先生には、ナイショ②
「くそ。追いかけて行こうにも方向がわからない……」
歯がゆかった。それさえわかれば、彼女を追いかけていけるのに。いや、自分も呑んでいるから運転など代わってやれない。走って追いついていってもなんにもしてやれないじゃないか。
「他に運転できる人を――」
ダメだ。今日、このあたりの男たちはみんな吾妻に招待されていて呑んで帰ってきている。愛美もまだ市街で兄貴と夫と二次会が終わっても楽しんでいるはず。幼馴染みの誰もいない。岡ちゃんはお父さんと呑んでいるだろうからこちらもダメ。
「美湖さん……、わかっていて、ひとりで飛び出していったのか」
俺にひとこと言ってから行けよ。そう思った。でもきっとその伝える時間も惜しかったに違いない。すぐに駆けつける。それが診療所の医者、少なくとも美湖先生はそう。
なんの連絡もなく……。一時間が過ぎる。追いかけることも手伝うこともできず、伝言もなく、ただ晴紀は診療所の待合室で待ち続けた。
やっと診療所のドアが開いて、晴紀はハッと振り返る。
「ただいま」
やっぱり。結婚式のスーツの上に白衣を羽織って、ドクターバッグ片手に帰ってきた。
とても疲れた顔をしている。
「センセ、どこに行っていたんだよ」
「……山路さんのところのおじいちゃんが痙攣を起こしたていうから」
「それで」
「うん、大丈夫だった。気になることがあるから港病院で検査をしてもらうよう救急に引き渡した」
医師の守秘義務のため、どこの誰がどういった症状だったというのは美湖の口から詳しく語られることはほとんどなかった。
でも晴紀はほっとした。山路の家なら、岡ちゃんの家がある漁港沿い、少し向こう。走っていけば確かに辿り着けるところだった。
「どうして俺を呼んでくれなかったんだよ」
「え、ハル君シャワー浴びていたし、裸じゃすぐに支度できないでしょう」
それもそうだと晴紀はぐっと黙るしかなくなる。
「二人ともお酒が入っていて運転は無理だし、山路さん宅なら走っていけると思ったから」
晴紀の中でもやもやしている。彼女が悪いのではない、自分がなにも手伝ってあげられなかったことについて自分に納得できていない。
なのに美湖がそんな晴紀を見上げてなにか気がついた顔。
「ハル君、ありがとね。きっと俺が運転して連れていってあげたかったとか思っているんでしょ。ハル君、そうしてなんでも完璧にやろうとしなくていいんだよ」
ハッとさせられた。
「いや、俺。そんな完璧とかじゃなくて――」
「でもハル君、こうしたら良かったとか、こうしてあげたかったとか、いつも考えているでしょ」
それにもドキリとさせられた。
「もし一緒にお酒を呑んでいなかったら、ハル君が裸でも『運転して!!!』てシャワー室のドア開けて叫んでいたから。その時に真っ裸であそこ丸見えでも怒らないでね」
あそこが丸見え!!! ドアをがばっと開けられて『ハル君、すぐに運転して!!!』と本当に先生にやられそうで、また晴紀はギョッとさせられた。
出た。明け透けな先生の、奥ゆかしさの欠片もない返答が!
もうまたびっくりして晴紀は目を覆ってうなだれた。
「えっと、うん、わかった。そんときは俺、素っ裸でも泡だらけでもすぐに服を着て運転できるから」
「バスタオル一枚巻いて運転席に乗るだけでもいいんだよ。そのほうが早いなー」
さらに上を行く返答が着て、またまた晴紀は目を丸くした。
「なんだよ、それ! 下手したら変質者になるじゃないかよ!」
「大丈夫だよー、奥さんになるドクターの指示で運転してくれるんだから。ハル君のあそこがすーすーしても命最優先だよ」
あそこがすーすーしても……!? もう本当にそこまで明け透けにけろっと美人の顔でいうから、晴紀は気が遠くなってしまう。
「くそ、絶対にしない。そんなこと絶対にしない!」
「やだなあ。裸ぐらい。毎日、私に見られてるじゃん」
そんなことをまた平気な顔で言う! しかもあのツンとした真顔で言うことがあって、本気で言っているように見えて晴紀はいつもドキッとさせられている。
「も、俺がどれだけ心配したか、大変だろうって案じていたのに……先生は、もうほんとに」
かわいくない!
