う、父や兄と一緒に働けないなら自分がすることできることはそれしかなかっただけ。
「それしか、私ができることがなかったから、そう望んでいただけ」
なのに広瀬教授が呆れたように溜め息をついた。
「君はそういう『たいしたことは思っていない』という素振りをしながらも、やっていることはとてつもなく真剣で『情熱的』なんだよね……」
そこでやっと教授が美湖の論文を手に持って眺めた。
「きっと良い出来に違いない。じっくり読ませていただくよ、楽しみだ。だからこそ、君をこの島の医療を預けることに選んで、さらなる躍進を望んでいる」
教授のその言葉を聞いた晴紀が、また美湖を強く睨んでいる。
「先生。まさか俺と結婚するから、俺と島にいたいから断りたいと思ってる?」
その通りだった。そうだと言いたい。でも晴紀が『そうじゃないだろ』と怒っているのがもうわかる。
「だって……。私、晴紀君と結婚するんだよ。あの診療所だってまだ半年しかいない。他の人に任せたくない」
やっと本心を口にしていた。教授に言えなくても、夫になる晴紀には言っておきたかったから。
「そうじゃないだろ、先生! 俺は、そんなことで先生に島にいて欲しくない!」
「でも、私は重見の嫁になるんだよ! 島であの家を守っていくんだよ!」
ついに立ち上がって、晴紀に食ってかかっていた。広瀬教授はじっと静かな眼鏡の顔で若い二人が向きあうのを黙って見ている。
「ハル君だって、あの家のご当主で長男でしょ。離れられないでしょ!」
なのに晴紀が言い放った。
「俺もシアトルに行く」
え! 美湖は目を丸くした。そして首を振った。
「な、なに言ってるの! やっとお母さんが、清子さんが元気になったのに。離れるの? まだ元気になったばかりだよ!」
そして美湖も今になってはっきりと突き返す。
「清子さんを一人にするくらいなら、私、一人で行く!」
もう破れかぶれだった。どう言っても、広瀬教授は美湖をシアトルに行かせたいようだからもう仕方がない。行くしかないなら、自分が一人で行く! ハル君は母親のそばにいろと言い放った。
晴紀もそこは少し案じていることなのか怯んで言い返してこなかった。
「ほら、お母さんが心配でしょ。やっとやっと、親子で笑顔で過ごせるようになったんだから……」
一緒にいてあげなよ。私たちのことはそれからだ――と言おうとしたら、また。
「いいえ。美湖さんはシアトルへ行くのよ」
今度は清子がそこにいた。紺のドレス姿で、いつもの優美な奥様の顔で。
「清子さん……」
「美湖先生が戻ってこられないから、晴紀と一緒に探しに来て一緒に聞こえてしまったんです」
二人一緒に広瀬教授との話を聞いてしまっていたということらしい。驚いて美湖が晴紀を見上げると、晴紀もそうだよと頷いた。
「でも、清子さん、私は……」
「美湖先生。いままでのキャリアを捨てたくないと私に言ったことあるでしょう。あれは嘘だったの」
清子を安心させるために言ったことはある。でもあれが嘘だったとは清子には言いたくないし、嘘でもなかった。これからも医師としてやっていくには、シアトル行きが大事なのは自分でもわかっている。
「美湖さん。重見のお嫁さんにすぐにならなくてもいいのよ。それに、私も晴紀も先生には、美湖さんにはお医者様であって欲しいと思っています。私と息子の自慢のお嫁さんなんですよ」
そう言ってくれると涙が滲んでしまう。でも、
「でも、私……」
蜜柑の花の匂いがする頃からずっと、清子のお昼ごはんを食べて、晴紀と喧嘩して笑って、優しい笑顔の清子がそっとそばにいる。そんな柔らかで、青い海のようにきらきらしている場所を見つけてしまった。そこから放り出される気持ちでいる。
そうしたら清子がそれがわかっているかのように、いつか見せた母親の険しい顔になって美湖に言った。
「行ってきなさい、美湖さん」
「清子さん」
「晴紀もよ。せっかく婚約したのだから離れちゃ駄目よ。それに貴方も、もう一度島から出て頑張ってみなさい。二人ともまだ若いのだから」
「母ちゃん……」
まだ美湖がぐずぐすしていると、やっと晴紀が優しく抱き寄せてくれる。
「先生、一緒に行くよ俺も。美湖サン、シアトル行こう」
なにもかもがいきなりすぎて動転している。広瀬教授の前で一人の時は保てていた強気が、晴紀がそばにいるとこんなに崩れてしまって……。
さらに広瀬教授が付け加えた。
「相良君。『前例』になって欲しいのだよ」
前例? 広瀬教授を見つめると、彼がさらに告げた。
