先生には、ナイショ④-2
「ハル君、また大学病院で手術の助手に入ることになったの。準備やカンファレンスで二日かかるから留守にするね」
「わかった」
ときたま美湖がそうして外科医としての仕事にでかけていく。
港から四十分ぐらいの郊外にある国立の大学病院に広瀬教授のツテがあり、呼吸器外科の医師として手伝いに行くこともよくあった。
そんな時はカンファレンスなどの話し合いの日程も必要で、大学病院付近のビジネスホテルに宿泊してその仕事にあたるようになっていた。
美湖が留守になると、診療所ハウスの二階は侘びしくなる。
そんな時は向かいの実家に帰る。
以前のように母と過ごす。
「美湖先生、いつお帰りなの」
「んー、今日がカンファレンスで、明日が準備で、明後日が手術だったかな。その日の夜に終わる予定だって言っていたかな」
「まあ、手術に入ると長いわね」
「少しでも手があると助かるんだってさ。センセもオペに入らないと腕がなまっちゃうだろうし」
「ほんとうだったら、横浜の大きな病院でいっぱいオペをしていたはずなのよね」
なのに島に来て診療医になってしまった。母はそういいたそうで、晴紀も気にしていることだった。
「でも。センセはもうそれでいいみたいに言ってるんだよな。シアトルに行ったら行ったでまたオペで忙しくなるみたいだよ」
「ほんとうに、島に引き留めていいのかしらね……」
母と一緒に晴紀も言葉が止まる。島の診療所をやりたいと美湖は言うが、それで本当にいいのか。せっかくの外科医の道を捨てさせてしまうのではないかと母子で思っている。
「ま、でも、まずはシアトルだよな。来週、今治に行って来る。慶兄がいい物件を見つけてくれたんだ。あ、しまった。美湖先生に一軒家がいいかマンションがいいか聞くのを忘れた」
「お母さんはマンションがいいわ。セキュリティしっかりしていて、お手入れが行き届きやすい広さがいい」
さらに母が思わぬことを言い出す。
「ね、晴紀。お母さん、英会話の体験授業を申し込んじゃったの。その日に市内まで連れていって」
はあ!? いつのまに!!
母はスマートフォンを片手ににっこり。上手く使いこなしているようだった。
「いまから通ってもたいしてためにならないだろ。俺が教えることもできるけど」
「いいじゃない。少しでも本物を体験しておきたいのよ」
大人しい母がだんだん大胆になっている気がする?
「それ、いつだよ」
「明後日の午後」
「美湖先生が帰ってくる日だな」
「じゃあ、迎えに行って一緒に島に帰りましょうよ。市内で一泊してもいいわね。夜においしいもの食べましょう。宿泊もご馳走もお母さんおごっちゃう」
それいいなと晴紀もにんまりしてしまった。
・・・◇・◇・◇・・・
母と一緒に高速船に乗り込み、港の月極に置いているHUMMER(ハマー)に乗せて、中心街にある英会話教室まで。
「母ちゃん、ほんとうに付き添わなくていいのかよ」
「いやよ。この歳になっていちいち息子が付き添うてなんなのよ。行ってきます!」
足をひょっこり引きずりながらも、一人で歩いて街の人混みの中に紛れてしまった。 船乗りの時は母が一人で暮らしていることなど気にもとめなかった。一人でもしっかりやれる人だったから。
それがあの生きる気力を失って怪我をして以降、母は引きこもりになって家に籠もって家事しかしなくなった。
その母が……。また生きる元気を取り戻してくれた母の背をしばらく見送った。
「そこらのカフェで待ってるか」
一人、HUMMERを走らせる。バイバス沿いにある新しいカフェでひと息ついて待つことにした。
その間、今治の慶太郎従兄とメッセージでやりとりをして、シアトルの物件をいくつかピックアップ。
母から【 終わったよー、迎えに来てー 】とメッセージが届いてまた街中へ。母を拾った後は今度は郊外へ。
峠へと向かう道筋、隣の市へと入ってすぐの市街郊外にある大学病院へ。
もう空は暗く、病院も閉まる時間だった。
「晴紀、病院の玄関。閉まっちゃったわよ」
「夜間受付の入口があるんだよ。先生、そこから出入りしている」
つい先月もそうしてオペの後に迎えに来たことがあったため、晴紀はその時と同じ通用口へと向かう。
「ほんとうに美湖先生、ちゃんと終わってる時間なの?」
「たぶん。なにもなければ」
「なにもなければってなに? なにかあるってオペが大変なことになるってこと」
「ままあるらしいよ。胸を開いてみないとわからないことは良くあるだってさ。メッセージ送ったけれど既読になっていないからまだ終わってないと思う」
「そうなの……」
「一時間待っても会えなかったら、もうホテルに行こう。そこで先生を待ってみよう」
「そうね」
母と一緒に夜間の入口から病院内に入った。
