5.男の家事手伝い?
恐ろしく、順調だった。
晴天の日々が続き、爽やかな風。でもあの甘い香りがなくなってしまった。
同時に、雨が続くようになる。梅雨入りだと聞いた。
二階の部屋から見える海の色がくすみ、白波がたち荒れ模様の日々が続く。
「最近、人が少ないわね。徒歩の人が多いみたいだから、この天気だと出づらくなるのかな」
閑散とした診療時間を持て余しながら、美湖がそういうと薬剤を点検している愛美も溜め息をついた。
「そうですね。梅雨明けまで暫くこんな状態かもしれませんね。それに、最近、この季節でも台風がくるようになったから、港周り、船持ちのおうちはそちらで大変なんですよ」
「ああ、そうなるのか。海がくすんでいると、こっちも気分が曇っちゃうね」
溜め息混じりに言うと、愛美がくすっと笑った。
「え、おかしいこといった?」
「いいえ~。美湖先生、半月たらずですっかり海を気に入ってくれたんだなあと思って」
「そりゃあ、あんな綺麗な海が毎日窓から見えたら、荒れている日はがっかりするわよ」
そして、蜜柑の花の匂いがなくなったのも残念に思っていた。
凄く贅沢な季節にこの島に来てしまったと思っていたほどだった。初めての島の記憶がその花の匂い。一年に一度しか嗅げない匂い。
愛美は『また来年も咲きますよ』なんて言ったが、それこそ島民の感覚だと美湖は思った。島の外から来た人間としてはその来年があるかどうかわからないのだから。
島の外から来た人間の当たり前と島民の当たり前。そこに密かに隔たりを感じるのはこんな時かと美湖も時たま感じるようになった。
受付カウンターにある電話が鳴り、愛美が取りに行った。
「美湖先生。中央病院にいる吾妻先生からです。そちら内線通しますね」
デスクにある電話が鳴り、美湖はそれを取る。
『おう、相良。なにごともなく順調のようでなにより』
「おかげさまで、なんとかこなしています。私が来るまで、吾妻先生が十二分に準備してくださっていたおかげです」
ほんとうにそう思っていた。綺麗にリフォームされた自宅兼診療所の過ごしやすさも、そして、どの島民も『吾妻先生が推薦した女医さん』と理解してくれていて、すんなりと美湖を受け入れてくれたのも、吾妻が美湖を呼び寄せることを想定した尽力のおかげだった。
『おまえ、そろそろ食いもん大丈夫か』
それには美湖も額を抱えて唸ってしまう。
「あの、商店街とやらがそちらの裏側の港近くにあって、しかも十八時で閉まってしまうのなんとかならないんですかね」
『日曜と午後休診の日を上手く使って買いだめしろと言っておいただろ』
「車のナビどおりに運転していたら、すっごい山奥みたいな、蜜柑ばっかりの段々畑の行き止まりにあったんです。そちらまで辿り着けないんですけれど」
『はあ? おまえ、そんな方向音痴だったか』
「方向音痴ではありません」
いや、若干そうかもと思いながらも否定しておいた。
お向かいのハル君が準備してくれた食材もそろそろ尽きそうになって、美湖もようやっと買い物に行こうと行動を起こしてみた。
だけれど『午後休診』は往診にあてることにしているから、帰ってきたら時間がないこともある。日曜の休診日も、ことごとく『先生、診てください。来てください』と急患が入り、診察したり往診に行くこともあった。
ほっとひといきついて車を出してみれば、道が分からない。ちょっとした脇道に入ると鬱蒼とした森林、いや密柑山に入ってしまい、ほんとうにこの道を抜けたら向こうの港に着くの? 中央の町にたどり着くの? と恐ろしくなって引き返すともう時間がなくなっている。
吾妻が連れてきてくれた道をそのとおりに進んでいるはずなのに、違う景色に出会ったように思えてわからなくなる。そうしてこの半月、美湖は買い物に行けずにいた。
『いいか。明日、午後休診だろ。マナちゃんを隣に乗せて買い物しておけ』
「そうします。愛美さんにも相談していたところでした」
『そうか、それなら安心だな。ああ、そうだった。連絡したのはな、俺、明日から神戸の学会に行くんで中央病院を留守にするんだ。なにもないとは思うが、まあ、そのつもりでよろしく』
「わかりました。お気をつけて」
『なんか、嫌な予感がするんだよな』
そうですか? と美湖は首を傾げたが、吾妻が気になることを呟いた。
『海の色とか波の立ちかたな。こんな時は島を出て行きたくなくなる』
美湖はなにも言い返せなかった。ちょっと驚いた。まるでもう島民のような言い方と感覚だと思った。二年もいるとそうなるのかと感じたほど。
定期的に外部との情報交換なども出掛けているようで、吾妻も久しぶりに本州へ行くという。
電話を切って、美湖も処置室の窓から見える海へと振り返る。
「愛美さん。明日の買い物、よろしくね」
「先生とお買い物、楽しみです。島のお店、いろいろ紹介しますね」
ちょっと美湖と歳は離れているけれど、そこは女の子同士。島に来てもこういう楽しい女子との時間をもてるとはおもわなかった。そこも吾妻先生に感謝。
その夜も海の波はざわついていた。風も少し強い。
翌朝、診療を開始する時間になると、ハルがやってきた。
外はもう雨が降っていて、風もある。ウィンドブレーカーやレインコートを羽織った姿で、彼がまた遠慮もなく診察室のドアを開けてやってきた。
「センセ、台風予報が来てるんで、ちょっと気になるところ補強しておくから。外で音がするかもしれないけれど気にしないで」
