32.図太く清らかに
晴紀が出て行ってしまって三日ほど。
なんとか気力を振りしぼって美湖は仕事に向かう。
さすがに父もそんな娘がミスをしないかはらはらしているようで、そばから離れようともしない。
「お疲れ様です」
そんな中、久しぶりに吾妻がこの診療所を訪ねてきた。
「おう相良、やってるか」
いつものからっとした笑顔で現れた。
「お父さん、相良先生もサポートありがとうございます。助かります」
「いえ、勝手に来て勝手にさせてもらってるんですよ」
「そうそう。うちの広瀬と連絡を取りました。今度、あちらに帰られてから、お時間がある時に広瀬もお会いしたいとの返答でした。おそらく、お父さんにお願いすることになると思います。ご協力いただくうえでの話し合いや契約のこともありますので、また日程の調整をお願いします」
父の表情が明るくなる。
「そうでしたか。いや、良かった」
父は心底、この島での診察をやりたいようだった。正直、娘としても父がここまで離島医療に興味を持ってくれるのは意外であって、嬉しかった。
「申し訳ないです。診療時間中だとはわかっていますが、お嬢さん、美湖さんをお借りしたいので、相良先生、ここをお願いしてもよろしいですか」
「それは、もちろん」
美湖、行ってきなさい――と言われ、美湖も父にデスクを任せて、診療中ではあるが吾妻のそばに行く。
「外、行こうか」
ダイニングへ来てもらおうと思っていたが、吾妻は待合室にいる島民を気にしてか、美湖を外に連れ出した。
白衣のふたりが、そのまま港へ向かう。
秋晴れの真っ青な空に、秋らしい風が海辺に吹く。それでも爽やかな空気だった。
「聞いたよ。お父さんから。ハル君の噂を聞いたとか、娘が彼に恋をしていたとか、清子さんのことなんとかしてあげたいとか、ハル君の潔白をきちんとしてあげたいとか……。ほんと、お父さんが晴紀の父親かと思うほどの勢いで俺のところに相談に来たよ」
「申し訳ないです。こちらの事情で……」
「いや、水くさいなと思ったのと同時に。相良らしいなと思ったよ。そうやって、相談してくれだなんて言わない女だもんなおまえは。早苗からちょいちょい様子を聞いてはいたし、成夫や圭二と呑み屋で会った時に、晴紀と相良が恋仲になったことも聞かされていたしな。おまえから、もう駄目だと泣きついてこない限りは、そっとしておくつもりだった。……のに、お父さんが来られて一気に状況が変わったな」
それでも美湖はこうした吾妻の距離の取り方がちょうど良く感じていたから、付き合いが長く続いたと思っている。それはきっと吾妻も同じなのだと思う。
「こんな時になんだけれど。俺と早苗、結婚することにしたんだ」
驚いて美湖は吾妻を見上げてしまう。
「早苗さん、決心してくださったんですね!」
「ああ、もう、膠着状態が続いていたんでどうしようかと思ったけれどさ。相良が言ってくれたんだってな。俺は好きになった女に一直線だから安心しろって。それがだいぶ効いたみたいでさ、ありがとな、後方支援助かった」
「えー、そんな。本当のことを伝えただけですよ。あ、でも、今度はずうっとずうっとご夫妻でいてくださいよ。息子さんにも責任があるんですから」
「その息子のおかげでもあるな。彼女の息子を立派に育てる、それが結婚のいちばんの条件だ。俺の覚悟を知ってくれて、早苗も受け入れてくれたよ」
「わー、おめでとうございます!」
沈んでいた気持ちがぱあっと晴れた。本当に、信頼している指導医先生の幸せのお知らせは嬉しいことだった。
だからなのか。逆に吾妻の表情が曇った。
「だから、俺もさ。相良にも望んだ男と一緒にいられるようにしてあげたい、早苗もそう思っている」
吾妻がオペの時に見せる険しい目で、美湖の両肩を掴んで見据えてきた。
「相良。おまえ、お父さんと一緒に行ってこい」
え、どこへ? 美湖は首を傾げた。
「今治の伯父さんのところへだ」
美湖は硬直する。どこかで拒否をしている自分がいる。
「そんな、一度も会ったことがない彼のご親戚に、いきなり甥っ子に恋しているからという理由で、知りたいだなんて会えません」
「恋したからだけではないだろう。実際に、島民からは相良が重見家の事情を知るべきかどうか、今後も相良以外の医師が来た時にどうするべきかという討論が上がっている。それを解消するためだよ」
「そうなると論点ずれています。知られなければいいだけの話で、今回、島民の方がざわざわしているのは、きっと、私とハル君が男と女の仲になって、それがどう診療所に影響するかなんだと思います。結局、男と女であることが問題になって。あちらの伯父様がシビアな方なら、医者をすげ替えればいいと思うだけになってしまいますよね」
「はあ。おまえもお父さんも難しい頭してんな。なにも考えずにもうつっこんでいってみろよ。おまえが留守の間は、診療所は港病院の医師がローテーションでフォローしておくから」