「僻地医療という私の道筋をこれからも保つために。ただ意欲があって理想が高い医師を派遣する、そんな漠然とした人選は辞めることにしたんだ。この人選は不確かであって辞めていく医師も多かった。それならば『これをしたら希望が叶う』という方式を確立させようと思ってね。つまり、『私が言い渡した僻地の医療に携わったら、キャリアアップの報酬がある』という前例だ。それを相良君にしてほしい」
やっと、広瀬教授が美湖をどのような駒として動かそうとしていたかわかった。
「そうだったのですね。ならば……、私がシアトルの留学を教授からバックアップしてもらったという事実ができないと、以後の僻地医療やあの診療所を維持していく糧にならないということなのですね」
「そうだ。そういうことだ」
「何故、吾妻先生ではなかったのですか」
「彼はいまできたばかりの息子のこれからを大事にしてく時期であって、無理に環境を変えたくないと望んでいる。だから相良君を推薦した。それに君ぐらいの発展途上の若い医師のほうが、喜んでこの道を選ぶようになってくれると思う。僻地医療をサポートできて、若い医師の育成にもなる。私はそのシステムを構築していくために邁進する」
さらに広瀬教授が晴紀と一緒にいる美湖をまっすぐに見つめて言う。
「シアトルから帰ったら、あの診療所を任せてもいい。島にいながらにしてキャリアアップができるよう、サポートしよう。そして君は重見と野間氏との仲介をして、私を助けてくれたらいい」
それがシアトルから帰ってきた時のさらなる報酬だと、教授がはっきりと言いきった。
「私がやりたい僻地医療はなにも瀬戸内だけではないからね」
そこまで聞いて、美湖も決意した。あの診療所や僻地の医療をこの教授がこれから発展させ、医師を派遣しやすくしていく前例のために。
「わかりました。行かせていただきます、シアトルに」
まだそこに堂々と座り込んでいる福神顔の教授に美湖は深々と頭を下げる。
「私にあの島の診療所を任せてくださってありがとうございました。素晴らしい経験でした。そしてこんな私に、キャリアアップの道を準備してくださって感謝致します」
でも目をつむると涙がこぼれた。
医師として嬉しい出来事のはずなのに、美湖は哀しい。泣いていると晴紀が困ったように抱きしめてくれる。
「美湖サン……、なんでそんな泣くんだよ」
「だって、しばらく島とお別れでしょ」
それだけ美湖にとっては恋した島だったから。そうして美湖の黒髪を優しく晴紀が撫でてくれる。
あの島にもう少しいられると思ったから。晴紀や清子だけじゃない、美湖はあの島のことももう愛している。
広瀬教授もそんな美湖の思いを知って慰めてくれる。
「まだ準備期間があるから、おそらく来年になると思うよ。その前にアメリカで医師として働くための試験も必要だしね」
晴紀も少しほっとした顔になった。
「ということは、もう少しは島の診療所で美湖さんも働いていけるってことですね」
「その間に、晴紀君との結婚についても話し合い準備を進めたらいいと思う」
それを聞いて美湖も、まだすぐではない、心の準備も少しずつ進められるとほっとした。
――と、しんみりしていたら。
「お母さんも一緒に行くわ、シアトル」
清子がそう言いだして、晴紀と美湖は一緒に『えーーー!!!』と仰天する。
「なんか羨ましくなっちゃったわ」
「ま、待てよ、母ちゃん! 海外なんてハワイぐらいしか行ったことないだろ」
息子の晴紀がワタワタし始める。美湖も絶句して涙がすっかり止まってしまう。
「なんかね、晴紀と美湖さんが一緒なら、なんでも大丈夫な気がするの最近。お母さんもシアトル見たくなっちゃった」
もう晴紀と美湖は揃って目が点な状態。
広瀬教授が『わははは、これはいい!』と大笑い。
「行くだけ行って、二ヶ月して駄目だったら、お母さん一人で帰る。ね、いいでしょ」
しかしこれは、死のうとして死ねず閉じこもってしまっていた清子が完全復活した証拠だった。
晴紀と美湖は一緒に顔を見合わせ、もう嬉しくて笑っていた。
「嬉しい、清子さんも一緒だなんて」
「よし、じゃあ。母ちゃんと美湖さんとまずはシアトルで頑張るか」
晴紀が美湖も清子も両脇にぎゅっと抱き寄せてくれる。
美湖もやっと気持ちが上向きになる。
「うん、シアトルで。ハル君と清子さんと頑張る」
福神様が持ってきたお話は、ほんとうに『福』だったかもしれない。
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