31.すべてが終わるまで

 父の向かいに、美湖も座った。

 お互いに白衣のまま。同じようにうつむいて向きあう。

「お父さん……、晴紀君と……話したの」

「ああ、だいたい聞いた」


 そして父から聞いてきた。

「おまえ、晴紀君とつきあっているのか」

 怖かった。うんと言ってすぐに否定されるのが、仕事で赴任してきたのに大家の息子とすぐに恋に落ちたことが、男と別れたあと、安易な恋だと思われることが。でも美湖も立ち向かおう。

「うん。彼のことが好き」

 父があからさまに溜め息をついた。


 そして黙り込んでしまう。すぐさま容赦なく隙間なく否定されると思ったので、美湖にはかえって意外な反応だった。

 しかも黙っている時間が長い、時折、溜め息をついて唸って、額を抱えては頭を捻ってずっとだった。そんな父は初めてだった。


 長くて焦れて、美湖から言葉を投げかけようとしたができなかった。

「わかった。もういい。今日はもういい」

 十分ほど待ってやっと出た父の言葉がそれだけ。

「いいって?」

 美湖も茫然とした。ものすごいバトルの覚悟をしていたのに。たったそれだけ? 重見親子のようにきちんと話し合おうと思っていたのにそれだけ?


「今週末に帰る。診たかった患者もひととおり診察、往診したしな。来月、また経過観察と診察に来る」

「え! なに、それ。また来月も来る気なの? 御殿場の病院はどうするの!」

「大輔がだいぶやってくれるようになったから、今回もここまできたんだ。それから、今後のことも吾妻君がいる港病院に往診のついでに相談に行ったんだ。父さんも思った。高齢者に必要な整形外科の環境が不足していると。父さんで良ければ定期的にこちらに来てもいいかどうか。勝手にできないから、ひとまず帰って、横浜の広瀬教授と交渉してくる」


 いつのまにか吾妻に会っているし、美湖が借りている車を使って自由自在に島を回っていると思っていたら、とんでもないこと企んでいて美湖はさらに驚かされる。


「ちょっとちょっと! それは、助かるけれど! は、ハル君のこと……」

 そこでやっと父が美湖を睨んだ。もの凄く恐ろしい眼。

「むかっ腹立った。いまも腹の虫がおさまらない!」

 やっぱり。ハルのこと、そう思って怒っている。だから、美湖も父ときちんと話し合いたい。今度は感情任せの口悪いバトルにならないよう、きちんと話し合いたい。

 だが父が思わぬことを言い出した。


「どう聞いても、晴紀君は悪くないではないか!」

「え……」

「美湖、おまえもそう思っただろう! いいか。船の運航はチームワークだ。医者がチームでオペをするのと一緒だ。その時に、自分の役割を全うせずに人を困らせるばかりの自分勝手な行動をするやつを見て見ぬふりをする上司は無能だし、放置も無責任、晴紀君はそれを二等航海士としてきちんとやっていたんだ!」

 美湖はきょとんとしてしまう。

「それを無視し続けた三等航海士が、エヒメオーナーの甥っ子で自分の実家より威光があるのを根に持って、晴紀君を陥れるために自殺をしたってことだろう。晴紀君はそこまでは言わなかったが、美湖がそう先に教えてくれていたから、その時やっと納得した」


「待って、お、お父さん。なにに対して、怒ってるの……」

「その男のひん曲がった根性と、そんな男を自分勝手に行動する大人に育てた親にだ! 晴紀君から聞いたが、三等航海士の両親が刑事にならなかったせいで、民事で息子が傷ついた慰謝料のようなものを清子さんに請求していたそうではないか! その男の親が! きちんと育てなかったくせに、命ですら人を傷つけるために絶った息子の腐った根性を棚に置いて、真面目に正直に慎ましくやってきた清子さんや、職務を全うしていた晴紀君を窮地に追いやったことだ! そのせいで清子さんですら絶望に追いやられている! こんな理不尽、許せるか!!!」


 眼が燃えていた。怒りに燃えていた。しかも、それは殺人の容疑をかけられていた晴紀ではなく、晴紀を追いつめた亡き男へ。


「お父さん。その気持ち、晴紀君になんて伝えたの」

「なにも言えなかった。そんな簡単に触れてはよいものではないと判断した」


 父がそうして黙っていた姿を晴紀は『拒否された』と思いこんでいるようだった。


「美湖。教えてくれ。晴紀君が事件に巻き込まれたことを、さらに詳しく聞かせてもらうにはどうしたらいい」

「ちょっと、なにをする気なの。お父さん……」

「その男が自殺するに至ったほんとうの理由はなにか調べるんだよ。晴紀君を窮地に追いやるよいタイミングだっただろうが、そのタイミングで死のうとしたのにはもっと重い理由があったと思うんだ」


 美湖は初めてハッとした。晴紀から聞いた話だけでは、男の逆恨みまでしか思いつかなかった。それほどの怨恨だったと思えたからだった。


「なにか不自然なんだよな。負けたくない男がいるならば、父さんならそんな男のために死のうとは思わない。しかし負けるならば、相手も負ける形にと命をかける――、だとしたら晴紀君側でも男を追いつめた決定的な落ち度があるはずだ。しかし……。話を聞いたぶんには晴紀君は職務上で厳しく注意をしただけ、相手の男が気に入らない生い立ちと親戚がいるからだと動機にしては弱い。しかも今治の伯父さんを挟むと、あちらのご遺族も示談でひっこんで二度と接触してこなくなったと聞いた。晴紀君も清子さんも知らないなにかがある気がしてな……」