いつもの一言が出てしまった。
「ああ、いつものハル君のシメが出たところで、私もシャワー浴びようっと」
白衣のまま靴を脱いで、彼女も診療所にあがった。
そういいながらもすぐにシャワーではなく、診察室に出向いていく。まだドクターの顔だと晴紀は思った。
「センセ、腹空いていない?」
診察室を覗くと、もうデスクに座ってパソコンの電源を入れている。
「まだおなかいっぱい。今日のお料理、披露宴も二次会もおいしかったねー」
「そうだな」
画面が立ち上がると、彼女はドクターバッグからカルテをとりだし、それと向きあいながらの入力を始めてしまった。
ああ、これはまた。しばらくはドクター美湖のままだなと晴紀も諦めた。
そしてまた晴紀は気がつく。またやられた。俺が心配していたのに、いつのまにか先生の明け透けでびっくりする口ぶりに振りまわされて、結局『私はなんともない』とばかりにさらっとかわされていたと。
そう。あれが彼女の『私は大丈夫だよ。そんなに心配しなくてもいいよ』の気遣いなんだって。
キッチンでひとり冷蔵庫の食材を確認しながら、晴紀はまたうなだれる。
もう、なんだよ。結局、大人の先生に上手に宥められたのは俺じゃないか。
手伝ってあげられなかった自分を責める前に、先生の達者な口に見事にそんな苛む自分を撃退された気分だった。
「あっさりめ、きつねうどんでいいか」
冷蔵庫にあった『油揚げ』を小鍋で甘辛に煮始める。もし今夜食べられなくても、明日の昼飯にすればいいと思いながら。
そろそろ先生も仕事が終わったのではとコトコト煮ている揚げを眺めていると、また誰かの声が聞こえる。
『先生、美湖先生!』
女性の声がして晴紀もダイニングから診療所へと繋がっているドアを開けて覗くと、小学生の男児を連れた母親の声だった。
白衣の美湖が診察室からすぐさま出てきた。
「武井さん。大地くん? どうしたの」
「熱が昨夜から下がらなくて――、もしかして……」
インフルエンザ? と母親が首を傾げた。
美湖が腕時計を見る。
「昨夜の、いつから」
「気がついたのが夜の20時ぐらいです。でも今日は先生、結婚式で島を出ていると思って様子見をして……、全然熱が下がらないから休診日だけれど来てしまいました」
美湖がちらっと肩越しに晴紀を見た。
「ハル君、こっちにこないで」
インフルエンザかもしれないから、ということだとわかったから頷いて、晴紀も大人しくダイニングへと戻った。
またいつもの『診療所の先生』に戻ってしまった。
しばらく診察室から先生と母親の声が聞こえていたが、幾分かして静かになり、診療所正面から車が走り去った音が聞こえた。
美湖がダイニングに戻ってくる。
「おまたせ」
「インフルエンザだった?」
「うん。検査したらそうだった。そろそろ発症する時期だもんね」
疲れているだろう彼女にコーヒーか紅茶か聞くと、コーヒーと希望したので、晴紀は淹れ始める。彼女愛用のはちみつも準備して。
「ね、早めに予防接種しておいて良かったでしょ」
いつもはインフルエンザが流行りだしたと聞こえてきた頃から、外に出たがらない母を説得して人目が気にならない市街の個人内科へ予約して海を渡って接種しに出掛けていた。
今年は気がつく前に美湖から『そろそろ子供達の予防接種が始まるけれど、ハル君と清子さんもするよね。ワクチンのオーダーしておくよ』と先生から言いだした。
先生が打ってくれるとわかって、母の清子がとても安心していたし、晴紀も遠くまで連れて行かなくて済んで母の負担も少なく非常に助かった。
その時も先生がちょっと悪戯な笑みを見せて晴紀に注射器を見せた。
『なーんか、夫になる男に針を刺すの、ドキドキするわー』
なんて妙なことを言ったので、また晴紀はびっくりしたり頬が熱くなったり。
『マジメにやれよ、センセ』
『はーい、ハル君。暴れないでね~、大人しくしてね~、いい子ねー』
『なにいってんだよ!』
また男の子扱いかよと目つきを悪く睨んだ瞬間にぷちっと打たれてしまう。それにも晴紀が『びっくりするだろ』と怒っても、センセは知らん顔。でも痛かったはずなのに、痛いのとんでいけーみたいな気分になったのもやっぱりナイショだった。しかも針を刺した跡に貼られたテープが、かわいいクマのイラストがある小児用テープでまた晴紀が怒って、美湖がツンとして。それを母がまた楽しそうに見ている。そしてセンセが母には優しく丁寧にしていたのがまた腹立たしい。
その時に『美湖さんはどうするのか』と聞くと、医師は自身の診断や処方をするのは禁じられているため、他の医師に患者として診てもらわなくてはならないとのことだった。
『吾妻先生に頼んであるから。逆に吾妻先生も他の港病院の内科医先生に打ってもらっているっていうから、私もその先生に打ってもらう予約しているよ』
とのことだったが。港病院の内科医先生て、確か四十ぐらいの男性医師だったなあと思い出し……。
先生、その男の先生に診察問診してもらうのかよ、センセに触るのかよ――とその男性だって医師目線でやることだとわかっているのに晴紀は嫌だと思ってしまった。
どうせなら、どこかの知らない先生にしてもらいたい。顔見知りにしてもらうのやだなあ……と。