港の潮風、水際を歩いている美湖が黙ってしまうと、吾妻が気が付いてしまう。
「そっか。相良、おまえ、エヒメオーナーの伯父さんが怖いのか」
どっきりして背が高い彼を見上げてしまった。
「へえ。あは、いまのおまえの顔、ハル君に見せてあげたいな。女らしいかわいい顔しているって」
「からかわないでくださいよっ」
「あー、元に戻ってしまった。いまさらおまえに素直になれなんていわないけどさ、たまには気の弱いところ見せて、甘えてやれよ」
いや、もう……、二人きりのときは甘えているし。そう、きっと晴紀はそんな美湖をいつのまにか上手に甘やかしてくれている。強気で生意気で口が悪くても、晴紀は決して美湖に触れるのをやめない。肌も、心も、なにもかも。
吾妻だけが『かわいい』といままで言ってくれていたけれど、『かわいくない先生が好きだ』と言ってくれたのは晴紀だけ。
「そうですね。私も、父の疑問が気になるので行ってみます」
「そうだな。実は、俺も……、早苗も……、もっと違うなにかが裏であったんじゃないかと思っていたんだ。それは当人のハル君も心の奥でくすぶらせていたと思う。ただ、お母さんが心配で島から離れられなくて、半ば諦めていたところもあると思うんだ。いま清子さんにはおまえがいる。だから晴紀は確かめに行ったんだきっと」
吾妻も岡氏と同じ事を考えていた。それは父が気が付いたことを、薄々感じていた人間が幾分かいたことになる。
「それに。ここからは、綺麗な話ではないんだけれどな。重見の家とは強く繋がっておきたいんだ。重見が援助してくれるということは、そのバックにいるエヒメオーナーの伯父がいることが、広瀬教授の思惑込みなんだよ。今治の伯父は日本の海運を担う大型貨物船を百隻ほど所有していて、大手海運会社にも貸しているし、依頼されて企業が望む造船もするほどだ。日本の経済を左右するんだ、政財界とも繋がっているらしい。そのパイプも狙っていると思う」
その話にも美湖は驚き――、そしてその教授の思惑が少しわかったそこで見えたものに驚愕する。
「もしかして、私……、そのために? 重見家と親しくなる女を……てことですか」
「いやいや、それは考えすぎ! まあ、広瀬教授のことだから『そうなってくれたら、いい力になる』とは腹の底では思っていたかもしれないな。それにおまえを診療所にと選んだのは俺だし。広瀬教授がおまえに任せてもいいと許可してくれたのは、やっぱりその気の強さな。あと、横浜に未練を持たない医師だ。男と別れて、男が目の前で院内教授の娘と結婚するとなれば、おまえだって素知らぬふりするのは大変だろう」
「別に。全然、平気ですけれど――」
「そういいながら、おまえは心を疲れさせていたんだよ。平気になることにエネルギーを注ぎ込んでいたんだよ。俺もそうだったから」
わからなくもなかった。いまでも横浜で嫌な思いをしたとは思っていない。それでも、この島に来たら次々となにかのロックが外れた感覚があった。
「俺たち、ここの空気と色、ここの人間に惚れてしまっただろう」
「そうですね、きっと吾妻先生もそうだと思っていました」
やはり同じだった。都会の大病院でクールにシビアに淡々としながらも、命に重責ある使命に向かいながら、癒される場があるようでそこは脆くて、自分も疎くなってきて。でも感覚が鈍った心がここで蘇った。
「正直、広瀬教授は心の底では人間らしいことに真っ直ぐなんじゃないかと思えてきてしまうよ。狸のような顔で『僻地医療も大事』と院内政治で利用しているように見えても、奥底の信念は清らかなのかもな。ただ、手を汚して自分を汚して進まなくてはならないことがある。でも、真っ直ぐに清らかな駒も必要だ。俺たちはいままでの『決して潰されない図太さ』も失わずに、でも『清らかな医師』であればいいのだと思う」
最後に彼が言った。
「その駒に、俺と相良が選ばれたんだ。なにも考えず、ここでの使命を全うしろ。なにがあってもだ。そしておまえも、安らぐ場所を必死で勝ち取れ。戦うのに必要だ」
それが俺には早苗で、おまえには晴紀君。だから、行ってこいと再度念を押される。
「わかりました。父と行ってきます」
美湖も腹をくくった。
「清子さんや島民には、横浜の教授に中間報告で呼ばれた出張だと言っておく。お父さんと口裏合わせしておけよ」
そこまで気にして会いに来てくれた吾妻にお礼を言って、そのまま港で白衣の吾妻と別れた。
「先生は結婚、勝ち取ったのか」
美湖はまだ、そこまでは考えていない。ほんのわずかだったが、晴紀と忍んで抱き合っていたあの甘い蜜月。でも気兼ねのない、自分らしいひととき。あんなふうに、また口悪い冗談を言い合って笑って抱き合いたい。晴紀と清子と過ごした日々を取り戻したい。いまはそれだけ。
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