36.綺麗な男
晴紀が指定したのは、真田珈琲の道後店。おばあちゃんの島レモンマーマレードを全国に流行らせた珈琲会社、美湖も先日、城山近くの本店に入って気に入った老舗カフェ。
父を道後温泉駅で見送り、美湖はそのまま残り晴紀を待った。
初めての道後温泉の情景を父も楽しんで帰っていった。『本館の一番太鼓の風呂に入りたい』と、朝早くから張りきって一人で出掛け、道後温泉本館のお風呂を楽しんでいたほど。
美湖は来た道を戻る。道後温泉駅からすぐ入れる商店街を道なりに行くと道後温泉本館に辿り着く。その本館周辺に集う松山老舗の店が並ぶそこに真田珈琲もあった。
時間が早かったが美湖はひとりでカフェに入り奥の席に座りじっと待つ。
その間に父から【 空港に着いた。診療所、頑張れよ。晴紀君によろしく 】とのメッセージが届いた。それに【 気をつけて帰ってね。お母さんとお兄ちゃんたちによろしく 】とよくある返信をしていた。こういうありきたりなメッセージなんて、どうしてありきたりなこといちいちやるんだと今までならバカにしていた。それが、いまはそのひとことの裏にたくさんの思いがあって、それが通じて伝わることが身に沁みる。
父が来てうんざりしていたし、会いたくなかったし、晴紀にも会わせたくなかった。でも彼を好きでいるならば、避けて通れないことだった。いつかなんとかなると思っていたのだろうか。とにかく今回は避けておきたかった。実際に父が来たことで、美湖が危なげでも穏やかに過ごしていた日常が崩れた。でもそのおかげで……。
「センセ、待った?」
ノーネクタイだったが、爽やかな水色チェックのシャツとグレーのスラックス姿の晴紀がそこにいた。
「ハル君……」
思わず、美湖はそっと椅子から立ち上がる。力が入らない感覚でも、ふらりと立ち上がっていた。
「ハル君……、おかえり」
彼が出て行ってからしばらくだったけれど、日に焼けた男らしい顔、艶のある浅黒い肌の腕、そして美湖が気に入っている綺麗なまつげの眼差しが目の前にある。
ここがお店でなければ、美湖はすぐに抱きついていたと思う。でも、できなくて、ただただハルを見つめて涙を流すだけになってしまった。
「ただいま、先生。大丈夫……? 座ろうか」
泣いて力なく震えている美湖の両肩を、彼の大きな手が頼もしく掴んで支えてくれ、静かに美湖を座らせてくれた。
彼も目の前の席に落ち着いた。小脇に抱えていた紺のジャケットを隣の椅子に置くと、ひと息ついて美湖の顔をじっと見つめてくれる。
「ご心配かけました」
彼が大人の顔で頭を下げた。美湖は言葉も出なくて、彼が見ていなくてもそっと頭を無言で振るだけ。
また彼が頭を上げて、目が合うと、少しだけ逸らされてしまう。
「伯父から聞いた。美湖先生と相良先生が、三年前、俺があのような事件に遭遇したのには、後輩の彼になにかもっと死ななくてはならない訳があったはずだと確かめに来たって」
「……ごめんね、勝手に伯父様に会いに行って。でも、父が、それを確かめないと、娘との付き合いにはまだ納得が出来ないと言いだして。それにもっと裏でなにかがあったというのは父が気がついたの。吾妻先生と早苗さんも疑っていたみたい」
「え、吾妻先生と早苗姉さんも?」
美湖も頷く。
「そうか。そうだったんだ……。時々、早苗姉ちゃんに『このままでいいの。晴紀はなんも疑問はないの?』とたまに詰め寄られていたんだ。でも、俺……、母ちゃんが閉じこもっていたから、まず一緒に日常を取り戻すのが先で、そこまで気力も思いも及ばなかった」
「それは岡さんが言っていた。だから、晴紀にとっては今だから、行かせてやってくれって……。吾妻先生も清子さんにはいま相良がついているから、安心して置いていったんだって、言ってくれて……」
「岡ちゃんに吾妻先生まで……」
美湖はまた港で晴紀を見送った時の胸が潰れる気持ちを思いだしてしまい涙が止まらない。晴紀も島の知り合いが多くを言わずにそっと見守っていたことを知り、うつむいてしまう。