「え、そんなこと……してくれるの」
さらに、リフォームしたばかりなのに、気になるところってなに――と住み始めたばかりのため不安になる。
しかも晴天の時は穏やかな窓辺で気分も良くなるが、昨夜から徐々に荒れてくる海の音が思った以上に近くて、初めて海を怖いと思っていたから余計だった。
それでもハルはそのままいつもの素っ気ない顔で行ってしまった。
この日も天候のせいか、待合室は閑散としていた。小さな子が夜から発熱したと朝一で若いママさんが連れてきた診察を終えると誰もいなくなった。
ほんとうに壁になにかを打ち付ける音がして、美湖は不安になって外に出た。横殴りの小雨がもう降っている。
白衣の裾が翻るまま、海側、住居の庭側へ。そこへ行くと、ハルが雨合羽姿で壁に梯子をかけて登っていた。
「ハル君!」
初めて彼を呼んだせいか、彼が梯子の上からギョッとした顔でこちらを見下ろした。
「センセ、濡れるだろ。なに傘もささないで出てきたんだよ。中に入ってろって」
「補強ってなにしているの」
「これ。酔芙蓉の木。こいつ、リフォームで植えたばかりだから根付き浅いと思う。倒れるかもしれないから紐で補強しておくんだ」
その木は、美湖がベッドルームにしている二階の窓辺まで伸びていた。
「あと蔓バラとかも、いいから、センセは中に戻っていろって!」
また睨まれて、強く言われて、でも白衣が湿ってきたので美湖もそのまま診療所へと戻った。
愛美が心配して出迎えてくれる。
「美湖先生、なんで外に、白衣湿っちゃったじゃないですか」
「ごめん。替えてくるね。海辺の風てすごいね。家のどこか弱いのかと不安になっちゃって」
「大丈夫ですよ、ハルに任せておけば。ハル兄、なんでもできるから」
なんでもできる? すごい信頼感だと美湖は眉をひそめる。
でも。確かに、風の中ものともせずに梯子に登って、たった一人でロープ片手に庭木を固定していた。
二階の自分の部屋に戻って、綺麗に保管している白衣に着替える。窓辺にはもう彼の影はない。
まっさらな白衣を羽織って階段を下りると、一階のダイニングへ。そして診療所へと戻った。その時、雨合羽を濡らしたハルが戻ってきたところ。愛美がそのレインコートを脱ぐのを手伝っているところだった。
「ハル兄、お疲れ様。あったかいコーヒーでも飲む?」
「いいよ、仕事中だろ。すぐに帰るから。今夜、港に行くと思うから、うちの母ちゃん頼めるか」
「もちろんだよ。様子を見に行くから安心して」
吾妻の胸騒ぎが美湖にも伝わってきた。そうだ、島民の彼らがざわついているからだ。彼らが身体で察知している。『台風が来る、今夜、島は荒れる』と感じているからだ。
「ハル君、ありがとう。コーヒー、飲んで行きなさいよ。私が淹れるから」
愛美ではなく、この診療所を預かっている主であるドクターが言えば、彼も気を許してくれると美湖は思ったから誘った。
また、彼があの鋭い目つきでじっと美湖を見据えている。もう、なんでそういちいち敵視するのかなと美湖も溜め息をつきたくなった。
なのに。
「いいんすか……」
美湖もはたと我に返る。
「も、もちろん。あ、このまえハル君が買ってきてくれたデカフェなんだけれどね」
まだ彼がじっと美湖を見ている。
そんなハルの厳つい眼差しに愛美が気がついて割って入ってきた。
「いただいていきなよ、ハル! 診療所は私が見ているから、患者さん来たら呼ぶから、ね!」
愛美に押されて、やっと彼がいつものティシャツ、短パン姿で待合室に上がった。美湖もそのまま住居のダイニングへと向かう。
電気ケトルで湯を沸かして、マグカップにドリップをセットする。
お湯を注ぎ抽出を待っている間に、個装のフレッシュミルクやお砂糖、蜂蜜を準備した。
「コーヒーにハチミツ?」
椅子に座って待っているハルが不思議そうにハチミツの瓶を手に取った。
「私の愛用、北海道のアカシアの蜂蜜。横浜から持ってきた」
「へえ、俺もいいですか」
「どうぞ」
コーヒーが出来上がり、黒髪が湿ったままの彼の目の前にカップを差し出した。
「センセ、牛乳ないんだ」
個装のフレッシュミルクを入れながら、ハルが聞いた。どうやら牛乳を入れたかったらしい。
「ハル君が買ってくれたのがもうなくなって何日かな……」
「買い物は」
「蜜柑山で迷って阻まれて……、明日、愛美さんに連れていってもらう予定」
そこで彼が初めて『ぷっ』と笑いを堪えた顔をした。
「嘘だろ。そこの道、一本行けばトンネル通って十分ぐらいで向こうの港に着くだろ」
「どーしてかな。吾妻先生が海と島を見せたいと海周りの道から連れてきてくれたから、そっちに行っちゃったみたいで。その近道のトンネル道てどこからはいるの」
「あー、そっちに行っちゃっていたか。それはナビを信じていたら密柑山入るな」
ハルが素直に迷いなく、美湖が愛用しているアカシア蜂蜜をコーヒーに入れている。
「ハル君、庭木を補強してくれてありがとうね」
「なんで、『君』で呼ぶんだよ。さっき、びっくりした」
「だって。愛美さんが『ハル』て呼んでいるし、吾妻先生もハル君て呼んでいたでしょう。きっと私よりずっと若いよね。ハル君」
「そうだな。俺、先生より五歳年下だ」
美湖はギョッとする。自分より若いとは思っていたけれど、五歳も年下!? しかも彼はもう美湖の年齢を知っている!