「子供は二回打たなくちゃいけないから大変だよね。そっか、私も産んだら予防接種の嵐になるのか。どうするか考えておかなくちゃ」
「子供の予防接種てそんなにあるんだ?」
「あるよ。私もわかってはいたつもりだけれど、島に来てママさん達が希望して接種に来るのを目の当たりにして、こんなにこんなに次から次へと打たないといけなかったんだとびっくりしてる。しかも最近、いろいろ増えているし、おたふくとかは任意で料金も高いんだよね、びっくりだよ」
生まれて数ヶ月になにを、何ヶ月と何歳までにはなにを……、二回目をこの頃に接種。これとこれは任意で五千円以上と聞いて、晴紀も頭が混乱してくる。
「先生が忙しかったら俺がやるから」
思わずそう言っていた。
「え、ほんとに! ママさん達に混じって、若いパパがだっこして順番待ちとか!」
「若いパパってなんだよ。俺だってそれなりに適齢期だと思うよ。島の子供たちが俺のこと『おじちゃん』と呼ぶだろ。あれ、自分の両親と同世代か年上だからだよ」
美湖がびっくりした顔を見せた。
「そういうことだったんだ! もうずっと気になっていたの。ハル君みたいな若い男の子が『おじちゃん』て呼ばれているの。だって、そうしたら私なんて完全にオバサンじゃない!」
そっちは二十代で、私は三十代だもん。突っ込むのも怖かったと美湖が恐れおののいている。
そんなセンセ、気にすんなよと笑い飛ばしたかったが、また『男の子』と言われたことを逆に晴紀は気にしてる。
二十代でも三十代でも、俺と先生はそんなの関係なく一緒に自然に過ごせているじゃないかよと……。男の子なんかじゃない。俺は先生のそばにいる『男』だと言いたい。
「ん? ハル君……、怒ってる?」
うわ、また目つきに出ていたかと、晴紀はすぐさまにっこり笑ってしまう。
「センセ、はいコーヒーできたよ。ハチミツはスプーン二杯だったよな」
「うん、ありがとう!」
気が逸れたようでほっとする。
やべえ、この目つきになるの。愛美や母だけじゃない。先生もなんとなく読みとってきた気がする。
晴紀は眉間にしわができないよう指先で伸ばしてみた。
「それから、予防接種を母親がやるだなんて決まってないだろ。できるほうがやる。俺たちはそれでいいだろ、結婚してからも」
「そうだね。そんなハル君だから、私、結婚しようって思えたんだよ。そうでなければ、結婚なんて自信ない」
晴紀だから。そう言われたら年下の男も安堵する。センセ、俺も同じ。美湖さんに必要と言われることが自信になる。
この男しかいないと思ってもらえること、医師をしている妻となる女性から、パートナーとして自分しかいないと言ってもらえることがいちばん自信になる。
・・・◇・◇・◇・・・
その日の夜は、美湖の父親が外泊していたため、二人きり。
彼女がようやく花の匂いをさせて、ベッドに入った。
晴紀の隣に彼女がやっと来て、甘い匂いがして晴紀はつい彼女に抱きついた。
「すげえいい匂い」
薄着で晴紀のそばに寄り添ってきた美湖の肌は風呂上がり、花の匂い、肌もしっとりして熱かった。
「起きていたの? 早く眠らないと明日の漁の時間、起きられないよ」
「大丈夫だって」
彼女にぎゅっと抱きついた晴紀は、存分にその匂いをかいだ。
「もう、ハル君ったら」
それでも彼女も晴紀に抱きついてくれる。
「こんないい匂いがそばに来たら、もうなくちゃならいものになっちゃただろ」
「それは私も同じだよ……」
センセからちゅっと晴紀にキスをしてくれたので、晴紀は思わず頬が緩んでしまう。そのまま自分からも彼女のくちびるにキスをする。彼女が愛おしそうにしてくれた触れあいの印みたいなものじゃない、男の晴紀からは深く誘う濃密なキス。
愛しあいながら、晴紀はいつも心で呟いている。
俺のなにもかもを、センセにあげるよ。
なにもかも、センセの思い通りだよ。
センセのために、俺……、なんでもする。
そんな美湖さんに服従したような気持ちも、絶対にナイショにしないといけない。
このセンセに負ける男はそばにいられない、きっと。だから……。
吾妻先生の結婚式、二次会、島に帰ってきたら急患二件。疲れているセンセは、晴紀のすぐ隣で微睡んでいる。
晴紀は目が冴えて眠れずにいる。汗ばんだ素肌に、しっとりとした彼女が抱きついて眠っている。晴紀も彼女を腕の上に眠らせたまま、黒髪を撫でて、潮騒を聞いている。
「シアトルか……」
彼女とシアトルへ行く。
これからどうすべきか。晴紀はもう頭の中にその道筋と日程を思い浮かべていた。
まずは伯父と従兄に知らせなければならない。漁協も辞めなくてはならない。それから……。
波の音が聞こえる中、晴紀はそっと微笑んでいた。
「また、俺……、始められるんだ」
この先生と。もう島の中で母と閉じこもって暮らさなくても良くなったんだ。
望む女性と結婚をして、そして、その彼女と外の世界へともう一度。しかも海外へ。
うっすらと涙が滲んだ。自分でも信じられないほどに。
この先生が来なかったら、俺はどうなっていたんだろう。
母とこの彼女を、俺が守っていく、連れていく。シアトルまで。
静かに眠っている美湖を、晴紀はそっと抱きしめた。
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