「そうだな。その時が来ていたんだな……。俺、うっすらと『彼女』のことを何度か思い出していた」
『彼女』が誰だかわかり、美湖は硬直し涙もぴたりと止まってしまう。
そこで見計らったように、ホールスタッフが晴紀のオーダーを取りに来た。
「アイスコーヒーと、センセ、もうからっぽだろ。おかわりは?」
「え、あ……」
美湖が戸惑っていると。
「アイリッシュコーヒーお願いします」
晴紀が勝手に注文してしまった。
「アイリッシュコーヒー? なんで勝手に」
「真田珈琲に来たら、アイリッシュコーヒーを飲んでおけが地元民のおすすめ」
「あ、そうなんだ。楽しみ」
こんな時なのにちょっと笑顔になってしまって、美湖はハッとする。
「やっと先生が笑った。調子狂うな。笑ってもくれないし、かわいくない顔で怒ってもいないし。泣いているセンセなんてつまんないな」
「あのねっ、すっごいすっごい心配したんだからね!」
「へえ~、かわいいね先生」
あの綺麗な目が意地悪な視線になる。美湖はいつもの負けん気で向かいそうになったが、それが晴紀の美湖を沈ませない気遣い、かもしれない(?)と思ったらその勢いも萎えてしまう。
「ごめん。俺もふざけたわけじゃ……。心配かけたことも、美湖先生とお父さんの相良先生が知らなくても良かった話を知ることになって申し訳なく思ってる」
「知らないと晴紀君とこれからも一緒にいられなかったと思ってる。父は納得して帰ったよ。いま飛行機に乗ってる。来月、晴紀君に会えること楽しみにしてると言っていたよ」
そういったら、今度は晴紀が黙ってしまった。
しかもうつむいて、テーブルの上にあった手を拳にして握って。今度は晴紀が震えている。よく見ると今度は晴紀の目に涙が……。
「……それ、ほんと? 先生」
「本当だよ。父はハル君のこととても気に入っているの。だから納得できるまで返事はできないと言っていたの」
婿に欲しいはまだ言わないでおこうとそこは避けた。
「それだけが、気がかりで。美湖先生とずっと一緒にいるには、絶対に相良先生に……、いやお父さんに許してもらわなくてはならないと思って。だから、『彼女』に会おうと思った」
「どうして、過去をもう一度探ろうとして、彼女のことが思い浮かんだの?」
「あいつが……、後輩のその男が、俺の目の前で何度か彼女を虐げていたから」
美湖にも目に浮かぶようだった。そしてそんなふうに女性を虐げている男を見てしまったら、正義感が強い晴紀は黙っていなかったはずだ。
「もしかして。ハル君……、彼女を何度か助けたりした?」
辛そうに手のひらで目元を覆った晴紀が力なく『助けた』と答えた。
「あいつ、彼女を見せびらかすために、学生時代も会社での集まりがあるときも呼び出すくせに、人前でもひっぱたいたり、彼女の長い髪をひっぱったり、小学生のガキがするみたいなこと平気でやって笑っていたんだ。俺がやめろと助けたことが何度かあって。その時、あいつが『重見先輩、こいつが気に入っているなら貸してやる。こいつも先輩を気に入っているから。そのかわりヤっているところ俺に見させてくれ。婚約者だから俺の権利だよな』とバカなことをいうから、ぶん殴りそうになったことがある。でも、それも彼女が止めてくれたんだ。その後、彼女がこっそり俺に会いに来てくれて。婚約者の彼がなにを言っても反応しないでほしい、暴力沙汰になったらあっちの親が黙っていなくて、いくら重見先輩の伯父様に権威があっても大変なことになるはずだからって。それ以降、あいつがことあるごとに『俺の女に手を出すな』と今まで以上に目の敵にしてきた。実家のことより、彼女のことばかり気にして『俺の女だ、重見先輩が気に入っても渡さない』だけになっていた。だから、もしかして、なにかあるなら彼女絡みかと……」
「そうだったんだ」
晴紀から男の話を聞いても強烈なあくどさで、美湖は溜め息をつく。でもそうして目に浮かぶ中で感じたこと。
「きっと……、彼女にはハル君はとても綺麗な人に見えたと思うよ」
姿形のことではない。モラルと通常の情緒を破壊している男に縛られていたなら、彼女にとって、真っ直ぐで正義感の強い晴紀はそれだけで美しい心を持った男に見えたはずだから。