「な、なんで私の年齢を知っているの。まだ教えていないのに」
蜂蜜入りのコーヒーをゆったりと飲み始めたハルがこともなげに言う。
「吾妻先生からどんな先生がくるか経歴書見せてもらったから。年齢も書いてあった」
そういうことか。というか! 五つも年上だと知られてしまったと思った。
「そっか、女医先生も道に迷うのか」
その女医の、五つも年上のお姉さんが、蜜柑畑で遭難したのがおかしかったのか、彼がまだ時々くすりと笑っている。
やっぱ、こいつ、生意気。美湖は密かにムッとして、自分も蜂蜜入りのコーヒーをすすった。
「それにしても。吾妻先生ったら、そんなに私の経歴をみんなに見せて回ってるの?」
「そんな病院の大事な医師情報を見せて回るなんてしてねえよ」
「じゃあ、ハル君はなんで見せてもらったの」
「ここ、俺の家だから」
ん? 俺の家? また美湖は眉をひそめた。
そんな美湖に、またハルは無表情に応える。
「だから、この診療所。家も土地も俺の名義、親父が逝去して俺がもらった土地。どこに診療所を作ろうかという話になって、俺がここ提供したわけ」
えーー! ってことは、ある意味『大家さん』!? だから、だから、この家の冷蔵庫をいっぱいにしてくれたり、庭木を守ろうとしてくれたり、せっせと世話をしてくれていたんだと初めて知った!
しかも二十八歳で、この土地も家も俺のもの!?
「親父がもう亡くなったのと、田舎ってそういうもんだよ。別に俺だけじゃないよ。愛美の兄貴も土地とか引き継いでいるし」
「お、大家さん業で暮らしているってこと……?」
でもスーツ着てアルバイトとか? いったいどういう暮らしなのかわからない。
「愛美……、俺のことなんも先生に話していないんだ。ま、そのほうが気が楽だけれど」
「話していないって……?」
こんな時になって、ハルが目線を逸らした。コーヒーを飲むためなのか、黙ってしまう。
飲み干したマグカップを置いたハルが、椅子から立ち上がりながら言った。
「フリーターだと思ってくれていいよ。伯父の会社手伝い、それから、親父の船も引き継いで漁もやってる。センセが来た日に食べてもらった刺身、あれ俺が釣った魚だから。漁協もアルバイト程度、そういう働き方。男の家事手伝いな」
『ご馳走様』。美湖がなにかを聞こうとするのを避けるようにして、ハルはコーヒーを飲み終えるとさっと出て行こうとする。でもドア前で一度立ち止まった。
「晴紀(はるき)って名だから、ハルて呼ばれてる。ハル君じゃない」
そういって、出て行ってしまった。
彼が出て行った後も美湖は首を捻っていた。なんだかハルという男がぼんやりしていて掴み所がないから。
「男の家事手伝い? フリーター? え、船を持っていて漁もしているの!?」
しかし、不動産を持っている島民もいると吾妻から聞いていたから、その一家なのかもしれない。
彼は向かいに住んでいるのに、時々しか姿を見ない。見た時はいつもあのラフな格好で軽トラに乗ってでかけるところ。母親と暮らしているらしいが姿を見せたことはない。
それでも診療所の向かいは、道路より高く上げられている敷地に広い庭があり、歴史がありそうな古民家の造りで大きな家だった。このあたりでいちばん大きい家かもしれない。
つまり。お坊っちゃん? 見えないけれど、お坊っちゃんなのかもしれない?
そういえば、スーツ姿は年下の男でも品があり男らしく堂々としていた。……いや、雨合羽で梯子に登って作業する姿も……、テキパキしていた。
でも。
「なにが女医先生でも道に迷うんだ、よ」
やっぱり気に入らない。それに態度がほんと素っ気ない。人のこと言えないけれど!
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