 その話は美湖も初めて聞いて、でも父の話の内容ですぐに思いついた。


「だったら。今治の伯父様しかいないと思う」

「そのエヒメオーナーの伯父さんに会ってみたいと思う。おまえ、大丈夫か」


 もう絶句した。まだ美湖も会ったことがない伯父様に、父が会いに行くというのだから。


「でも。お父さんが会いに行くなんて、どうしてと思われるよね」

「娘と、気に入った青年のため……だな」


 美湖は固まる……。予測もしていなかった父の気持ちに……。


「お父さん……、そこまでしてくれるの」

「だってな。おまえと対等につきあえる気の強い、頼もしく男らしい青年なんて、そう滅多にいないと思うんだよ。しかもあちらのお母様が奇跡的に娘を気に入ってくれている。いいところの奥様と息子じゃないか」

 奇跡的ってなんだと言い返しそうになったが、もう美湖は泣き出していた。

「反対……されると思っていた……。あ、ハル君もそう思ってるよ」

 父が晴紀と重見の家を気に入ってくれて、なんとか力ないなりたいという気持ちを知れて嬉しかった。


 だが父はそこで、やはりいつもの厳しい顔になった。

「いや。晴紀君には『すべてのことをこちらで検討したうえで、場合によっては娘は返してもらう』と言ってある」

「どうして!」

「まだだ。全てのことを父さんが納得してからだ。あとで、やはりおまえには良くないことが出てくるかもしれない。それは父親としては当然の返答をしただけだ」


 それは確かにそうではある。父の心が『良い青年とご実家だから』と前へと動いてくれたのは成功だったかもしれないが、父は重見家の過去の出来事について全て納得した訳ではない。

 そのうえで、娘を返して欲しいと晴紀に言った。だから晴紀は……『きっともう許してくれない』と思ってしまったのだ。


 今度は美湖が勝手口へと駆け出す。父は呼び止めなかった。茜と夜が滲む紫の薄暗い中、美湖は白衣姿のまま、初めて初めて向かいの大きな重見家へと駆けていく。


 大きくて厳格そうで近寄れなかった晴紀の実家。そこの古い玄関のガラス戸を美湖は叩いた。


「重見さん! 清子さん! 美湖です」


 ガンガン叩いているとガラス戸の向こうに人影。

 清子が出てきてくれた。そっと開けてくれたガラス戸のそこに現れた清子は哀しそうな顔をしている。


「清子さん。ハル君、ハル君に言いたいことがあるんです」

 呼んでくださいとお願いしたが、清子がうつむいていった。

「出て行きました」


 え! もう心臓が止まりそうだった。頭の中も真っ白になりそうだった。


「次の航海があるので、今回は早めに出て行くと。先ほど、今治の兄のところへ……、自分の船で……」

「い、いつ帰ってきます?」


 清子が泣き出してしまった。


「美湖先生がそばにいると好きすぎて辛いって、あの子……。このままじゃいけないと、しばらく留守にするけれど美湖先生をよろしくと言って出ていったの。私もなにがなんだかわからなくて」

「船って……。お父様の漁船ですか、それとも、マリーナにあるクルーザーのほうですか」

「漁船でしょうね。急いでいるようでしたから」


 このままじゃいけないってなに? なにもわからなくて今度は港へとなりふり構わずに駆けていく。


 港の漁船群の道を駆けていると、日が暮れた紫の海に一隻の漁船が港を出て行くのが見えた。

 追いかけても叫んでもその船は遠くなっていく。やがて、港の水際を走っていたら、漁協の桟橋のところに岡氏が立っていた。彼の目線も遠くなっていく船へ。


「岡さん、いま晴紀君が出て行ったでしょう。岡さん、お願い。私も船に乗せて、追いかけてくれませんか」

 美湖が泣いていたせいか、岡氏が困惑していたが、すぐに彼も真顔になった。

「いや、できんわ。俺はハルに行ってこいと思っとるけん」

 なにもかも知っている横顔で、岡氏は港を出て行く船を見守っている。


「美湖先生のお父さん先生が来たと聞いた時から、早い内にこうなる思っとったわ」

「岡さん……、いままで、ハル君の事件のこと……」

 知っているだろうから、美湖から初めて聞いてみた。

「ハルは悪うない、絶対にや。それでも理不尽に陥れられたんや、潔白であることを証明するには時間がいる。それする前に、あっちの親が清子さん責めて、晴紀は島に帰らざるえなくなった。すべてあっちの思うツボや。ある程度のことは今治の伯父がなんとかしてくれたようだけれどな、ハルと清子さんがまともな生活を取り戻すだけで時間がかかったんよ」


 そうして話を聞いていると、宵闇か港を覆い始めていたのに、岡氏の目が涙で光っているのを美湖は見てしまう。


「そこへ、美湖先生や。あんたが来てくれて、晴紀と真っ正面から喧嘩して、息子をへこますなんてどんな女医さんかと不思議に思った清子さんをとうとうひとりで外に出られるようにしてくれた。動き出したんや、ハルも取り戻さにゃいかん。三年前に放ったもん、あいつ探しにいくんや。母ちゃんと美湖先生のためや、きっと」


 それを聞いたら……、美湖も力が抜けてしまう。港の船着き場、そのコンクリートに跪いて泣いた。


 美湖先生……。

 いつのまにか志津と芳子が来てくれて、泣かないでと抱きしめてくれる。

 そんな美湖が島民に宥めてもらっている姿を、父と清子が遠くからそっと見ていたことに美湖は気が付かなかった。


 

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