そして美湖にも覚えがある。大学病院の様々な人間関係から離れて、田舎の島でまっすぐに生きている男のその裏表のなさに美湖はいつのまにか癒されていたのだと思う。
「彼女の、妹も……そう教えてくれた。姉は、どうしてもあなたと結ばれたかったわけではない。でも、あなたのような男性と生きていくのを望むなら、この男と縁を切らなくてはならない。でも切れないから道連れで破滅することを選んだのだと教えてくれた」
「会ったの。彼女に……」
晴紀がまた黙って頷いたので、美湖は驚いてなにも言えなくなった。
「東京の商船会社の友人や後輩にいろいろと話を聞きに言って、彼女の実家の住所だけなんとかわかったんだ。俺、なにも知らないで会いに行ったから、連絡に応じてくれた妹さんが『今治の社長さんとした約束と違う』と怒り出して、なんのことかわからなかった」
晴紀には知られないことを条件に証拠を渡してくれたご家族としては、それは晴紀が話をしたいと会いに来たら怒るのも当然かと美湖も思う。
「でも、俺もなんのことかわからないけれど、俺自身が疑問に思っていることを知りたい、母にも今治の伯父にも誰にも言わずにここまで辿り着いたと主張したら、妹さんだけ外で会ってくれた」
そこで晴紀が正直に事情を話し、明らかにしたいと望んでも、妹さんは今治の伯父と従兄同様に『姉は結婚して、当時の誰とも会いたくないと言っている』と説明し、姉の連絡先は教えてくれなかったと晴紀が話す。
晴紀も諦めたが、そこで『妹さんが教えてくれないのなら、一人で嫁ぎ先を調べる。彼女に会うまで諦めない。こっちも自分と母親と、これから関わる人との将来にかかわるから絶対に引かない』と強い姿勢を見せると、そこで妹が折れてくれたとのことだった。
「彼女が……。そんな俺を見て『姉があなたに憧れて、泥沼から抜け出ようと決心したのがよくわかりました』と訳がわからないことを言いだしたんだ。そこで、彼女の実家に連れていってもらって……、彼女の部屋……で、その……」
もう寝ているだけの意志があるのに言葉も交わせない彼女と再会したと晴紀が涙混じりに教えてくれる。美湖も悲痛の表情しか表せない。
「彼女、意志はあるんでしょう」
「少し、目が動いて。それでここ数年で少しだけ疎通が出来るようになったと妹さんが……」
「彼女、晴紀君を見られた?」
晴紀が少し申し訳なさそうに頷いた。でも美湖は毅然と答える。
「嬉しかったと思うよ。きっと二度と会えないと彼女は思って死のうとしていたんだから。しかも晴紀君から会いに来たんだから」
「でも。彼女は知られたくなかったはずだから……」
「どうかな……。でも……、彼女は状態はともかく、開放されたんだもの。でも、毎日がとても長いと思う。三年経っても悪夢にうなされるかと思う。でもそのなかで辛くて暗い毎日の中でも、唯一、自分の尊厳を守ってくれた晴紀君の姿を何度も思い出したと思う」
「妹さんも……、そう、言ってくれた。だから、会わせる気になったと……。それに……、姉さんは今日、少しだけ頬が赤くなって穏やかな顔をしているって」
晴紀が彼女の手を握って『会えてよかったよ』と声をかけると、彼女が涙を流してくれたという。それを見た妹さんが、その後、なにもかも話してくれたとのことだった。
「伯父さんが俺と母ちゃんを守るために、あいつの実家の両親を撃退してくれたことも、彼女のその後のケアを万全にして守ってくれていたことも感謝している」
だがそこで、晴紀は頭をうなだれる。
「ただ、戦うための交渉条件として彼女の事実を俺に隠すことが必要だったとはいえ、母も真実を知らずに苦にして命を絶とうとしていたことだけが、申し訳なくて。ほんとうに危うく、違う事実で母を失うところだった」
「ハル君……。伯父様はなんて言っているの。このままだと、清子さんはハル君の気の強さが災いして起きた出来事で、母親の私の責任だとずっと思っていくことになるよ」