正面玄関は受付終了として閉まったが、院内はまだ訪問者に医師に看護師、従業員、そして患者が昼間とおなじように通路を歩き、院内の食堂やカフェにコンビニなどへと向かい賑わっていた。
だがそういうところに美湖はあまりいない。夜間受付の待合いソファーで座って、母から英会話でどうだったかの話を聞きながら彼女を待った。
一時間ほどして、晴紀のスマホが震えた。眺めると美湖からだった。
【 うっそー! 清子さんと迎えに来てくれてるの! いま、終わったところ!! すっごい偶然。 しかもご飯一緒に食べられるのー! 行く行く、すぐ行く、待ってて!! 】
めちゃくちゃ元気が良い返信が届いたので母と一緒に笑って、ほっとしてもう少し待つ。
「まだかしら。先生たちのお部屋てどこなのかしらね」
「どこだろうな。俺たちみたいな一般人はきっと入れてくれないよ」
「まだかしらねー」
そういいながら母がソファーから立ち上がり、人通りが少ないスタッフ専用通路へと覗きに行ってしまった。
「母ちゃん、あまり奥まで行くなよ。病院関係者以外、入れないところだろ」
「だって、もうすぐ美湖先生来るんでしょう」
晴紀より、母のほうが待ちこがれている。
もう仕方がないなと、母があまり勝手をしないよう晴紀もその通路へと近づいてしまう。
奥に階段があり、そのそばにエレベーターも見えた。そのエレベーターの扉が開くと、数人の男性が私服姿で帰るところ。
美湖はいなかった。いや、最後にコート姿で出てきた。しかも同じように黒いコートにスーツ姿の男性を並んで歩いて出てきた。
「お疲れ様でした。相良先生」
大人の男、余裕がある笑みで美湖を見下ろしている。美湖もその彼を笑顔で見上げていた。
「お疲れ様でした。鍋島先生」
「いまから島へお帰りですか。なんなら港まで送っていきますよ」
そんな男の気遣いに美湖が断ることなどわかっていながらも、晴紀はもう目の前に行って『おかえり、先生。俺と帰ろう』とかっさらっていきたい気持ちが湧き上がる。
「ああ、ちょっと。ここからは病院関係者以外立ち入り禁止。出て行ってくださいね。お見舞いなら、あちらの通路を歩いて突き当たりのエレベーターからですよ」
先ほどエレベーターから出てきた男性たちにやいやいと注意をされ、母と一緒に夜間受付の待合い室まで連れ戻される。
関係者通路の奥で、まだ美湖とその医師が向きあって話している。
「もう、なんなのよ。医師の関係者なのにっ」
男たちが夜間受付から出て行ったのを確認して、母がまた美湖がいる奥へと果敢に向かおうとしていた。
「母ちゃん、待っていたら来るんだから、ここにいろよ」
なのに行ってしまう。ああ、もう手がかかるなと晴紀は母を連れ戻すべく、また関係者通路をエレベーターが見える奥まで行ってしまう。
エレベーターの前でまだ、美湖は鍋島という医師を向きあっていた。
「ほんとうにお一人で大丈夫ですか。ここからバスと市電を乗り継いでも、三津浜か高浜に着くのは少し時間がかかりますよ。車なら少しは楽かと思いまして……」
「いいえ。慣れています。島からこの大学病院にだって何度も来ていますし、何度もオペでお世話になっています。フェリーの最終便に間に合わなくなったら泊まれるところも今はどうすればいいかわかりますから大丈夫です」
「そうですか。あの、もし今夜も市内に残ってお泊まりできるのなら……、お食事、いかがですか」
美湖が『え』と驚きの眼差しで、大人の医師を見上げた。当然、覗いていた母も晴紀も『え』だった。
「前から一度、ゆっくりとお話しをしてみたかったのです。あれだけの助手の腕があって、横浜の大学病院から診療所へ赴任だなんて……。いえ、もちろんこの地域の医療に黙って力を注がれていることも立派だと思っております。そんなお話も是非……」
「ですが島にはなるべく早く帰りたいのです。船の時間がありますから」
「相良先生が留守の間は、吾妻先生がきちんとしてくださっているのでしょう」
「そうですけれど」
「なにか相良先生のお力になれませんか。あ、そうだ。瀬戸内の冬の味覚はまだ食べたことないと思うんですよ。ふぐ鍋でもいかがですか。うまいところ知っているんです」
「申し訳ないです。本日は帰ることにしております」
「相良先生!」
去ろうとしている美湖の腕を鍋島医師が掴んだ。
「お一人ですよね。いま、お相手は……? 私はいまは一人です。その、よろしければ、相良先生……」
うわ、マジ告白かよ――と、晴紀は茫然となる。
美湖がどう応えるのか、晴紀のことをどう伝える気があるのか固唾を呑んだ。
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