「ごめん。彼女のことはやっぱり言えない。彼女の妹さんは、お母様が苦にしているならばお話ししてもかまわない。ただ話した時はこちらに連絡をしてほしいと許可はくれたんだけれど」
美湖も溜め息をつく。
「そうだね。ちょっと惨い話だものね。いまやっと清子さんは明るく外に出始めたところなのに」
「彼女が結婚を苦に死のうとしたから、後輩のあいつも後を追ったことにしようかと思っている。でも、そうしても、あいつが俺の真横にいた時に死ぬタイミングを選んだことは、どうあっても俺とあいつの険悪な関係が原因なのは逃れようがない。母はそこを、俺がきちんとできなかったことは悔いていくと思う」
「そっか……、そうだね。でもぼかしても、そう伝えた方が幾分か清子さんは救われると思う。だってハル君のなにもかもが死ぬ理由ではなかったんだから」
やっと晴紀も落ち着いたいつもの顔に戻ってきて、頷いてくれた。
美湖も落ち着いてきた。やっとコーヒーが届いて、ふたり一緒にひと息ついた。
カジュアルでもきちんとした服装で彼女に会いに行ったんだなと改めて思った。
「わ、おいしい。なにこのコーヒー。これ横浜とか東京では飲んだことないかんじ」
「だろ。ここの社長さんが淹れてくれるともっと美味いらしい。本店で時々淹れているらしいから今度行ってようか」
晴紀からそんな提案をしてくれて……、美湖の心がほぐれていくのがわかる。
ほんとうに晴紀が戻ってきてくれたんだと。
「それよりさ、先生、今日のうちに島に帰るつもりなのかよ」
「え、ハル君と一緒にと思っているけれど」
「母さんには連絡しておくからさ。今日だけは、俺と一緒に一日、ここで過ごそうよ。島に帰ったら診療所の先生になってしまうだろ」
診療所の先生になってしまう、だから、今日はそうでない美湖と一緒にいたいと晴紀が言ってくれて……、美湖は年甲斐もなくちょっと頬が熱くなってなにも言えなくなった。
「お父さんと泊まっていた旅館はチェックアウトしたんだろ」
「うん。した」
美湖の足下には旅行カバンがそのまま。晴紀もそれに気がついていた。
「今夜は俺と一緒な。そこの新しいホテルを予約したから」
「う、うん。わ、わかった」
今日は俺と一日一緒なと言ってくれたうえに、頼もしく男らしいリードに、かえって美湖のほうが慌ててしまっていた。
やっと男の余裕とばかりに満足そうにコーヒーを味わい始めた晴紀を見て、美湖も微笑む。
「私、わかっちゃうな。彼女の気持ち。ほんとうに、ハル君が綺麗に見えたんだと思う」
「綺麗って、なんだよ、それ」
「心が綺麗な人て意味。それでも、ハル君みたいなかっこいい子なら、白馬の王子様に見えたかもねえ」
「はあ? かっこいい『子』てなんだよっ」
せっかく男らしく年上の彼女をリードしたのに、そうやってすぐに俺を年下扱いすると晴紀がむくれているのがわかる。
「またセンセ、俺をからかってんだろ! 先生だって、心では俺が白馬の王子なんて思ってないくせに!」
「うん。私はね、ハル君の綺麗なお尻が好きだから」
目の前でアイスコーヒーをすすっていた晴紀が咳き込んだ。飲み込む時に力が入って気管支に入ってしまったようだった。
「あのな! なんだよそれっ」
「いつも私が見とれていたの気がついてなかったんだあ。だよね、後ろ向いている時に私が見とれているんだから」
「あ、くっそ。気に入っていたハンカチにコーヒーの染み付いただろ。もうほんっとセンセは、」
「かわいくない?」
美湖から言ったが、晴紀がむくれながらも黙った。
「その、かわいくない……に会いたかった」
「もうハル君しかいないね、ほんとに」
「あたりまえだろ。もう、センセには俺しかいないんだからな」
やっといつものふたりに戻れた気がした。でもそこで晴紀がその強い目線のまま美湖に言った。
「来月、相良のお父さんが来たら。『美湖サンをください』ていうつもりだけれど、先生、いいよな」
今度は美湖がコーヒーを飲み損ねて咳き込んでしまった。
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